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オリンピックに見る人権理解の世代格差

自由と人権

オリンピックの某クリエイターの方の過去のいじめに関する報道、またSNSなどにおける、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる方々の差別容認とも取れる発言についての報道が散見されることにつき、もう一度人権について皆で考える機会が必要ではないか、そのように感じます。

人権は、人々が長い歴史の中で、自由を求める過程で生まれた民主主義において基本となるものです。
しかし、個人の自由が他者の自由を損ねることがないよう、互いの人権を尊重する必要もあります。

人権は我が国では、日本国憲法 第13条から29条、第31条から40条にあたります。
多岐にわたりますが、今回は、第13,14,19-21,24,25条に関連しお話しします。

1980年代の人権

1980年代の日本は、イジメも差別も現在よりたくさんあったと思います。
また今に比べ、ひどかったように感じます。

私自身の体験をお話しすると、首を絞められたり、プールに沈められたりと、下手をすると死んでしまうようなことがありました。

また、ある日突然、友達から口を聞いてもらえなくなり、変な噂を流されてからかわれたり、抵抗しようとすれば、また死にそうなイジメを受け、といったことが、普通にありました。

当時、テレビではお笑いといって、人を叩いたり、泥をかけたり、熱湯に飛び込ませたり、といったことを過激にやっていて、それを(体を張って笑いをとる)という一言で片付けていましたが、それをまねしたイジメもありました。

それが怖くて、いじめられないようにすることで必死の15年でした。

しかし、いじめられる側として何もしなかった訳ではなく、先生に相談もしてみました。
ただその時は、子供の悪戯程度の認識しか持たれず、自分でなんとかしなさい、逆に自分が弱さを克服しなさい、と言われました。
助言の通り出来れば苦労はありません。しかしこうしたことは皆ができることではなく、そういう意味では、私としては当時の大人を頼ることができませんでした。
まだ言えただけ良かったかもしれません。
先生に言って見つかればまたイジメになるケースもあります。

オリンピックの某クリエイターの話題は、彼の世代がこの80年代と被ることから、その時代のいじめる側の行為を想像すると、彼の話のようなことが普通にあっただろうな、と想像できます。

そういう時代の空気もあったので、イジメや差別については憲法の上の机上の空論で、人権意識は皆無の時代だったと思います。

親の世代の人権を想像する

当時の先生や親の世代は、戦後生まれの1950年〜1970年代の方々が多かったと思います。
今のオリンピックを運営する世代でもあります。
全ての方が、そうということではなく、世代の空気感として想像するに、この世代の方々は、高度経済成長期の過程で生きていくため、経済の立て直しが必要な世代であったため、人権よりまず生活の安定が必要でした。

そういう意味で人権についてはあまり考える時間がなかったのではないか、と思います。
また家庭においては戦争の影響があったと想像します。
戦場から戻ったご主人や息子さんの心がPTSDなどにより変わってしまったことで、家庭内暴力が生じたり、父を亡くしシングルマザーとして生活する必要が生じたりと、過酷な状況に置かれていたのでは無いかと思うのです。
そうした過程においてはまず自分が生きること、それが第一だったと思います。

しかし時が経ち、豊かに暮らせるようになった時、それまでのがむしゃらに働いて安定と引き換えに、戦後一人一人が抱えていた見えないこころの傷が、経済復興の成功体験とともに、後の世代に影響を与えています。

例えば、その名残が今の社会の
ブラック〇〇といった表現や、
ハラスメントの源泉、
DVといった暴力、
差別と聞こえる発言
につながっているのでは無いか、と思われます。

人権とは - 和の心の修復 -

東京五輪が決まった時、話題となったおもてなし。
では、そんな日本は本当は
おもてなし上手か?
和の心を持つ優しい国民か?

