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「つくね小隊、応答せよ、」(58)


ツクネ小隊ノ乗艦ヲ許可ス
乗艦準備ノ為暫シ待タレタシ




その信号を読み取った三人は、信じられないといった面持ちで無言で立ち上がり、そうして飛び上がり、黙って抱き合って、くるくるまわりながら、そして大声で叫び、喜んだ。

しばらくすると、
「一人づつゆっくりとこちらまで泳いでくるように」
と通達があり、仲村、清水、渡邉の順に、頭の上に歩兵銃をくくりつけ、光る海を泳ぎ、沖合いの潜水艦の方へ向かった。




息きれぎれに、潜水艦にたどり着く。海面すれすれの黒い艦上から黒い人影が黒い手を突きだし、こちらを引き上げようとしているのが見えた。さらに近づくと、白い歯も見える。影は言った。

「ようこそ、我らが潜水艦翠龍の全貌をどうぞ、ごらんあれ、と言いたいところですが、早くハッチの中へどうぞ。まもなく艦砲射撃で明るくなるので、その前に潜航します」

三人は急いで艦内へのハッチを潜り、はしごを下りた。鉄の床に、海水を滴らせながら体にくくりつけた荷をほどいた。


すると、数名の海軍の兵隊が物珍しそうな、それでいて人懐こそうな瞳で三人を見つめている。

「いやぁ、ほんとに来てくださったんですねぇ!」

「艦内で噂になってたんですよ!」

「たった三人で、ほんとにすごいですね!」

彼らにそう言われ、三人はどことなく恥ずかしげな顔をする。

「文字通りの助け船、大変感謝致します」

照れながら渡邉が敬礼をすると、それに倣い清水と仲村も敬礼をする。
そして乗組員たちも素早く敬礼を返した。
陸軍の渡邉たちの敬礼とは違い、角度が垂直に近い海軍式の敬礼だ。

「艦長、つくね小隊の方々、ご乗艦されました」

20歳ほどの青年が、きびきびとした動きで誰かに報告した。薄暗い廊下の先に、男がひとり立っている。彼がこの潜水艦の艦長なのであろう。廊下は薄暗く、顔は見えない。

「いやぁ、つくね小隊という名前には笑いましたが、まさか本当に三人とは。よくぞその人数で、あの戦いをされましたね。創意工夫に頭が下がります。
さ、せっかく翠龍に乗艦されたんですから、おもてなしいたします。
先に着替えて、そのあと、食堂へお越しください。さ、準備してさしあげて。ではまた後程」

艦長は海軍式のちいさな敬礼をして、きびすを返し、廊下を歩いて行った。
三人はその後姿に敬礼する。

「さ、食堂へどうぞ。陸軍さんたち、みなさんとっても運がいいですよ!」

傍にいた若い兵が、嬉しそうな声でそう言った。

「え?なんでですか?」

仲村がそのただならぬ気配に不思議そうに身を乗り出して訊く。すると彼はもったいぶって答えた。

「なんてったって今日は金曜日です。ふふふ。楽しみにお待ち下さいね!あ!申し遅れました!私調理兵も兼任しております、宮野です!」

宮野は敬礼してにっこりと微笑んだ。
その時だ。遠くの方で何度も爆発音が響き、地響きのような振動が艦内にも伝わってきた。おそらく、艦砲射撃が始まったのだろう。三人は、なんとも言えない顔つきで顔を見合わせた。宮野が天井を見ながら三人を気遣って言う。

「ここは大丈夫です。周辺には米の艦船はいませんので、安全です。さ、こちらをどうぞ」

鉄の塊の中に閉じ込められ、深く暗い海の底に潜航するのは、訓練していない者にとっては恐怖でしかない。
三人はここで暮らす彼らに、尊敬という感情を感じた。




そして、体を拭く手拭いと新しい海軍の軍服を渡され、その場で体を拭き、着替えたあとに、細長く狭い食堂に通された。20人ほど入ればいっぱいになるくらいの広さの食堂だ。
潜水艦はゆっくりと潜航しているらしく、どこか遠くのほうでエンジンらしき音と、海中の気泡や海流が、食堂の外に当たる音が小さく聞こえた。
ラヂオも、時計の音も、話し声もない、とても静かな食堂だった。

