Day2:トロッコ問題

今日は2日目。

YouTubeでたまに見ている”Atsueigo”の動画からインスパイア。

トロッコ問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。フィリッパ・フットが1967年に提起し、多くの哲学者が考察を行った。人間は一体どのように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合は、この問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。

「トロッコ問題」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2020年4月18日 (土) 20:43 UTC URL: https://ja.wikipedia.org

やばい、ちゃんと引用書いたの初めてに等しいんだけど。くそ大学生だってことがばればれだな。

さて、非常に有名なトロッコ問題を考えてみようと思うが、「動画内で是非英語であなたの意見を書いてみて下さい。」ってAtsuさん言っていたけど、眠くてそんな余裕ないので日本語で。

まず、前提条件として、列車がきていることと、その先の状態、自分の手元のレバーが線路上にいる人たちの生死を決めることができると理解し列車が突っ込むまでの間に、線路上の彼らに対してしてやれることがレバーの変更のみであるとする。つまり、全員が助かる道は一つもないということである。そうでないと、この問題を考える意味はないので。

一番最初に考えるのは、対象が自分の知っている人であるかどうかだ。どちらかが自分の知らない人であるならば、そちらを犠牲にしてしまうだろう。いずれも知人が含まれているのであれば、より自分と親しい関係にあるものを救おうとする。やはり、感情という不確かなベクトルを持ち出してしまうのではないかと僕は思う。功利的な判断を下すことなんてできない。

どちらも知らない人であるならば、僕は手を下さない。見て見ぬふりをするだろう。なぜならば、レバーを変えるということは、自分の手で人を殺めているのと同義であり、レバーを持ったときの質感、重さ、線路が変わる光景は二度と忘れることのできないものになってしまうから。また、自分が人を殺したという事実を最低でも5人、見物人がいるのならば、さらに多くの人に知覚されることとなる。他人からの視線、認識ばかり気にしてしまう弱虫な僕には耐えきれない状況、とても開き直ることはできない。一方、レバーを倒さなければ、死ぬ運命であったと、5人の死の責任を神に委ねることができる。生き残った一人から蔑まれることもなく、むしろ感謝されるかもしれない。周りの人からも、功利主義者でない限り、責め立てられることもない。結局、責任問題なのだ。誰が責任を負うのか。レバーを引くことによる殺人という責任をわざわざ負わなくても、この問題には答がないのだから法に問われることでもない。それなら人数なんて関係ない。人の命は数で優劣が付くのか?そうじゃないだろう?連続殺人犯と赤ん坊でも等しく裁くのか?このように道徳的な考えを持ち出せばいくらでも言い逃れはできる。

でも、意志が弱い、心が弱い、自尊心の低い僕は、どっちの選択を取ろうが一生、後悔という名の呪縛に囚われながら生きていくことになる気がしてならない。それならいっそ、一緒に列車に引かれる道が最適解なのかもしれない。いや、レバーを引いて一人の方へ列車を向かわせ、一生懸命突っ立っている一人に向かって走り出し、周りの観衆がもうだめだと思うくらいのぎりぎりで一人を線路の外に押し出し、僕は全員を救った英雄になる。そして、語り繋がれるのだ。かの有名なトロッコ問題を導いた伝説として。なんて格好のいい死に際だろうか。なんとなく生きて、なんとなく死んでいくよりも有意義な人生といえるのでは......

はぁ。そんなことができる人間はこんなブログを書きやしないよ。

結論:トロッコ問題は自分の理想と現実に向き合うために考え出された、多くの人にとっては余計なお世話だといわれるであろう、とある哲学者のエゴイズムである。

こんな文章を読んでしまった皆様、大変申し訳ないことをした。全部忘れて、自分と向き合うのもほどほどにして、自分の好きなこと、楽しいと思えることを見出して生きていくことをお勧めします。

ではでは。アデュー。

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