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「つくね小隊、応答せよ、」(59)


浜は珊瑚の残骸で形づくられていた。
波が浜に押し寄せるたび、乾いた珊瑚同士がぶつかり合うちいさな音が聞こえてくる。
静かなこの半島の近辺には、艦影や米兵たちの基地もなく、艦砲射撃や突然の襲撃にも怯える必要はなさそうだった。

翌日から、清水は、魚を取る罠の「やな」を海に仕掛け、仲村は竹の先に銃剣を取り付けた銛で魚をとり、渡邉は原住民に教えてもらった草や木の実やヤムイモなどを集め、獣を狩ったりして、この半島での生活を開始した。呼吸の次に大事なことは、食べることだった。
食べて、寝て、歩き、食べて寝て、歩く。
今まで隠れて逃げ回っていた「戦争」という空気は影をひそめ、ただ生活をするという空気に変わりつつあった。戦争は、殺すべき相手がいるか、殺してくる相手がいなければ成り立たない。
三人は、徐々にこの半島を北上し、日本軍に合流しようとしていた。
けれども森は深く、日本軍や米軍どころか、現地の町や村、原住民たちの集落すら発見はできなかった。

半島を北上し、10日ほどたったある朝のこと。仲村が、怒りを抑えた口調で清水に向かって言った。

「おい、清水、お前、雑嚢、何が入ってんだよ」

そう言われた清水は、仲村の発言にはしばらく反応せず、ゆっくりと仲村の方を見て返事をした。その眼鏡の向こうの目には、どことなく冷たい光が宿っている。

「なんでそんなこと聞くんだ?」

「前から思ってたんだ、お前、それ、やけに重そうじゃねえか。一体、なにを入れてんだよ」

「関係ねえだろ」

「いや、関係あるだろうが。おい、見せられねえのか。何もねえなら、見せてみろよ」

仲村は、清水の雑嚢をつかんだ。
すると清水はそれに反応し、雑嚢を抱え込み、二人で雑嚢を引っ張り合う形になった。
しばらく様子を窺っていた渡邉が、二人が冗談でやっているわけではないと気づき、慌てて止めに入ると、運悪く清水の足を引っ掛けてしまった。清水は後ろに倒れこみ、清水が抱えていた雑嚢の中身が散乱した。

地面に散らばっていたのは、銀色の軍用缶詰だった。
渡邉は、わけがわからないといった顔で缶詰を拾う。今まで、食料がなかったから、土地の生き物を食ってきたはずなのに、清水はずっと食料を携行していた。
仲村は缶詰を拾い、清水を問い詰めた。

「どういうことだ、これ」

清水は地面の缶詰と、二人が持っている缶詰をかき集め、雑嚢へ戻した。

「見りゃわかるだろうが」

そしてぶっきらぼうにそう言う。
渡邉は、小さくため息をついて、うつむいて座る。仲村は鼻息荒く、清水へ言い返す。

「なんでこんなに、あるんだよ、隠してたのか」

「隠してる?関係ねえだろ。国から支給されたもんを、俺が、食わずに持ってるんだ」

「は?関係ない?な、なに言ってんだよ、そんなことねえだろうが!皆で米を出し合って食ったじゃねえか!」

「俺も米は出したが、お前たちは缶詰は出してない。なぜ俺が出す必要があるんだ。俺が食わずにとっておいたもんだって、言ってるだろうが」

清水の言う通りではあった。しかし、食料を隠していたことに対して、仲村は納得できない。

「いままでそのへんの草や獣食っててよ、お前は影でひとりで缶詰食ってたのか?あ?よくそれでお前、何事もねえような顔して俺たちと一緒にいれたよな!大学ってとこは、そんなことしか教えねえのか?おい!清水!」

清水は諦めたように、ゆっくりと座り、諭すように語る。

「食ってねえ…食わずにとってあるから残ってんだろうが。盗んだわけじゃねえし、俺が食わずにとってて、何が悪いんだ」

仲村は、“盗んだ”という単語に少しだけ驚いた顔をしながらも、さらに反論した。

「でも、俺たちが、腹すかせてる時によ、分けてやろうってならなかったんだろ?一体どういう神経してんだよ」

「お前は配られたもんをただ食って糞に変えたんだろうが。俺は食わずにとっておいた。お前は食ったもんを糞に変えときながら、俺が食わずにとっておいたもんを寄越せと口走る。お前こそどうかしてんじゃねえのか、これだから…」

清水は雑嚢を大事そうに抱え込んでからそっぽを向いた。

「これだから?これだからなんだよ、言ってみろよ、あ?
親の金で大学に行けたくらいでお高くとまりやがって。お前はなにか偉いのかよ」

その言葉に清水が顔色を変えて立ち上がり、仲村につかみかかろうとした。仲村も立ち上がり応戦しようとすると、渡邉はすかさず、二人の間に銃剣を突きだした。

ふたりの目と鼻の先に、よく手入れされた渡邉の銃剣が光る。ふたりがあとずさりして、渡邉が小さく言い放つ。

「清水が食わずにとっといたんなら、それは清水のもんだ。俺たちが口出しできるもんじゃない。もういい、やめよう」

そしてそれきり、三人の会話は途切れてしまった。

日没前になると、掘り返したヤム芋を食べる準備を渡邉が始めた。
仲村は清水の方をちらりと睨んでから、飯盒に海水を汲んできてヤム芋にかける。清水はバナナの木に登り、バナナの葉を銃剣で切り取る。
渡邉が火を起こし、清水はバナナの葉でヤム芋をくるんで置き火の上に置き、煙が分散するように、仲村が枝をいくつか上にかぶせ、火が通るのを待った。

