乳がん ステージ3の壁は厚い

(お食事中には不適切な表現があります)

転移か完治か。運命の日だ~!!と勝手に思っていた。
闘病開始から早8か月抗がん剤を12回も続けた。
一度も白血球数値が低すぎるということなく、肝機能も異常なく3週間に1回、スキップゼロで打てたのはすごい。らしい。
たしかに肌荒れもなければ痩せもしない。(当人は痩せたいのですが)吐きもせず食欲旺盛。
お友達は「早く元気になってね」って言ってくれるが、元気なのだ。生存率50パーだけど。

もとはすこぶる健康だったというのがうれしいような、皮肉なような。

困ったのはむくみで顔がはれ目が小さくなり人と目が合いにくくなった。
私は目をみて話したいのに相手が合わせてくれないのだ。
自然ととこちらもうつむき加減になり、人と積極的に交流しなくなった。
大きな瞳というのは女子高生がのりを貼ったり整形したりしてでも手に入れている価値があるものだという気持ちが少しわかった。二重瞼は戻ってくるのだろうか??

足も手もパンパンで日常生活もしんどくなっていた。

こわいのは排泄時、トイレが血に染まることがありもしや転移している?
ということだった。他臓器転移があったら、もう寛解はむずかしいだろうから、辛い治療をつづけて生きながらえるより、緩和ケアに入り、副作用なくさわやかに過ごせる日が一週間でもほしいと医師には伝えていてあっさりオッケーしてもらっていた。

MRIとエコーの画像を見ながら医師は言った。
「だいぶ小さくなっていて、抗がん剤はかなりきいていると言える。
おっぱいのしこりはもう石灰化してもはやがんではないかもしれない。
ただ胸内リンパ節にまだガンが残っている。手術をできる段階ではないが、抗がん剤を続けるにももう健康細胞が限界だろう。
抗がん剤はストップしてトラスツズマブヘルツマブ(分子標的薬)だけ続けましょうか。」

ガーン!オペはまだできない。
というか「寛解をめざす」というより「がんと共存」と言うシナリオか。

療養休暇は来年の5月まで。それまでにオペが終わり復帰できるという見込みがかなり減った。
いちど仕事を辞めると40代、再就職なんて絶望的なのは分かっている。

いままで平均年収を上回る額をもらっていたし福利厚生もばっちりだった。
パートの使い捨て勤務なんて死んでもしたくない。

かといって起業できるようなセンスもないし。

中学受験から、大学受験、氷河期の就職難、と数々の試練を乗り越えて手に入れたキャリアがあっさり崩れる音が聞こえた。

なんのために人生頑張っていたんだー。

肝心の婚活、はしていなかったけど食事に行くくらいのボーイフレンドはいたが、この病気の人生につき合わせるわけにはいかない。病気を理由に振られてもショックだし、病気でもいいんだと言われても困る。と自ら疎遠にしてしまった。

12歳からテントの骨組みを丁寧に立て、どんな嵐にも耐えうるように立て、あとは帆を張るだけだ。というその直前に落雷にあったような気分だ。

40代前半ここが勝負時だし、ここで失敗したらなにもかも遅い。と言う時期に。

「ダンサーインザダーク」という悲劇の映画を思い出した。

人生うまく行きそうになると裏切られる、というなんとも胸糞悪い結末の映画だった。

でも確かあれは人に裏切られる映画だったなあ。
私は身体には裏切られたが、人には裏切られていない。
むしろ病気になって人のやさしさをひしひしと感じる場面が多くなった。
そう考えると不幸ではないのかもしれない。

18歳の時は「一年浪人したら人生おわりだ」と思ったけど今考えたらちっともおわりじゃないし、その一年たいしたことないよ。と思う。

闘病も長い目で見たらもしかしたらその一年、たいしたことではないのかもしれない。しがみついていたキャリアも実際捨ててみたらたいしたことではないのかもしれない。

「病気になった」ではなく「病気という経験をしてみる」と思ってみる。

幸い金運だけは異常によいので、働かなくても闘病を継続する経済的余力はあり、(毎月かかる医療費ときっちり同じ額が病気になったと同時に民間保険以外でも不労所得で入るようになった。「宇宙銀行」というのはほんとうにあるのだと思う。以前からお金があまると募金していたのがよかったのかもしれない。この話はすると長くなるのでまた次回)あとは精神面を整えるだけなんだ。

励ましてくれるお友達いるので、わたしはまだ死なずに生きていきたいと思う

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