「さて今日は、金曜日です。つまり夕食はカレーなんです」
さきほどの宮野が、銀色のコップに水を注いで三人に手渡す。

カレー。

その単語を聞いて、三人は体中の血肉が沸き立つのを感じた。腹が鳴り、鼓動が早くなる。
艦内は蒸し暑く、どことなく息苦しいが、どこからともなくカレーの匂いと、飯を蒸す香りが漂ってきた。三人とも、そわそわして、いてもたっても居られなくなり、思わず顔を見合わせると、興奮した猿のような互いの顔があった。三人は咳払いをして、動揺と興奮と恥ずかしさを隠す。

「おまちどうさま!」

銀色の器に、白い米。
湯気が立ち上るその米の上に、濃い飴色のカレーがかかっている。
ニンジンに、ジャガイモに、そして恐らく鯨肉であろう肉がごろごろと乗っていて、白い米のそばには福神漬けが添えられていた。

「艦長のおごりです!おかわりはないですが、どうぞゆっくりとお召し上がりください!」

三人は会釈をして、銀色の匙をゆっくりと掴んだ。
久しぶりの、料理らしい料理。
島でもいろいろなものを食べたが、料理と呼べる代物ではなかった。
調味料、白い米、具材、香り、温度。
すべてに文明の息吹を感じる。

「いただきます」

三人は、まるで葬式の挨拶のように小さく、消え入るようにそう言った。まるで現実味がなく、ふわふわと意識が揺らいでいる。もう、このカレーを口のなかにいれることしか考えられない。急に現れたこの奇跡のような待遇に、まだ夢の中にいるような感覚だった。つい先程まで、死を覚悟して浜辺に座り、光る海を見ていたのに、今は懐かしく芳しい香りに包まれている。
それはとても不思議な感覚だった。

「食べない、んですか?」

三人を見て、宮野が不安そうにそう言った。

「いや!食べますよ!食べますけど!でも、なんか…夢みたいで…」

仲村が反射的にそう答えた。
宮野は笑う。

「陸上での戦い、お疲れさまです。陸上だと、台所がないので、さぞご不便だったでしょうね、さ、冷めてしまうので、熱いうちに、どうぞ」

三人は頷き、匙を白い米に差し込んだ。
柔らかい米の感触と、匙の先に触れた鯨肉の感触が指先に、肘に、肩に、脳に伝わってくる。米とカレーをすくい、口のなかにゆっくりと放りこむ。
滋養と風味に富んだ肉と野菜と、よく煮込まれてそれらの旨味を抱えているカレー。そしてほどよい炊け具合の白い米の旨味。それらが口の中ではじけた。
無我夢中で三人はカレーを平らげる。

「いかがですか、我艦の海軍カレーは。海軍の中でも、指折りの美味しさだと評判なんですよ」

食べ終わり、水を飲み、一息ついた頃。そう言って、男が近づいてきた。どうやら食堂の端で食べ終わるのを見計らっていたらしい。先程は廊下の暗がりで分かりづらかったが、食堂では、先程より少しだけ顔が見える。

「申し遅れました。艦長の花石です」

そう言って花石は海軍式の敬礼をした。
三人は立ち上がってすぐに敬礼を返すが、渡邉だけはぽかんと開いた口が塞がらなかった。
花石は、口を開けた渡邉を不思議そうに見る。やがて浅黒い髭面の男が、故郷の友達、渡邉道雄だと気づいた。