しばらくして火が消えると、三人で枝をよけ、やけどに注意しながらバナナの葉を広げた。蒸された黄金色の芋から、芳しい香りの湯気が立ち上っている。
ほんのり甘いヤムイモが海水で蒸され、ねっとりと柔らかく、丁度いい塩味になっている。三人はそれを、火傷に注意しながら黙って食べた。
芋を咀嚼する音が、黄昏の沈黙の中で、秒針の音のようにただ響いている。
そうやって食べている間はよいが、やがて食べ終わると沈黙に静寂が加わった。
先ほどまでは、頭に血がのぼっていた仲村だったが、今は諦めたような顔をそっぽに背け、清水はずっと地面をながめている。渡邉は膝を抱え、なにもない空間を、ぼんやりと見つめていた。そんな沈黙の中、ゆっくりと太陽が没してゆく。
今夜はここで眠ることになりそうだ。

「さっきは、すまん」

日が沈みきった黄昏の沈黙のなか、清水がぽつりと呟いた。

「ほんとにすまん。浅ましいって、思ってるよな。すまん」

清水が本当に謝罪しているであろうことは、声の雰囲気でわかったが、ふたりは何も答えなかった。

「いや、あのさあ!実は俺、満州で病気になって、東京に戻ったんじゃねえんだよ、実は」

すると、仲村が昔をなつかしむような声で話し始めた。
清水が謝ったことに対しての話なのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
仲村の顔はいまにも泣き出しそうで、まるで空き缶が踏み潰されたようにくしゃくしゃだった。そのまぶたの隙間から、やがて、涙が流れ出す。

「俺、小さい時からさ、やめらんなくてさ。大人になっても、やめらんなくて。俺さ、満州で、満鉄の会社の仲間たちのさ、働いてるやつらのさ、モノを、盗むのが、止まらなくてさ、ぜえんぶばれちまってさ、あじあ号も満鉄も仲間も仕事も好きだったのにさ、やめらんなくて。
で、逃げるように東京に帰ったのよ」

そう言って、仲村は胸の隠しから一枚の写真を取り出す。
満州鉄道のあじあ号の前で笑顔で立つ仲村の写真だ。白黒写真だが、重厚なあじあ号の輝きが、最新鋭の列車であることを窺わせている。
仲村は、その写真を、ゆっくりと破り始めた。

「俺が、満州にいられないようなこと、何度もやってきたのに、みんな許してくれたのに、許してくれなくなるまで、盗んだくせによ、未練たらしくよ、こんなもん、大事に持ってさ、情けねえわ、ほんとに、情けねえ」

そして破った写真を、土のなかに埋めた。
仲村は砂場で遊ぶ子供のように、無心になって喋る。
それはいつもの仲村ではなかった。
まるで酒に酔ったように、言葉を吐き出している。

「ひとが持ってるもんがさ、どうしてもほしくなんだよ。だめだだめだって思ってても、どうしても手が動いちまう。
阿波の小学校でもそうだ。東京で働き始めたときもそうだよ。東京でも、すぐに職場にいれなくなって、逃げるように、満州で働くことにした。そして満州でも、結局…。だめだって思っても、盗んじまう。手が勝手に動くんだよ」

仲村は、清水の方を向いて、泣きながら、謝った。

「俺、清水の雑嚢から、なんか盗もうと、思っちまったんだよ」

仲村がそう独白すると、渡邉と清水が、彼をゆっくりと見据えた。

「ちらっと、雑嚢覗いたら、缶詰見えちまって、それで、そんなこと言えた義理じゃねえのによ、盗もうとしたくせによ、自分のことは棚にあげて、いったいどの口があんなこと言えるんだよって、ほんとに、情けねえ。俺は…俺を…やめてえ…すまねえ、清水…ほんとに、すまない」

仲村は、膝の間に顔を埋め、肩を震わせる。
清水も、渡邉もどういう顔をすればいいのかわからなかった。ふたりとも怒ったような悲しいような顔をして、考え続けるような顔で、仲村の言葉の続きを待った。仲村は膝の間に顔を埋めたまま、膝をぐっと握りしめ、ただ震えている。

「上野の駅に、俺は、捨てられてたらしい」

流れ星を見つけたかのような口調で、仲村はそう言う。

「ほんとの親の顔は知らない。物心ついたときには、孤児院のノミだらけの毛布を、他の子供達と取り合って眠ってた。それが俺の、一番最初の記憶。
でさ、ある時、きれいな身なりの男女がふたりやってきてさ、俺を指さしたんだよ。しばらくして、そのひとたちが、俺の父ちゃんと母ちゃんになった。
父ちゃんと母ちゃんには、子供が、できなかったらしい。
だから引き取られて、四ッ谷の家で三人で暮らすことになった。
父ちゃんも母ちゃんも、厳しかったけど、でも優しかった。
少なくとも、親のない俺にとっては、いろんなことが優しさにうつった。
それで、ある日、俺、妹ができた。
俺は嬉しかったよ。
親だけじゃなくて、かわいい妹が家族になるんだよ。
俺、嬉しかった。
だから、妹の世話、手伝いたくて、妹に、さわろうとしたの」

妹を懐かしむような顔をしたあとに、仲村の表情が停止した。そして、小石を放るように、小さく言い放つ。

「そしたらさ母ちゃんに“きたない”って手をはじかれた。それが、始まりだった、今思い返すと。
娘が生まれた瞬間にさ、俺は、お払い箱になったんだと思う。いらない子供になっちまった。そっからだ。なんか、人のもん、欲しくなっちゃって、盗むようになっちまったの」

