旅について
旅人である自分が、旅のさなか、他の旅人に出会うこともしばしば。
国内外どこでも旅をする人はいる。
世の中がコロナ禍であろうが何であろうが、お構いなしに移動し続ける人生を選択した人々たちだ。
世界の情勢とは別の流れで自分の生き方を貫こうとする姿勢には頭が下がる。
無論、僕も旅の空の下にいる間は、そんな日々を送っている。
人の手がふれていない原野とか極地を旅する人たちは冒険家であったり探検家であったりする。
とはいえ、今の時代、人跡未踏の地というのはさほど多くはないし、アマゾンの森林の奥深くでもたいてい誰かが訪ねた軌跡が残っていたりする。
個人的には、記録なんてどうだって構わない。素敵な記憶を自分の人生に残せるのであればいいのだから。地球の隅々まで人力で移動することに意義があるのだと思う。
今まで知らなかった、見たことも聞いたこともないところに足を運んで、そこで起こることにワクワクドキドキ感を感じるのがいいのだ。
初恋のように何かときめく感覚に満たされて、妙にテンションが上がるあの感覚がたまらない。
日々移動を続け、毎朝見知らぬ土地で目覚め、見知らぬ人々が行き交う町で起こり得る偶然を楽しむ。
その地を訪ねなければ出会いない人々がいるだろうし、その地に足を踏み入れなければ経験できなかったことを経験する。
いいことも悪いことも含めてそれが旅であり人生なのだと思う。
あらゆる事象をありのままあるがままに受け入れて、前に進んでいく行為が僕にとっては旅であり人生である。
そこに感情など挟む必要などないし、寛容な心と寛大な思いがあればそれでいい。
松尾芭蕉や種田山頭火は移動する過程で、自分のうちから湧き出るさまざまな思いを言葉にした。
短い言葉ではあるものの、後世にいる私たちがそこからイメージできるものがある。
芭蕉や山頭火の人柄であったり生き様みたいなものが伝わってくる。
しかし、それはあくまで自分という人間のフィルターを通じて感じられるものでしかないのであって、本来の芭蕉や山頭火自身が伝えようとしたものとはまた異なるものなのかも知れない。
とはいえ、旅をする人間なら何らかのインスピレーションがそこに同時多発的に起こるであろうことは容易に想像できる。
長く旅を続けていれば自然と発生する感情や思いのようなものがきっとそこにはあるからだ。
旅人とは、ある意味特殊な存在。特殊であるが故に、同じ思いを持つ旅人であれば同じような場面に同じような感覚を得ることは多々ある。
そういった感性を言葉にするのは時に難しい。どんなにボキャブラリーが豊富で、繊細な感覚を持っていたとしても表現し切れない複雑な感覚のようなものがあるからだ。
自分という人間の中にいる、また別の人間というか人格みたいなものがあって、旅に出て旅人になった時だけ自分の中に出現する。普通の僕が、普段の僕とはまた異なる僕と対話しながら旅を続けていく。そんな面白さもまたあるのだろうと思う。
旅はいい。旅はいいから続けたくなる。時に無性に旅人に戻りたくなる。
旅の空の下にいる間は自分の歳も忘れてしまうし、どうでもいい過去さえすっかり忘れ去ってしまって、とことん今にフォーカスできる。
若いうちに旅をしろと若者には言いたい。
でも、チャンスがあれば、いくつになっても旅に出ようと思えば出られる。仕事や家庭とかいろんな理由をつけている内は本気になれない証拠。それでは旅には永遠に出られない。
人生、いろんなしがらみを持っているせいで楽しめる要素を失ってしまっていてはもったいない。楽しむためにある人生で自分をすり減らすのは本末転倒。
お金だけでは解決できないことも旅が解決してくれることもある。
複雑な人間関係だって、旅に出てみればすっきりすることもある。
思い出に残るような旅に出よう。たくさん旅をしよう。
旅人であるならば、人生とは旅を楽しむためにあるといってもいい。
*アドヴェンチャー・ランナー高繁勝彦のメルマガ「週刊PEACE RUN(第499号) 」シリーズ「PEACE RUN~人・町・風景・できごと」から
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