「…おい、お前…道雄か!?」

渡邉は口をあけたまま、幽霊を見るように花石を見つめ、頷く。

「甚…か?」

「ああ…甚だ」

ふたりは驚いた顔つきで歩み寄り、不思議そうに互いを見つめ、やがてゆっくりと握手をして、そして力強く抱き合った。

「道雄、元気だったか?」

甚が嬉しそうに涙を堪えてそう訊くと、道雄は、ああ、お前はどうだ、と返した。

「ああ。この通り、旨いカレーを食って元気にやってるよ。会うのは、一体何年ぶりだ」

「10年とはいかんが、7、8年は前だろ。いや、しかし、甚、潜水艦の艦長とは、偉い出世だな」

「いや、ほんとは副艦長だったんだが、1月に艦長が持病で船を降りて、繰り上がりで艦長になった」

「それでも立派だ」

ふたりがそう話しているのを、宮野、仲村、清水が物珍しそうに見ている。
仲村は我慢できずに話に加わった。

「おい、渡邉、おまえ、艦長殿と、お知り合いなのか?」

渡邉が少し笑って応える。

「ああ、俺の、故郷の唯一の友達だ」

それを聞いて仲村が興奮し、思わず拍手しようとすると、そばにいた調理兵が仲村の手のひらの間に手を差し込んでそれを制した。

「あの、小さな音でも敵に気づかれますので…」

宮野は笑みをたたえながらも厳しい面持ちでそう言って、仲村は先生に怒られた子どものように小さくなった。宮野が、甚に訊ねる。

「花石艦長、艦長は、あの戦車小隊に渡邉上等兵殿がいらっしゃると分かっておられたのでありますか?」

「いや、こいつが陸軍にいたことすら、知らなかったし、潜望鏡からはこいつの顔どころか人影も確認できなかった」

すると仲村が質問をした。

「え、でも、潜水艦ってずっと潜望鏡を出したままなんですか?」

それに花石艦長が答える。

「いや、今日はひと月ぶりに浮上したんです。ほんの偶然ですよ」

「ひと月も潜水…そりゃすごい…」
清水が感銘を受けたように頷くと、宮野が補足して説明を始めた。

「昨日は大雨だったので、浮上して周囲偵察を行うのにはいい機会だったんです。で、そしたら島でどんぱち始まって、それを潜望鏡で艦長が一部始終を見ておられて。わたしも見せて頂いたんですが、陸軍さんの姿はいっさい見えないのに、手榴弾や機銃や砲撃で攻撃してて、まるで潜水艦みたいな戦い方だなって話していたんです。でもそれが、たった三人だったなんて…」

それに頷いて、花石が渡邉に訊く。

「道雄、ありゃいったいどうやったんだ?戦車のなかに三人乗車してたのか?」

花石艦長が三人の戦いに興味を持つと、三人は思い思いにあの戦いを語り始める。すると、手の空いている乗組員たちが、つくね小隊を一目見ようと食堂の入り口のところに集まり始めた。
花石艦長は皆を椅子に座らせ、三人に話させた。
音を出さないから、誰も拍手もしないし、歓声もあげないが、三人の機転とその工夫、そして自分達は経験していない地上での戦闘に、興奮したり笑顔になったりと忙しかった。




そうやって食堂での時間はあっという間に過ぎ、三人は睡眠室へと案内された。
この潜水艦では80人ほどの乗組員が2交代で24時間運航に携わっている。よってベッドは半分ほどの数しか用意されていない。狭い部屋に4段に分かれた狭いベッドが、みっつ並んでいる。
そういった部屋が三部屋あり、三人は一番奥の部屋に通された。

「こんな狭いところで何年も生活してて、ほんとにすごいよなぁ。陸には雨も降るし蚊もいるけど、手足を伸ばして好きなように寝られたし、景色も見れたからなあ。俺には到底ここでの暮らしは無理だな。頭が下がるよ、ほんとに」