仲村は、小枝を拾い、少しだけ指先でもてあそんでから、そっと地面に放った。

「近所のひとたちには、病気で田舎に帰すってことにしたらしい。いらない子供が、人様のもんを盗むようになって、ほんとにさ、めざわりだったと思うよ。だから、ほら、阿波のばあちゃんのとこに預けられた。
ばあちゃん、優しかった。東京から来たっていじめられるとさ、ほら、金長の社に連れてってくれてさ。話聞いてくれた。
父ちゃんと母ちゃんには、必要とされなかったけど、でも、ばあちゃんは優しかった。じいちゃんはとっくの昔に死んで、ひとりで暮らしてたから、俺が来たことをほんとに喜んでくれた。まったく血は繋がってないのに、
…でも、ある日、同じ教室に万年筆をもってるやつがいて、そいつの万年筆が盗まれた。
学校が終わっても、犯人が出てくるまでみんな帰れないぞ、って先生が言って、親がみんな心配して迎えに来た。高級品だったから、全員の親がその場に呼ばれたんだ。

先生が、万年筆をとられたやつに“こころあたりはあるか”って訊いた。そしたらそいつはちらりとこちらを少し見てそのまま黙ったんだよ。よそ者だったから、疑われるのは仕方ないのかもしれん。
先生は俺に、こころあたりはあるかって訊いてきたけど、俺は首を振った。
そしたらばあちゃんが大声で、久蔵がやってないって言うんだから、やってない。やってないって言ってる子を疑うのは、道理に反するって、ばあちゃん、必死に言ってた。
でも、そこまで言うなら、疑いを晴らしてほしいって、誰かの親が言って、みんなで机の上に荷物広げて、全員の荷物検査があったんだよ。
そしたらさ、俺のカバンから、出て来た。万年筆。あたりまえだよ、俺が盗っちまったんだもん。
ばあちゃん…顔を真赤にして、泣きながら、他の親にも…先生にも…土下座して謝ってた。クラスの奴らにも、俺のばあちゃん、土下座して、謝ってた。そしてみんなの前で、おれを何度も何度もぶった。
口の中が切れて、血の味がした。でも、ばあちゃん、やめなかった。ばあちゃんみたら、泣いてた。殴りたくなかったんだよ。あの時。でも、ああしないと、みんな、納得しなかったんだと思う。だから、ばあちゃん、俺のために、俺を何度も殴った。
帰りにさ、ばあちゃん言うんだよ。
なんでも、必死にやれば、みんな分かってくれる。久蔵、お前が本気で謝れば、きっとわかってくれる。本気で謝ってる奴に石を投げる奴はいねえ。な、だから、明日、一緒に学校行くぞ。明日、みんなに誠意を込めて、本気で謝れ、って」

仲村は自分の膝を抱え、膝の上に顎をのせてぼんやりとした表情で語っていたが、やがて顔をあげて清水と渡邉のほうを向いた。

「俺、お前たちのこと仲間だって、思ってる。なのに、あんなこと、しちまって、情けないって、思う。ほんとにすまん。俺は、東京でも阿波でも満州でも、そしてこんなとこまで来ても、なんにも変わらない。ばあちゃんがあれだけ俺をかばってくれたのに、俺は変われない。俺は、俺が嫌いだよ。
でも、こんな奴の言葉なんて、まったく価値がなくて、信じてもらえないかも、しれねえんだけど、俺はお前たちが、好きだ。なんか、意味わかんないかもしんないけど。なんか、意味わかんなくて、ごめんだけど…」

仲村は、そう言って小さく笑った。
渡邉も清水も、小さくうなずいた。
鈴虫が一匹、鳴いている。
誰も喋らない自然の音だけが鳴り響く。

「うちのばあさんが死んでから、」

渡邉が沈黙を破る。
静かな仏間のふすまを、突然誰かが開くような、そんな唐突な話出しだった。

「俺は、店でぼんやりしてることが多くなった。
家族もいない。唯一の友達の花石は、海軍に行っちまった。俺は、どうやら妾の子らしい。母親の顔は知らん。俺を置いて、逃げちまった。学校では妾の子って、いじめられたよ。だから、人と話をするのも、大して好きじゃない。あんまり、人を信じてないのかもしれん。
だからばあさんが死んだあおは、店で、客と世間話をするくらいしか、人と話しをすることもなかった。ラヂオを聴いてるぐらいしか、人の言葉を聞く時間はなかった。
ばあさんが死んでから、ずっと、俺はそうだった。
そしたら、支那と戦争が始まったんだよ。
ラジオを聞いて、俺は、戦争に行く方が、いいじゃねえかって思った」

渡邉はしばらく黙りこんでから、まるで別の話を始めるような口調でまた語りだす。

「俺は、ずっと、死にたかった。
だから、戦争で誰かに殺されれば、誰も咎めない。町に根付いてたあの店の看板にも、それを守ってきた婆さんの墓にも泥を塗ることもない。だから志願した。
俺の、上等兵だなんて階級は、化けの皮を剥がせば、ただの死にたがりの男がひとりいるだけの、薄気味悪い意味のない飾りもんだ。
だから俺は、そんな自分のことも、そして他人のことも、あんまり信用してない。
正直に言うが、最初はお前たちのことも、別に信頼してたわけじゃない。
だから、清水が缶詰を持ってようがいまいが、俺には関係なかった。信頼していないんだから、関係ない。
はず、だったんだ。
…でも正直、俺は、清水が缶詰を溜め込んでるって知ったとき、怒りが沸いたよ。
仲村が殴りかからなかったら、俺が殴ってたと思う。
正直、びっくりした。
どうやら、お前たちを、俺は、信頼してるらしい」