これまでの世代間を見ると、そうでない側面もあったのかな、ということが分かります。

生き抜くために、心からの思いでおもてなしをせず、世間体やコミュニティを生きる処世術としてしまうことや、ホントはしたくないが、親に怒られたくない、仲間外れにされたく無い、など周りを気にするあまり、無理に良い振る舞いを行い、本来の自分を殺してしまうことで、心と行動にギャップが生じていきます。
それはいつしかストレスとなり、吐口を求めます。
そのストレスの捌け口は時に、弱者に向けられ、イジメや差別、虐待、家庭内暴力として現れるのではないか、と推察されます。

いずれにしてもそこに和の心はありません。
しかし、見かけには思いやりがあるように見える。
それを日本の良さ、と勘違いしているだけで、本当の心はないものとなってしまいます。

全ての人がそうというわけではありません。
が、そうした空気が少なからずある、と思います。

オリンピックになって、色々上層の運営で起きていることは、そういうことが通用する時代を生きた人が、運営しているから、起きていることとも考えられます。

その結果、自分たちが当たり前と思ってきたことが、世界の目からは奇異に映ってしまう、日本の負のガラパゴスを見せてしまったのかもしれません。

そう見ると、戦後から、生活は豊かになったけど、心はまだ貧しい、あるいは歪んでいるのではないか?と思えるのです。

かく言う私もその時代を経験し、自分の中にそうした負の存在があること、闇の部分があることを知っています。
しかしそれと闘い心から和を体現したいとも思います。
そしてこれを経験した世代で終わりにしたい。

これからの若い世代には、上の世代のこうした側面を反面教師にもっと人権について関心を持って、人を大切にする、思いやるを、心でできるようになってもらえたら、ホントの意味で日本は和の心の国になると思います。

そこで人権について考える機会を全世代に提供したいと考えます。

人権を考えるアイデア

小中高では社会科の授業、道徳を通じ、人権について考える機会を設けます。
大学では一般教養科目として必須とします。
会社員の方は研修として最低2年に一回実施とし、うち一回は、憲法25条生存権などをもとにする人権維持の活動を体験していただきます。

自営業や職についていない方などについては、自治体で健康診断などの機会に受講、あるいは自治体主催のセミナーなどを受けていただきます。

日本の人権感と世界の感覚には違いがあることや、自分たちの心を振り返る機会として、このような政策を提案したいと考えます。

和の心 - 思いやり -が人権尊重になる

人権意識の根本は、自分と他人の違いの受け取り方にあると思います。
違いを認められず攻撃心となったとき、イジメ、ハラスメント、差別に繋がり、果ては戦争にもなりえます。

そのため、自身がどう感じているか、なぜそう思うのか、を知ることが大切と考えています。

例えば、自分と他人の違いについて、自身の心に問いかけてみたとき、自身がどのように感じたか?に気づくことです。
自分の感覚はご自身のものですので、まずそういう感覚を持つ自分がいる、ということを理解しておくことです。
そしてその心のまま、他者と向き合った時、

自身はどのような行動を取りうるか?
またその逆ならどうか?
相手が自身と同じ感覚だったらどうか?
自分のとった行動で相手はどう反応するのか?

など、その先の行動を想像してみてください。
うまくいく行動もあれば、相手を傷つけたり、逆に自分に跳ね返ってきたりすることもあると思います。

ご自身の心理、思想は人権として保護されるべきですが、他者にも同じようにそれが存在します。
従って他者の人権を傷つけてまで保護されるものではありません。

日本には、相手を思う思いやりと察しの心があります。
このことは、昨今悪い方に使われることも増え、忖度といった形になってしまうこともあり、良いイメージがないかもしれません。
しかし、本来の前提としては他者への愛を前提とした思いやりであり、行われることを願ったものだと思います。

人権尊重のため、行き過ぎる行為があるようであれば、国は法を持って仲裁や規制をしなければならないかもしれません。しかし、それもまた行き過ぎは皆さんの自由を奪うことにもなり、国としても決して望むことではありません。

そのため、人と人が分かり合えるよう努力することが大切です。
人権尊重の教育啓発の方針が、人権について相手を思う心と思いやりをもって、考える機会となることを願います。



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