仲村が、寝床を触りながら言った。

「人間同士の戦いは、陸海空に、そしてに海底にまで及んで、なおかつこういう住環境まで作り上げるんだなあ。戦争は、文化を作る一助になっているのかも。皮肉なことに」

清水が寝床に滑り込みながら言った。
清水は一番上、仲村は別の段の真ん中あたりに滑り込む。
ひさびさに、人工物の上で横になる。
潜水艦は常に他の艦艇に発見されて攻撃される危険性を孕んではいるが、虫や雨や夜襲に怯える必要はない。三人は、地上にはない妙な安心感と、緊張感を同時に感じながら、ぼんやりと休んでいた。


すると、睡眠室の戸の前で声がする。

「道雄、いいか」

戸が開くと、花石が立っていた。

「話したいことがある。艦長室に来い。廊下を出て右の突き当りだ」

道雄は頷いた。
他のふたりが何事か、と不安そうな顔をしたので、花石はそれをみて小さく笑い、説明した。

「なあに、懐かしくなったんで、ふたりでただの思い出話をしようって魂胆です。おふたりは、ゆっくりおやすみください」









「この船、やけに静かだな。よっぽど慎重に漕いでやがんだな」

早太郎が周囲を見渡しながら、狐に訊いた。

潜水艦の最後尾の廊下の突き当りに、予備の魚雷が縄でくくられて横たわっている。そのそばには小麦袋や米袋が山積みになっていて、その影に、三匹は座っていた。
狐は早太郎の問いに、答えた。

「誰も漕いでませんよ?」

「じゃあ進んでねえのか?」

「進んでますよ?」

「誰も漕いでねえなら進まねえだろ」

「油を燃やして進んでるんですよ」

「油を燃やしてどうやって進むんだよ。先頭を行灯で照らしてんのか?」

「いえ、海中なので照らしてませんよ?」

「なに言ってやがんだよ、海中なら水が入ってきて大変なことになるだろ」

「水が入ってこないように作ってる潜水艦ですもの。その潜水艦を人間が、油を燃やして、櫂を後ろで回して、そうして進んでるんですよ」

「言ってる意味がわかんねえ」

早太郎が腕を組んで考える仕草をすると、金長が自信たっぷりの顔で説明をした。

「早太郎さん、理解力がないですねぇ、つまりはこういうことですよ、人間が、ついにわっちら狸に追いついて、鯨に化けることができるようになったと、そういうことです。それを、狐さんがわかりやすくせつめ」

「ちがいますよ」

「知ったかぶり妖怪は黙ってろ」

「妖怪じゃねえし。祀られてるし。え、狐さん、じゃあこの船、鯨じゃないんですか?」

「違いますよ。潜水艦と言って、海中を進む船です。油を燃やして、その燃やした力で櫂を動かして進んでいるんです」

「誰も漕いでねえのに、進むなんて、薄気味悪いなぁ。よくわかんねえことを、人間は思いつくもんだなあ。もはや妖怪だな、人間も」

「奪うためと、奪われないため。そのせめぎ合いが、人間の技術を進歩させてゆくのでしょうね」










渡邉と甚は、甚の狭い船室の寝台に並んで座っている。艦長以下は自分の部屋を用意されていないので、狭いとは言えど、こうやって座って会話ができる部屋があるだけでも、贅沢だ。

花石は、机の引き出しからブランデーを取り出して道雄に見せた。

「飲むか?前の艦長が忘れていったもんだ」

そうやって瓶をゆらゆらと揺らすと、蜂蜜のようにとろりとした琥珀色の液体がゆっくりと揺れる。

「いや、俺はいい」

渡邉がそう答えると、花石はブランデーを引き出しに戻す。

「そうか。俺も、別に好きじゃない。酒の味は、よくわからん。あ、味といえば、そう言えばふたりで純喫茶に珈琲を飲みに行ったりしたな。14の頃か?」

「ああ。そうだな。懐かしい。お前が海軍兵学校に行くと俺に伝えた時だな」

花石は懐かしそうに笑い、渡邉の横に座った。

「今、この艦は、敵に気づかれないようにゆっくりと北へ進んでいる。陸続きの半島に向かってる。もしかしたら、内陸部には帝国陸軍の駐屯地が残っているだろう。そこに、お前たちを降ろす。亀くらいの速度で進むから、2日はかかる。」