渡邉は、他のふたりを少しだけ見て、小さく笑った。仲村と清水は小さくひとつだけ頷く。
すると次は、清水が口を開いた。

「俺のおやじは、先祖が後生大事に守ってきた畑や田圃を売って、俺の学費にした。
親戚中に後ろ指さされて、罰当たりな家族だと、一族の財産を吸う田蛭だと言われてきた。でも、どんなに後ろ指をさされてもおやじは、俺の前では、ただの、のんきなおやじだったよ。俺には、負い目があった。誰か他の人の努力で、大学に通わせてもらって、親にも、親戚にも、申し訳なかった」

清水は星空を見上げる。
流れ星がいくつか、木々の間をすり抜けてゆく。流れた星は一体どこへたどり着くのだろう。どこかの島に落ちるのか、空の塵に変わるのか。たった一瞬の煌きに、小さな物語があった。
そんなことを頭の隅で考えながら、清水は地面を見つめる。

「アメリカは、不景気になると戦争をする国だ。
歴史を学べば、そんなことはすぐわかる。
すぐにわかる簡単なことなのに、日本のお偉いさん方は、まんまと戦争に誘いだされた。アメリカとの同じ将棋盤に、乗っちまった。
戦争和解の講和の契機なんてとうに過ぎちまってる。だからこうやって、学生まで徴兵しなきゃならん。
最初から負けるとわかりきってる戦いの、やめ時を見誤った時点で、俺たちは負けてる」

清水は、地面の土を握りしめ、ゆっくりと叩きつけた。

「負けたら、日本は、なくなるだろう。連合国に、蹂躙される。
ハワイを見ればわかる。
アメリカはハワイ王朝を壊し、政府を立てた。土着的な文化じゃなく、近代的政府を立ててハワイの人々を救うというのが名目だったが、ハワイの人々を救うとのたまうその近代的政府に、まるでハワイ人はいなかった。アメリカ人の、アメリカ人による、アメリカ人のための、都合のいい政府が作られただけだ。
戦争に負ければ、日本もそうなる。
そうなれば、あらゆるもんが解体される。大学もそうかもしれん。
そうなれば、おれが学んできたことも、塵芥だ。
おやじが売った田畑は、俺の学歴に変わったが、俺の学歴は戦争のせいで、塵芥に、変わる。
…だから、俺は、俺が、持って帰れるのは、おやじに渡せるのは」

清水は悔しそうに顔を赤くしながら、拳を握りしめ、涙で顔を濡らし、汚れた雑嚢を抱きしめた。

「これを、おやじやおふくろと一緒に、俺は食べたい。これを持って帰るぐらいしか、今の俺には、できることがない、だから、すまん。騙すつもりはなかた。隠すつもりもなかった。でも、俺はお前らを疑って、言わなかったのかもしれない。俺は小さい男だ。すまん」

と、そう言った。
清水が隠し持っていた缶詰は、彼が両親に渡せる唯一のものだった。
仲村も、渡邉も、うつむいて雑嚢を抱きしめ、震える清水の肩をじっと見つめていた。

渡邉が真剣な口調で言った。

「もし清水が、缶詰を持っていることを申告したら、仲村が何度もせびってうるさかっただろうから、言わなくて正解だったな」

すると、清水がむずむずしてから吹き出し、むっとした顔をした仲村も、我慢できずに吹き出し、そして最後に渡邉も吹き出した。
そうやって三人で、くすくすと笑い、それから声を出して笑いだした。

「なんでこの流れでそんなこと言えるかねぇ、渡邉よぉ」

仲村が涙をぬぐい、笑いながらそう言った。ガサリッ。

背後で、物音がした。
三人が振り返る。

カガガサガサガサリ

一箇所だけではなく周囲からも、草木のこすれる音がした。どうやらすでに何かに取り囲まれているようだった。
三人は慌てて銃を構える。

「やめろ」

日本語で声をかけられた。三人は銃を構えたものの、発砲せずにとどまる。

「日本人か?」

渡邉が訊く。

「ああ、そうだ、いま出ていく、撃つなよ」

暗闇がそう答え、湖の底の魚のように、ぬるりといくつかの人影が現れた。月明かりに照らされるその影は、30代から40代の五人組の日本兵だった。三人は、胸を撫で下ろし、銃をゆっくりとおろす。

「お話中、すまんな、お前ら、三人か?」

しゃがれた声で、その中のひとりの日本兵が言う。


「ああ」

渡邉が一言だけ答える。

「おまえら、やけに健康そうじゃねえか。一体なにを食ってやがる?」

別の男が三人に訊く。
確かに渡邉たちに比べると彼らは浅黒く痩せ細り、目だけ暗闇にぎろぎろと輝いていた。

「今日はヤム芋だ」

渡邉がそう答えて顎で地面を指し示した。
先ほどヤム芋をバナナの皮で蒸した形跡が見てとれる。

「ヤム芋?なんだそりゃ」

また別の男がそう訊いてきたので、渡邉は茂みの中を顎でさした。
残りの芋がふたつみっつ転がっている。男たちはそれを拾い、匂いを嗅いで、三人に許可もとらずに自分たちの雑嚢に入れた。

三人は、彼らに不審なものを感じ始めた。
彼ら全員が一等兵だったが、上等兵である渡邉に敬礼しようとしない。そして、同じ日本兵に遭遇したというのに、全員が引き金に指をかけ、三八式歩兵銃を保持している。
彼らの服はぼろぼろで髭は延び放題。顔や首や手の甲は垢や土にまみれ、そして持っている銃も彼らと同じように汚れていて、しっかりとした手入れがなされているとは言えなかった。

