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Story - 北軽井沢MANAHOUSE

昭和38年、30歳そこそこの両親が、田舎を持たない子ども達の為に浅間山麓の北軽井沢に山荘を建てた。山荘といっても、最初は、廃業する近くのキャンプ場から譲り受けた三角屋根の6畳ほどのバンガロを庭に移設し、小さな流しを取り付けた「別荘」。トイレは庭に穴を掘り、板で囲んだワイルドな趣向で、お風呂は近くの旅館に入りに行くというキャンプ生活から始まった。

何度かの夏を過ごした後に、和室二部屋とダイニングキッチン、そしてトイレとお風呂を備えた母屋が建てられた。

私の記憶はその頃から。

翻訳を生業としていた両親は子ども達の夏休みが始まったその日の夜には車に食料や生活用品を積み込んで、北軽井沢へ、狭い東京の団地から飛び出した。
まだ夜が明けない頃に山荘に到着して、なんとなくほこりっぽい家に入り雨戸を開ける。これが、私の夏休みの始まりだった。

若くして独立し、仕事への緊張感の高い父も、ここでは気持ちも緩み穏やかになったもの。私の家族の温かな想い出の風景は、いつもこの北軽井沢の山荘。木漏れ日と、たき火の匂いと共にそれが記憶の中にとどまっている。

この家が建てられて15年後、両親は離婚し、父だけがここに通う様になった。

一人で淡々とここに通い、仕事をしながら庭を掃き、町まで買い物にでかけては野球を見ながら晩酌をする。そんな夏を何度か過ごした後に、父の横には一緒に仕事をしながら、晩酌をする人が現れた。

20年近く、2人のそんな静かな夏が過ぎ、2007年に父が他界。

そして、この家の持ち主は世代交代となり、私の元へやってきた。

久しぶりにこの家に入った時、あのほこりっぽい匂いと共に、封じ込められた時間の空間に押しつぶされそうになる一方で、思いのほか、小さく感じる空間に自分自身が過ごしてきたこの20年を感じた。いつも、誰かに連れられて来ていたこの場に一人で立ち、この止まった時間を動かさなければと思った。

ガレージや仕事場の押し入れには父の半生の時間と共に過ごして来た家具、本など、様々なモノがぎっしり詰まっていた。ほこりだらけのその全てを私の手で整理することに、最初は戸惑いながらも思い切って捨てて行く。容赦なく。モノが無くなって行くと同時に、時が動き出す。そんな感じがした。

その後、約4年かけて、少しずつ整理しながらこの家の将来を考えてきた。思いがけず、使われない家の老化のスピードと私のタイミングが合わず、途方にくれたこともあったけれど、2011年夏、この家は北軽山荘からMANAHOUSEへと生まれ変わった。

長年、手が入らなかったうっそうとした庭の木々は整理され、家と庭にお日様が入り始めた。父が一日のほとんどを過ごした仕事場とダイニングキッチンは一体化され、新しい集いの場に。夥しい数の本が置かれていたアトリエには鏡が張られて、スタジオに変身した。この家の原点である小さな小屋の空間も、もう一度ひらかれた。

60年の年月を経て、一つの家族の育み、そして破壊と再生を受け止めて来たこの家は、私たち家族それぞれの人生を見守るように、ここを訪れる旅人たちの人生をも抱擁していく。全ては旅のプロセスとして。

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