「ああ。すまんな」

「いやあ、しかしまさか道雄を、この艦に乗せることになるとはな。思ってもみなかった」

「ああ、俺もだ。まさか甚のフネに乗れるとはな」

「まったく、不思議なことが起こるもんだな、人生ってのは。
で、なんでお前は戦争にいるんだ?赤紙が来たのか?」

「いや、支那戦線に志願した」

「そうか。じゃあ支那で戦ったのか?」

「ああ。最初は香港と海南島で戦って、そのあとこっちに運ばれてきた。で、あの島で惨敗して、半年以上島を逃げ回ってるところを、お前に拾われた」

「ああ。しかしよくあの島で生き延びたな」

「ばあさんが子供のころからいろいろ教えてくれてたからな、生きる術が身についていたのかもしれん」

「あ、そうだったそうだった。ユキばあちゃんには、俺もいろいろ教わったよ。どうだ、相変わらず元気か?」

「いや、支那事変の少し前に、死んだよ」

「そうか…そんな前に…。知らずに、済まなかったな……いいひとだったよ、ほんとに」

「ああ、色男のお前にそうやって言われて、ばあちゃんも喜ぶさ」

「道雄、そういえば、おまえんところの子狸屋で出してた、オムライスあっただろ、ほら、味噌味の」

「味噌オムか?」

「ああ、それだそれだ。海軍じゃ絶対食べられないから、たまに思い出すと食べたくてたまらなくなるんだよ。俺の故郷の味はもちろんおふくろの作った料理だが、二番目はお前のとこの味噌オムだな。あれって、中身は何が入ってんだ?」

「ごぼうと鶏肉と米を薄味で炊いて、その上にだし巻き卵の要領のオムレツ。ソースは味噌ダレ。もしよければ作るけど、どうだ?」

「あー、食いてえなぁ。まあでも、卵は潜水艦の中じゃすぐにいたむから、卵は粉末なんだ。野菜類も日持ちする根菜類しか積んでない。その他の材料はすべて缶詰だ。だから味噌オムは難しいだろうな、気持ちだけ、食べとくよ」

それから故郷の話や、花石が経験した潜水艦での戦闘の話、渡邉が戦ってきた戦線について、ふたりは世間話のように話した。
あらかた話し終わり、部屋が静かになると、おもむろに花石は机の引き出しの中からなにかを取り出した。

「道雄、日本に帰ったら、これを、おやじとおふくろに渡してくれないか」

花石が取り出したものは、大正14年に製造された大日本帝国の拳銃、十四年式拳銃だった。
渡邉はそれを眺めながら訊く。

「なんでだ?」

「同じ故郷の人間だからだよ」

「お前が自分で渡せばいいだろ」

「それができないから言ってるんだ」

「できないって…どういうことだ?」

「話せば長くなる。道雄、頼む、受け取ってくれ」

花石は立ち上がり、頭をさげた。
幼なじみとは言え、相手は帝国海軍の潜水艦の艦長だ。そんな男に頭をさげられれば受け取らないという手はない。
渡邉は、しぶしぶ十四年式拳銃を両手で受け取った。

「なんだよ、仰々しい。どうした」

花石は頭を深々と下げ、渡邉の脇に座り、ゆっくりと話し始めた。

「渡邉。すまんな。恩に着る。
今から話すことは、誰にも話さないでほしい。いいか」

渡邉は頷いた。
花石は小声になる。

「実は、他の艦とは、もうだいぶ前から連絡が途絶えている。この海域にはもう、大日本帝国海軍のフネは、おそらく、ない」

花石はきっぱりとそう言った。

「じゃあ、海軍のいる海域まで行けばいいじゃねえか」

「油がない。前回の給油は三ヶ月前で、今はその港は占領されてる。給油どころじゃない」

「え、じゃあ、日本に帰る油は?」

「ない」

「そ、そういう時、潜水艦はどうするんだ?なんか、方法があるんだろ?」

「ない」

「じゃあ…浮上して、降伏するか、艦を降りるしかないのか?」

「ああ。だがそんなことをすれば、この艦の全員が、軍規違反の汚名を着せられることになる。俺も、彼らも、そんなことのために今までこの狭い艦内で耐えてきたわけじゃない」