「僕たちは、あっちの島から、海軍さんにここに運んでもらったんです。ここなら、陸軍が展開してるはずだって。よかったぁ」

仲村が、気を取り直して嬉しそうに言うと、リーダー格らしき男が、

「ほう、なるほど、なるほど」

とぶっきらぼうに答えた。三人と会話をするよりも、別に目的がありそうなそんな話し方だ。渡邉が訊いた。

「今は、作戦中か?」

リーダー格の男は頷く。

「ああ。まあ、そう言ったところだ」

「それじゃあ、俺たちも参加する。いいか?その後に本隊に合流させてもらいたい」

「いや、まあ、それは構わんが、それよりまず、食料は持ってないか」

「あいにく持ってない。そこの芋のように現地調達だ」

渡邉がそう答えたが、男は清水の方を向いた。銃口も自然と清水の胸の方を向いている。

「そうか。ではその眼鏡の男の荷物を改めさせてもらう」

「なぜだ?」

「“食料”と言ったら雑嚢を大事に抱えたからだ。中身は食料だろ?確認させてもらう」

渡邉が清水と男の前に立つ。

「一等兵の貴様が、一体どういう権限でこいつの荷物の中身を確認できるんだ?」

「作戦行動中だからだよ」

男がそう答えて清水の荷物をひったくろうとしたが、渡邉がその手をつかんだ。

「作戦だろうがなんだろうが、今ここでの階級は俺が上だ。勝手なことは許さん」

「おい、作戦に対して楯突くとは、いくら上等兵と言えど許されることではないぜ?本軍に合流したあとは軍法会議ものだぞ?いいのか?」

「楯突いてなどいない。その作戦に協力すると、さきほども伝えたはずだ。軍法会議にかけられる謂れはない。この食料はこいつのもんだ」

「そうか、なるほどな。
ところでお前たち、本当はどっか他の島で敵前逃亡でもしてここに逃げ込んだんじゃねえのか?」

男は銃を渡邉に向けた。
それと同時にほかの日本兵たちも、銃を仲村や清水に向ける。

「お、おい、やめましょうよ、俺たち、日本人ですよ?」

仲村が愛想笑いをしながらそう言ったが、彼らが銃を下ろす気配はなかった。

「まあ、手を上げろや」

男がそう言うと、渡邉がゆっくりと口を開く。

「何をしているのか分かってるのか?」

「ああ。手荷物検査だ。大人しくしてくれてればすぐに済む。頼むから大人しくしておいてくれよ、上等兵殿」

そういって男は笑い、銃口を改めて清水に向けた。
清水は雑嚢を握り閉めたが、銃を向けられている仲村と渡邉を見てから俯いて言う。

「わかった、渡すから、もう、やめてくれ」

清水は、雑嚢を相手に投げてよこした。
雑嚢は地面を転げ、相手の男の足元で止まる。
男が雑嚢を拾い上げ、中身をあらためると、中には缶詰がいくつも入っている。男は片頬を下品に吊り上げた。

「何が現地調達だよ、たんまり溜め込んでんじゃねえか。嘘つきどもが。ってことで、わかるよな。お前たちは信用できん。この場で処刑だ」

そう言って男は銃口を渡邉に向けた。

「話が違う。まあ待て。落ち着け」

そう言って手をあげるふりをして、渡邉は相手の銃の先端の銃剣をとっさに引き抜き、そしてすぐさま銃剣の切っ先を相手の銃口に差し込んだ。
そのまま相手を、後ろの木へ押し当て、自分の銃剣をするりと引き抜き、刃を男の頸に当てた。
もし男が発砲すれば銃口を塞がれている銃は暴発し男の指を奪い、そして男の頸は渡邉に裂かれるだろう。男は動けなくなった。

「馬鹿な真似はよせ」

男が渡邉を睨みながらそう言うと、渡邉は低い声で言い放った。

「馬鹿な真似はお前だろうが。仲間たちに銃をおろさせろ。早く」

男はしぶしぶ他の仲間達に頷きかけ、他の日本兵たちはゆっくりと銃を下ろした。

「それじゃ、銃を地面にゆっくり置け。変な真似をすれば、こいつの頸が飛ぶぞ。お前らのとは違って、俺の銃剣は手入れしてる」

男はまた、仲間たちに頷く。
渡邉が、少しだけ振り返り、銃を地面に置いているかどうか一瞬だけ確認した。
男は、渡邉のその一瞬の隙をついて、銃口をそらし銃剣を銃口から外し、そして銃身を自分の頸と渡邉の銃剣の隙間に滑り込ませて渡邉の足を払い、渡邉を後ろ向きに倒した。
銃剣を握ったまま後ろに倒れ込んだ渡邉はすぐに立ち上がろうとしたが、男が弾を装填する音の方が早かった。

「残念でした、上等兵殿。さよなら」

男は笑って引き金をひく。
黒い月夜に、乾いた銃声が一発、響いた。













銃声が鼓膜を大きく震わせる。
覚悟した渡邉は思わず目をつむった。

しかし、いつまでたっても痛みや衝撃はまったくやってこない。恐る恐る渡邉は目を開ける。すると、目の前には清水が立っていた。
清水は、ゆっくりと膝をつき、頸を自分で押さえる。その指の間から、赤い血液がたらたらと流れ始め、清水の軍服はみるみるうちに茶色に染まっていった。

仲村が清水に駆け寄り、傷口を両手で押さえる。
弾は頸の動脈に当たったらしい。指の隙間から湧き水のように血が溢れ出す。渡邉は清水を見て、怒りに震えながら、男に向かって言った。

「何やってんだ」

男は虚ろな目のまま、銃口を渡邉に向け、答えた。

「は?戦争だよ」

清水は青い顔で、必死に息を吸う。
そして息を吸う度に、傷口を押さえる仲村の指の隙間から、血のあぶくが溢れ出した。頸の傷から息が漏れ、清水は痛みと苦しみにに顔を歪める。

