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触法少年 悪は成敗か更生か

悪は成敗すべきか、更生を信じるべきか。

わがセンターも、触法ぎりぎりの不良少年は来る。
(根本に発達障害はあるのだが、発達障害が悪事を直接引き起こすことはない。
発達障害が引き起こす親や教師の不適切な叱責やいじめなどによる二次的な問題として不良行為が出てくることはる。)

わたしが一番苦戦するパタンである。

高校生。発達障害。知能に遅れナシ。
友達の服を脱がせ、数人で恐喝。数万円をとった。

悪い。完全な悪である。ニュースで見たら恐ろしいとしか思えない。

何度も言うが「発達障害」だからしたのではない「発達障害をきっかけに社会との関係がこじれた結果」であり、障害がなくても社会との関係がこじれていれば起こる。

本人も同席して母と面談した。
でも、本人を目の前にすると、悪だ!と成敗する気がおこらないのである。
まだあどけない少年である。しかも母に連れられてセンターに来るのである。


悪魔が果たして母とはるばる坂の上の支援センターに電車を乗り継いで来るだろうか?

人の目を見られない、自信のない暗い表情、健康的でないのは確かである。
ぼそぼそと自信がなさそうにひきつった笑顔を作って不器用に最近のことなど話す。
そんな本人を見て思うのは決まってこうだ。
「どんなにつらいことがあなたをそうさせてしまったの?」

丁寧に成育歴を聞いていく。母とも面談を重ね、表面のことばではなく、言葉尻、まなざし、ふとした反応などを丁寧に探る。本音を話すまで根気よく待つ。ちょっと弱音が出たところで

「どうにもならないときはどうしたの?どう思った?」

と本音を話すきっかけを作る。

やはり、幼少期には子どもに手をあげており、今も

「この子がいなくなれば」

という本音が出てくる。

愛されていない、と子どもが感じるには十分な証拠がある。

悲しみが彼を悪に仕立て上げている。なんとかしてあげられないだろうか。

私は警察官でも裁判官でもない。
福祉の人間としては適正な反応なのかもしれない。

でもやられた方の気持ちはどうだろうか。

何も悪いことをしていないのに、突然数人に連れられ服を脱がされ、コツコツ貯めたおこづかいを恐怖の中持っていかれる。

この恐怖はトラウマレベルでつきまとうだろう。

加害者の「悲しみ」なんて癒される必要があるのか。


いますぐ、同じ痛みを与えて集団から外してくれないか。

そう思うだろう。
わたしも被害者の親だったら、そう思う。

「少年院」に行くレベルなら、もう「司法に任せる」でよいのだが、この「ギリギリライン」でかかわるものとしてはとても頭を悩ませる。

「成敗」側に立ち、悪いことをしたのだから、殴りとばす、またはクラスで無視する。
退学にする、などして集団から排除する。としたらどうだろう。

たぶん彼なら、悪い集団に入り、より悪への道へと突き進むだろう。

わたしのように「何が辛かったのかな?」と心をいやす方に考える人間ばかりだったら、どうだろう。

多分、どれほどひどい悪事を働いたのかわからず、「しめしめ」と悪事をくり返す恐れがある。

結論から言うと「成敗」タイプの人と「更生」タイプの人間が世の中には両方必要なのだろう。

学校に言っても誰も口をきいてくれない、最悪「退学」となる。干されて初めて「俺、やばいのかな?」と気が付く。ここで表面の反省のことばを並べるかもしれない。


この反省は表面なので、何度土下座をさせたところで、ネクタイを締めて謝罪の言葉を並べたところで、何の意味もない。

集団に戻るための「処世術」である。


いわば、この「恥さらし」自体が成敗の意味も持つこともある。被害者の気持ちを納得させるにもこの儀式は必要だ。

怖いのはこの「儀式」だけ終わらせて社会復帰することである。本人は何も変わってない。

むしろ「悲しい顔して頭をさげれば、みな許してくれる」という新たな悪知恵を身に着けて終わりである。

ここから「更生」へとつなげていかないとなんの意味もないのである。

「成敗」タイプから「更生」タイプにバトンタッチである。

これをきっかけに「更生」へとつながるプログラムをようやく受ける気になる。
最初はむりやりきっかけでもいい。

本当に必要なのは世間様に頭を下げ続けることではなく、

自分の「悲しみ」「痛み」と向き合うことである。

私が好きな本で更生についてよく書かれているので参考までに。

岡本茂樹 『凶悪犯罪者こそ更生します』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

これでしか、本当の意味の更生はない。

被害者感情はそれでは納得しないかもしれない。
だから「少年院」や「刑務所」は厳しい生活という罰を与えながら更生プログラムを受けさせる。

入らない場合はやはり「干される」という罰のもと、更生する必要があるのだが、問題は収監されていないひとへの更生プログラムが少ないということだ。

例の少年は「警察官との定期面談」と「児童精神科医の定期面談」行っている。学校は自らやめてしまった。

彼は悪い。

でも彼が不幸になったところで誰も救われない。

もし、過去に自分を傷つけた人間がいて、数年後に思い出したとき「幸せになっている姿」と「不幸になっている姿」どちらを思いうかべたいですか?

「幸せになってね」とまではいかなくても「不幸を望む自分」ではありたくない。
誰もがそう思うのではないだろうか。

それは、成敗タイプも更生タイプも目指す世界はひとつ

「安心して人を信じ、愛し愛される」世界だからなのだと思う。

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