「…じゃあ、お前…どうすんだ…」

狭く静かな部屋。
小声で話してゆくうちに、渡邉も花石の言わんとしていることが理解できてきた。
渡邉の問いかけに、花石はゆっくりと応える。

「ああ。ただ沈むくらいなら、敵さんの艦隊とやりあってから沈むさ」

「ほんとに、それ以外に、ほんとにもう、道はないのか?まだ占領されてない港もあるだろ、どっかに」

「…おい、海の底でどれぐらい考える時間があると思ってる。たくさんの想定を考えたよ。それに、この艦のやつらもみんな、それぞれいろいろたくさん、考えてる。油が残り少ないのも、海軍と連絡がとれないのも、感づいてる。
けれど、決めるのは俺だ。俺がこの艦のやつらの命を握る、死神なんだ。
なあ、渡邉、どうせ死神をやるんなら、お前はどんな死神になりたい?」

渡邉は突然の、その問いに対する答えを考えてみた。たくさんの部下のその命を握る立場。軍人とは、艦長とは、そういう職業だ。食堂の調理人である渡邉には、どうすべきかの答えは導き出せなかった。

「俺一人なら、どうとでもなるが、このフネの全員の命をどうするかと訊かれても…俺にはよくわからん…」

「ああ。そうだ。俺にもわからんよ。わからんが、海軍軍人としての俺はもう決めたんだ。
降伏は、命を掛けている彼らの覚悟に対する侮辱だ。
そして、油切れでただぶくぶくと海底に沈むのは更に彼らに申し開きできない。
このフネは、油が切れても、油が切れなくても、どちらにせよ沈む。
それが、この翠龍と、俺たちの運命だ」

渡邉は、革のホルスターに包まれた花石の十四式拳銃を眺めた。銃は電球の暖色の明かりを帯びて鈍く光る。

この艦の全員が、死ぬ。
旨いカレーを出されたあの食堂も、睡眠室も、ハッチも、全てが異国の深い海の底に沈む。
この拳銃だけが、この翠龍が存在した証になる。渡邉は、拳銃の重みを両手のひらに感じながら、重い石のような顔つきで拳銃を見つめた。

「おい、ほんとに、道はないのか?」

渡邉が部屋を出るときにもう一度訊くと、花石は、爽やかに笑ってから答えた。

「もし仮に道があっても、俺たちはさっき言った道を喜んで選ぶ。それが、潜水艦乗りだ」

渡邉は、暗い廊下を睡眠室に向けてゆっくりと歩いた。
花石と別れるとき、彼との今生の別れになる。
この艦を降りれば、もうそれが最後だ。
渡邉は雑嚢の中にいれた花石の十四年式拳銃のひんやりした感触を、布の上から触れて確かめた。






時刻は真夜中を過ぎていたが、部屋に戻ると清水と仲村は起きていた。

「あ、おかえり渡邉。どうだ、艦長室で上等の舶来品の酒でも飲んでたのかよ」

清水が天井を見ながら軽口を叩くと、うつ伏せの仲村が少しだけ身を乗り出した。

「でよ、俺たち、一体どこへ向かってんだ?」

渡邉は両方の質問に答えた。

「ブランデーがあったが、俺も花石も酒は飲めん。向かってるのは北だ。帝国陸軍の駐屯地が残っているかもしれん。2日で着くらしい」

「そっかぁ、2日かぁ、じゃあ、カレーはもう食べられねえなあ」

仲村がそうつぶやいた。
渡邉は、自分の雑嚢に入れた十四式拳銃の重みを感じた。
ここの乗組員たちは、あと何回カレーが食べられるのだろう。それを思うと、もうここの乗組員たちと会話を交わしたくなかった。もし会話をすることがあっても、彼らの眼を見ることができないかもしれない。