「日本人が日本人を撃って、何が戦争だ」

渡邉がそう言うと、清水を撃った男が頭をめんどくさそうに掻いた。

「馬鹿かお前は。殺すのが戦争だ」

「貴様、何人も、撃ったのか…」

「米国人ってことか?豪州人?蘭人?朝鮮人?原住民?日本人?どれのことを言ってる?どれを撃とうが関係ねえ。戦争は、人を殺す催しもんだろうが」

彼らは、相手がどこの人間だろうが、殺して食料を奪うことが常習化しているのだろう。よく見れば、彼らの雑嚢や装備品は重複、混合していた。日本軍の支給品だけでなく、米軍のものや、民間人のものも所持している。

「最初から殺すつもりだった。だから、まあ、死んでくれ。あ、人に嘘をつくことはよくないから、ほんとのことを言うが、作戦中ってのは嘘だ。輝ける我らが皇軍は、もはや機能なんてしてない。それじゃあな」

渡邉に向けられた銃口がわずかに振動してから、銃口から小さなナイフのような火を吹いた。
渡邉は、引き金にかかった指の動きを見極めて横へ飛び、自分の雑嚢の中の鉄の塊を握りしめた。乾いた破裂音が何度か響く。

突然の破裂音ののち、森に静寂が戻った。
男たちの胸や腹から、血が垂れ、口から血を吐いた。
男たちは、何が起こったのかわからずに、地面に転がっている渡邉を不思議そうに見つめている。
よく見れば、自分たちの腹や胸には銃創があった。何者かに、銃で撃たれたのだ。彼らはばらばらに膝から崩れ落ちたり、うつ伏せに倒れたりした。
渡邉は雑嚢のなかに手を入れたまま立ち上がる。
その雑嚢にはいくつか穴があき、紫色の煙が細く立ち上っていた。

「お前、な、なにしやがった…」

清水を撃った男がかろうじてそう言うと、渡邉は雑嚢の中から、甚から預かった十四年式拳銃を取り出す。
渡邉は男の問いに答えた。

「戦争だ」

渡邉は拳銃を雑嚢にしまい、三八式歩兵銃を構え、引き金を引いた。
男の額に小さな穴が空き、後頭部から脳が吹き出した。男は小さく痙攣しながらうつ伏せになる。
その後渡邉は、周りで横たわる日本兵たちの頭を順番に撃っていった。
何か言おうとした者もいたが、構わず頭を撃ち抜く。

「ちくしょう!お母ああああさん!」

日本兵の最後の一人が、そう言って何かを地面に叩きつけた。その手には手榴弾が握られていて、それに気づいた渡邉は伏せろと叫び、仲村は清水をかばいながら地面にすばやく伏せ、同時に激しい炸裂音がすぐそばで響き、金属片が空気を切り裂きながら飛び散ってゆく、不吉な悲鳴のような音が無数に響いた。

飛び散った金属片がぱらぱらと遠くに落ち、切り裂いた枝葉や巻き上げた土が、かさらぱらと散らばる音がする。
そして、周囲は静かになり、虫は驚いて鳴きやんだ。

「仲村、大丈夫か?」

渡邉が訊くと、しばらくして仲村が答えた。

「ああ、まあ、その、大丈夫だよ。それより、清水が…」

渡邉がふたりのもとへ駆け寄る。
仰向けの清水の頸を仲村が両手で押さえている。土で汚れた仲村の手。溢れ出す清水の血液。清水は血液の熱で曇った眼鏡越しに、苦しそうに、森の上の星空を見上げている。

「清水、これから軍の基地を探し、そこで治療してもらう。いいな」

渡邉がそう言った。
清水は小さく頸を振る。

「あいつら、さっき、 ヒュー もう、日本軍は、ヒュー ないって、言ってた、ぜ」

苦しそうにそう言って、小さく笑う。
喋るたびに、首から空気の漏れる音がした。

清水は、地面に転がった雑嚢を、震える指で指差した。
渡邉がそれを大事そうに拾う。
清水は、頸の銃創を押さえる仲村の手をゆっくりと払った。押さえられると、喋りづらいのだろう。
銃創からは気泡の混じった血と空気が漏れ、声を出す度に空気と血の漏れる音が混じる。

「ピシュー なあ、シュヒュー 頼む、ジュヒュー これ、日本に、持って帰って、くれよ なあ、ヒュー 父ちゃん、ジュピュー と母ち、ヒュー ゃんに なあ、なあ、お父ちゃん、おかあちゃあん」

清水は、小さくそう叫んで、森から見える空の一点を見据えたまま、口をあけて動かなくなった。
仲村が、清水の肩を叩く。
体を揺さぶる。
頬を叩く。
けれども、清水は動かない。

「おいおいおいおい!清水、おい、学徒!おいおいおいおい!冗談だろお前!おい!清水!おいこら!おい!ふざけんな!お前!」

仲村が清水を揺さぶるが、やはり清水は答えなかった。

渡邉は、清水の雑嚢を強く握りしめ、清水を撃った日本兵たちへ向けて、三八式歩兵銃の引き金を何度もひいた。
しかしすでに弾はきれていたので、発砲されず、かちゃかちゃというそっけない音だけが何度も響く。
仲村がすすり泣き、渡邉は奥歯を噛み締め、清水の亡骸をにらんだ。

しばらくして、ふたりで清水を運んだ。
あんなやつらと一緒の場所に、清水を置いて行きたくない、と仲村が言ったからだ。樹皮が柔らかそうな大きな木に、清水の背をゆっくりと預ける。清水を運んできた渡邉も仲村も、清水の血で血だらけだった。

