老いと向き合う
「高齢者人口 過去最多を更新 総人口の3割近くが65歳以上に」
国内の65歳以上の高齢者人口が過去最多を更新し、総人口の3割に迫っている。
9月20日の敬老の日を前に総務省が公表したまとめによると、9月15日時点の高齢者数は推計で
2020年より22万人増えて、3,640万人となった。
総人口が51万人減少する中、高齢者が占める割合も29.1%と過去最高を更新。世界でも最高水準となっている。
また、65歳以上で職に就いている人は、2020年、906万人と9年連続で過去最多を更新し、ほぼ4人に1人(25.1%)が就業している割合になっている。
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「老齢(おい)はわれわれを不意に捉える」というゲーテの言葉があります。
それまで普通の暮らしを営んできたのに、ある日突然、自分が老いてしまったことに気づくのです。
それは、体力の衰えであったり、記憶力の劣化であったり、健康に対する不安であったり…。
老いに気づかされる時、人は大抵愕然とするもの…。
「まさか、自分が?」「こんなはずじゃ…」と思わずにはいられなくなります。
それでも、老いは確実にわれわれを捉えにきます。それを拒むことも無視することもできなくなります。
そして、最後には「こういうものなのだ」「仕方ない」と諦観することで自分を納得させるのです。
過去に何度か経験したことなのですが、自分自身ではなく、同世代の他人の老齢化を見て愕然とする場面。
それは、同窓会でした。
いとも哀れなくらいに老いてしまった同級生の姿。本当に同級生だったのかと疑いたくなるような変貌ぶり。
頭はつるつるになり、お腹もたるんでしまって、歩く姿ももはや老人。
まるでタイムマシンで10年か20年先に行ってしまったかのような彼の姿に愕然とさせられるのですが、次の瞬間に我に返ります。
浦島太郎が玉手箱を開けた後に鏡で自分の姿を映し出すような場面が頭の中にふと浮かんで、私はトイレに駆け込んで、鏡に映った自分の姿を再確認するのでした。
毎日見ているのでそう変わりはしないだろうとその場面では思ったものの、鏡で自分自身の顔の細部をしげしげと見つめれば、やはりそこには「老い」がありました。かさかさになった肌、目の周りの小皺…長く生きていれば、やはり経年劣化というものは避けられません。
油断をしていたら「老い」は急激にわれわれを捉えにくるのだということを悟った訳です。
人は、自分を誰かと比較することで優越感に浸ったり劣等感に悩まされたりするものですが、比較したところでどうにもならないという現実にも向き合わなければなりません。
要は、遅かれ早かれ自分にも変化がやってくるということを肝に銘じておかなければならないということなのです。
今年90歳になる両親の介護が昨年はじめ頃から始まっています。
人は子供から大人に成長していくのとは逆の段階で老いていくということを今目の当たりにしています。
一人でできたことが少しずつできなくなって、最終的には誰かの介護を必要とするようになっていくのです。
ひとりで食べたり飲んだり排泄したりできるというのはある意味幸せなことだと感じるようになります。
やがて、そういったことも考えられなくなって、恍惚状態のまま車椅子かベッドの上でじっとしている場面がやってくるのでしょう。
老いは老いではなく、ひょっとしたら人が成長(あるいは進化)していく過程の一つなのかもしれません。この世を去る前の段階で、幼い頃の自分を思い出させるために起きている現象だとも考えることはできないでしょうか?
いずれ私も両親と同じようになるということは間違いありませんが、老いに抗うことなく、潔く老いを受け入れることもメンタル面においては必要なことだと今は感じています。
ひいてはそれが、死を受け入れるということにもつながるのでしょう。
老いも死も、この世に生まれた時点で必ず発生するオプションのようなもの。病気や事故で早死にすれば老いを経験することはありませんがそれは例外として…。
今の年齢に合った生き方や考え方があるのだとしたら、これが還暦の私のそれ。
同世代の皆さんはどうお考えでしょう?
あるいは人生の先輩方にもぜひいろんなご意見を伺いたいものだと思います。
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