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8月のおわりに〜看護師をめざしたわけを思い出すには理由がある〜

私には右手がほぼない状態のいわゆる先天性肢体不自由児の弟がいた。そんな彼が6歳の時、私と言い合いをしている中、急に「鼻血が止まらない」と言いだした。ティッシュで押さえても押さえても血が止まらない。母が「これはおかしい」と病院に慌てて連れて行った。それから母だけ自宅に戻り、荷物をまとめ家から当時1時間ほど離れた大きな病院に入院することになり、帰ってこなかった。

私は、保育士を取得後、准看護師を取得し、正看護師になった。そして、正看護師として勤務したのちに再び障害のある子どもたちをみる療育で保育士をし、のちに児童発達管理責任者となる。現在は単なる主婦。

この転職しまくりの実績がどうしてできたのか、読み終わると少しは理解していただけるだろうか?めちゃくちゃなようで一応一貫性はあるその時その時で考えながら進んできた私の職歴のはじまり看護師を目指したそのわけについて語るのに欠かせないエピソードを記してみる。

こんな人もいるんだーと思い話を軽く読んでもらえると天国の弟も私も嬉しい。


白血病の発症〜闘病生活

どろっとした血液の感覚がいまだに忘れられない。弟の病名は、血液の癌と言われる急性骨髄性白血病であった。
今から、何十年も昔で骨髄移植が出始めの時期。治療法も確立しておらず手探り状態だった様だ。

母がこの時のことをたまに話すのだが3日に1日。輸血をしなくてはいけないのだが、その度に副作用と闘う。痒くて痒くて泣き叫ぶから痒み止めをもらう為にナースコールを鳴らすがなかなか来てくれない。
「看護婦さん、看護婦さん・・・」って言っては泣いて、母も「痒いね、痒いね」と冷やしたり、叩いたりすることしかできないのが辛かったと。

同じ母親になった身として、身に沁みる。そして、看護師として大変つらい思いを患者さんそして家族が感じていることに心が痛む。

強い副作用がでると分かっていても輸血とステロイド療法をしなければ命が繋がらない。
毎日が苦しみと葛藤のなかにいたことが容易に想像できる。

初めての家族の死


約1年間の闘病生活が終わった。8月31日。
台風の為に輸血便が間に合わず輸血ができなかったこと、肺炎の悪化で最後の時を迎えた。

吐血し、酸素マスクや点滴チューブを全部自分でとり「もう、おわり!」と言い放って、最後を迎えた。

私が死を経験したのは弟が初めてだった。何がなんだかわからないのに涙は止まらない。何がなんだかわからないのに悲しい。

火葬され、跡形もなくなり粉々になった骨を拾い集めるように大人たちにつかむものを渡される。
「これは何?」当時8歳だった私には理解が追いつかなかった。

看護師を目指した日


あの怒涛の数日を経験した中で、私の記憶に強く刻まれたのは母でもなく、父でもなく、なぜか弟を見送る医療従事者の姿だった。
涙を流し、最後までお辞儀をする医療従事者が頭から離れなかった。
そして、思った。

「私は、看護師になりたい。」

実際のところ、看護師になり分かったが患者さんや家族の前で涙を流す時間など特に新人の頃はない。毎日が必死だ。
また、涙をすることをプロでないと評価されることもある。

が、私はあの日、涙を流していた医療従事者の方が弟との最後の時間を共有していたんだろうと思うと、救いきれなかった命への弔いを深く感じた。

私にとっての8月


8月は自分の子供の誕生月でもあり、父親の誕生日でもある。そして、お盆。締めくくりの31日は弟の命日である。

本当か否か、何かの占いでラッキーナンバーは8ですと言われた。それもあり8月はなんだか自分にとって特別な月。

我が故郷のお盆は、とても派手なことで有名である。幼き頃から行っている風習のせいか。爆竹をならし、打ち上げ花火を墓前であげ明るく送迎をする。お盆の3日間は本当に一緒に時間を共有しているかのような錯覚にさえ陥ることもある。
しかし、もうあれから36年たち、諸説あるが人は30年から40年経つと生まれ変わるという。だから、もしかしたらもうお墓にはいないのかもしれない。

だけど、この8月が来る度に思い出してはあなたに会いたくなる。
喧嘩したまま、さようならをしたことを私は一生後悔して生きていることを伝え謝りたい。
そして、看護師や保育士、たくさんの子ども達に関わる仕事につくことを夢見たのは全てあなたが原動力だということを伝え「ありがとう」と言いたい。





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