しゃがんだままの仲村が、清水のとなりに座る。
渡邉は立ったまま、清水を眺める。

「清水、それじゃあな、俺たち、行く、よ。ちゃんと、缶詰、ご両親に、届けるから、信じてくれよ…缶詰、盗もうとして、ほんとに、すまなかった」

仲村がそう言って立ち上がり、近くに生えていた黄色い小さな花を、清水の手元に置いた。

渡邉も、近くに咲いていた小さな紫色の花を摘み、黄色の花の傍に添えた。

「おい、清水、おい」

そう声をかけてみたが、清水は返事をしない。
渡邉は唇を噛み、清水の肩にそっと手を置いた。

「清水、すまん」

そう言って立ち上がる。
渡邉と仲村は、清水を置いて、その場をあとにした。





歩きながら仲村が渡邉に訊いた。

「なあ、渡邉、今日、何日かな…。今日が、清水の命日になるんだよな…」

渡邉は、俯いて歩きながら答えた。

「8月、22日だ」

「そうか…昭和20年、8月、22日、享年24歳…清水忠義の命日…」

仲村は歩きながら大声で泣いた。
渡邉は、奥歯を噛み締め、悔しそうな顔で歩を進める。




早太郎が清水の亡骸をじっと見つめ、その背中を金長と狐が見つめている。
早太郎は、小さくため息をついて、少し振り返ってから言った。

「お別れ、だな」

早太郎がそう言うと、狐と金長はちいさく頷く。
早太郎は、何か言いかけるが、なにも言わない。
金長と狐も、何か声をかけようとしたが、やはり同じように口をつぐむ。

早太郎の体が、煙のようにゆらゆらと揺れ、薄い障子のように、透けはじめる。

「早太郎さん、お元気で」

金長が口を開いた。
狐は早太郎に歩み寄る。

「お元気で」

「ああ。ありがとな」

早太郎がそう言った。
次の瞬間、狐と金長だけが、そこにいた。まるで最初から早太郎という犬など、この島にいなかったみたいに。
しばらく、狐と金長は、早太郎のいた場所を眺め、そして清水の亡骸の前に佇んだ。

「金長さん、行きましょう」

しばらくすると狐がそう言って、清水の亡骸にちいさく頭を下げて歩き出す。金長はゆっくりと、清水の亡骸に手を合わせ、狐の後ろを追う。

南国の密林の、名もない場所の、名もない木にもたれ、日本の大学生が座っている。彼の鼓動は止まり、その胸は上下しない。彼の、その太ももの上を、蟻が一匹、ゆっくりと這っていった。





もうこの島で日本軍は機能していない。
そう聴いたふたりは、この半島を北上する理由がなくなってしまった。そしてさらに歩けば、また日本兵たちに襲われてしまうかもしれない。
数日の間、渡邉と仲村は、ただ食料を調達してきては食う、ということだけを繰り返した。まるで喪に服すように、言葉少なく、笑うことなく、ただただふたりで生活を続けた。

5日ほど経ったある朝、仲村が横たわったまま渡邉に訊いた。

「渡邉、点検、終わってるか?」

なんのことを言っているのかわからなかった。

「なんのことだ?」
渡邉がそう訊くと、仲村は息を少しだけ切らしながらも流暢に答えた。


「三番車両の、右側面下底部のリベットが、欠損して緩んでるって、夜勤の、やつらの報告にあっただろ?そこの点検、終わってるか?」

「いや、おい、仲村、どうした?」

「あ?どうしたもこうしたもねえだろ、あ?え?あれ、ここ、あ、そうか、ああ、ここは、おれ、そうか、ここ、どこだっけ?俺、あ、そうか、俺は、今、東京だっけ?いや、小松島…え?」

渡邉は仲村に近寄り彼の額に手を当てた。
すごい熱だった。首筋を見ると、顎や肩にかけて赤黒い筋が蜘蛛の巣のように広がっている。仲村は荒い息をして、目を薄っすらと開けては閉じてを繰り返している。渡邉は仲村に問いかけた。

「お前、どこか怪我してないか」

「あ、お前、渡邉か、すまんすまん、なんか、夢を見てた…あ、怪我か?あ、そうか…おれ、戦争に来てるのか…あのな、実はな、すまん、渡邉…」

そして仲村は、ばつの悪そうな顔をして、自分の脇腹をゆっくりと渡邉に見せた。服が円形にじっとりと黒く汚れている。
とっさに渡邉は仲村の服を脱がせ、脇腹を確認した。
その脇腹には、布が押し付けてあり、その布はじっとりと赤茶色に変色していて、触ると血やリンパ液でべとべとしていた。
渡邉はその布をゆっくり剥がす。すると5センチほどの傷口に、金属片が覗いていて、その周辺は紫色に変色していた。金属片は、おそらく手榴弾のものだった。
首筋にまで広がっていた赤黒い筋は、その傷口周辺からはじまっている。傷口から血液中に細菌が入り込み、体中に細菌が運ばれ、高熱を発しているのだ。

「あのときの、手榴弾…お前、なんで今まで言わなかった」

仲村は寂しそうな顔で、呟いた。

「清水に覆い被さったときにさ、当たったんだけど、結局、守れなかったよね…かすり傷だと、思ってた…心配させたくなかった…」

渡邉は黙る。
仲村も、清水を守れなかったことを、悔いていたのだろう。渡邉は水を差し出した。

「喉は渇いてないか。水だ、ほら、飲め」

渡邉が水筒の蓋をあけ、仲村の口元に持ってゆく。仲村が口を開け、渡邉は水を注いだが、水は口から溢れてくる。目をつむったまま、仲村はゆっくりと横になった。呼吸がどんどん早くなってゆく。

どう見ても、自然治癒する傷ではない。薬が必要だった。
しかし、渡邉の手元には、薬などない。
そして、あの日本兵が言うように軍が機能していないのであれば、今から日本軍の本拠地を探し出したとしても、薬が供給できる状況ではないだろう。

薬があるとすれば、心当たりがあるのはあそこしかない。

「仲村、待ってろよ」

渡邉は立ち上がり、すぐさま駆け出した。

到着すると、息を切らしながら、倒れた日本兵たちの荷物をあさる。
渡邉が殺害した、日本兵たちの遺体がある場所だった。
あれから数日経っているので、
遺体には虫がたかり、あたりに臭いが充満し、獣がはらわたを引きずり出して食べた痕跡があった。

うつ伏せに倒れているものの肩を蹴り、仰向けにし、雑嚢やポケットなどを確認してゆき、全員の持ち物を見る。
タバコや春画、羊羹の切れ端や米兵のタバコやライター、茶色に変色したバナナや手紙、ヤム芋、日記、家族の写真、さまざまなものが出てきた。けれども、薬らしきものはひとつもない。
渡邉は最後の日本兵の雑嚢を、地面に叩きつけて叫んだ。そばにいた遺体の腹を蹴り上げると、遺体は血と腐乱ガスを、笑うように口と鼻から吹き出す。渡邉は、どうしようもない怒りで、獣のように叫んだ。
そしてその場にうずくまり、大声で泣いた。

夕方、渡邉が手ぶらで仲村の元へ戻ると、仲村は赤黒い顔をして横たわっていた。

なあ、おい、仲村、と声をかける。返事を待ったが、仲村は反応しない。
仰向けになったまま、その腹は上下せず、手足も顔も動いていなかった。虫たちのうるさい羽音がいくつも聞こえ、仲村の口や鼻の周りを、大きなハエたちが舐め回していた。渡邉は手でハエを追い払った。

ハエは何度も何度も執拗に、仲村の口や鼻や傷口にたかる。渡邉は嗚咽しながらハエを追い払う。
そして歩兵銃に装弾し、中空に何度も連続で発砲した。けれどもハエは、何事もないかのように、仲村にまとわりつく。
仲村は、一切微動だにしなかった。

渡邉は力なく座り込み、自分の靴のつま先を、月を眺めるようにぼんやりと眺める。耳元では、ハエたちが飛び交う音がこだまする。渡邉は顔を歪め、うつむき、耳を塞いだ。両手の拳を地面に何度も叩きつけ、何度も叫んだ。

「なんで俺じゃなくて、お前らなんだよ。なあ、お前、所帯持って、子どもとボール遊びするって言ってただろうが、おい、貴様、おきろよ、なあ、仲村、なあ」

けれども、どんな大声を出しても、何度拳を地面に叩きつけても、仲村は、目を覚まさなかった。ハエの羽音が、耳鳴りのように渡邉を取り囲む。



夜、渡邉はおもむろに立ち上がり、
銃剣をゆっくりと抜いた。
月が刃に乗り、氷のようにうっすらと光る。その刃を、渡邉はぼんやりと眺める。

その銃剣をゆっくりと、何度も地面につきたてた。そうして土を柔らかくして、素手で穴を掘った。
何度も土に刃をつきたてたので、銃剣を握る手のひらの皮膚は破れ、土を掘る爪は割れ、指先に血が滲んだ。

蝿のたかる仲村を掘った穴にゆっくりと納め、土をかけた。
獣に掘り返されないように、土の上には、大きな石をいくつか置いた。

「最期のときに、ひとりにして、悪かった。不安だったよな。苦しかったよな。すまなかった…やっぱり俺は、どうしようもないやつだ…」

渡邉はそう言ってふらふらと立ち上がり、その足で、清水のところへ向かった。



渡邉が置いた仲村の墓石の前で、金長と狐が座っている。
金長が、墓石に前足を触れてから言った。

「はかないです。いのちって」

「そうですね。簡単に、壊れてしまいます。かげろう、みたいです」

「はい。悔しいです、わっちは」

「はい。お察し、致し、ます」

「狐さん、今まで、ありがとうございました」

「金長さん、こちらこそです」

「あの、狐さん、あの、お別れです」

「はい、お別れです。金長さん、お元気で」

「はい。狐さん、ありがとう、それじゃあ」

金長は、消える。
仲村の墓石の前に狐が一匹、座っている。



渡邉は、暗い森の中を進んでいく。視界は利かなかったが、清水の場所は匂いで分かった。
月明かりに、数多の蝿の羽が宝石のように輝いていて、その奥に、清水がいた。

清水は、まるで大きなヒト型の蜂の巣のように、虫に覆われていて、渡邉が近づくと、ハエたちが一斉に飛び立ち、周囲を徘徊する。清水の腹も顔も手足も腫れ、真っ黒に変色し、ところどころ蛆がたかっていた。
漆黒のような皮膚は、まるで宇宙空間のように見え、清水にたかって蠢く蛆は、まるで星雲のように瞬いて見えた。

渡邉はまた銃剣を地面につきたてて、爪で穴を掘った。何度も地面を刺し、何度も土を引っ掻き出す。
そうして空いた大きな穴に、清水の手を掴み、納めようとすると、渡邉が掴んだ清水の両腕の表皮はずるりと剥けた。
尻もちをついた渡邉は清水の服の肩のあたりを掴み、引きずり、彼を穴へ横たえた。

ゆっくりと土をかぶせ、土で覆い、大きな石を上にのせる。清水が土の中に入ったあとも、清水にたかっていた蝿たちは、清水の上の何もない空間を、さまようように飛んでいる。
渡邊は、清水の体液で汚れた手足や体はそのままで、月明かりに照らされる石やその上を舞う蝿たちを眺めながら、溶けるようにほんの少しだけ眠った。行き場を失った蝿たちは、渡邉にもたかりはじめた。
渡邉は石のように眠った。

日の出とともに、渡邉は目覚め、ぼんやりと立ち上がり、北へ向けて歩き出した。どこを目指しているのかは、自分でもわからなかった。


もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。