「渡邉、お前は帰ったら、なにかしたいことはあんのか?」

俯いて物思いにふけっていた渡邉に、頭上の清水が訊いた。

「どうした。急に」

渡邉がそう訊ねると、仲村が脇から答えた。

「渡邉がいない間にさ、ふたりで話してたんだよ。日本に帰ったら、なにするかって」

渡邉はそれにはすぐに答えず、雑嚢を肩から下ろし、寝床の上に置いて、逆に清水に質問をした。

「清水は、どうするんだ?」

すると清水は、両手を頭の後ろで重ね、遠くを見つめるような眼になった。
「俺は学徒でこの戦争に連れてこられて、“今”の大切さが、身にしみて分かったよ。
何気ない日常ってやつさ。風呂に入れる。爪切りで爪を切って、床屋でヒゲを剃ってもらう。何気ない日常がさ、とてつもなく今は恋しい。
だから、戦争が終わったら、俺は、いやというほど、“今”を感じてやろうと思ってる。
夏の茶店で、冷えたあんみつを三皿は食ってやる。
休みの日は、畳の部屋で足を伸ばしてごろりと横になって、昼まで寝る。
夕暮れに、砂肝と冷酒で夕涼みして、銭湯行ってほろ酔いで熱い風呂に入る。で、帰りは、駅前のコロッケを食いながら歩く。
そうやってとにかく、“今”をしっかりと感じたい」

渡邉は、何度か頷いて、仲村の方を見た。
仲村は、え、俺?というように自分の鼻を指さしてから、ぽつりぽつりと話し始める。

「子供の頃にさ、ボールでみんなと遊んだけどさ、思えば、あんなに平和で幸せで楽しいことってなかったよな。って思ってる
みんなでただ、夢中になって、ボール追いかけて。損も得も、なあんにもないのに、みんなで声あげて嬉しそうに、楽しそうに。
子どもって、いいよな、あんなことで心の底から思いっきり楽しめてよ。
でも…もしかしたら、それが…幸せってことなのかもしれない。
俺、所帯を、持ちたい。
自分の子どもとさ、そうやって…遊びたい。…あー、でも俺んところに来てくれる嫁さん、いるかなあ…」

「いねえよ」

清水がそう言うと、仲村は自分の帽子を清水に投げた。

「うるせえぞそこの学徒。大人をなめくさりやがって。で、渡邉、お前は、どうすんだ?」

仲村がそう訊いた。
渡邉は黙った。
何も答えられなかった。

「もう疲れた。俺は寝るよ」

そう言って、渡邉はふたりに背を向けた。
眠れなかった。





花石とは、それから何度も会ったが、もうあまり話はしなかった。
互いに話をしたそうな雰囲気はあったが、話をすれば絶妙なバランスで成り立っているなにかが壊れそうな、そんな気がお互いにしていた。
帝国軍人とはいえ花石も同じ人間で、同じ街で同じように育ってきた。
その青年が、何十人という若者の命を握り、その責任を負っている。
渡邉に話したのも、並大抵の覚悟ではなかったと思う。
渡邉にはそれが分かった。
だから、話しかけられなかった。
どうしても、一般人としての考えを彼にぶつけてしまいそうで、怖かった。

2日後の夜、宮野が三人のもとへやってきて、小声で言った。

「渡邉さん、仲村さん、清水さん。間もなく到着します。ご準備ください。艦は接岸できないので、申し訳ありませんが、また泳いでいただくことになります。」

三人は、海軍の制服を宮野に返却して裸になり、陸軍の制服と歩兵銃を、鉄帽の上にくくりつけた。
潜水艦は、浮上すれば、排水で音も出すし、海上で目視で発見される確率が高まる。その状態の中で、三人を降ろすために浮上する。全乗組員を危険にさらしているのだ。三人は緊張した面持ちで、潜水艦が浮上するのを待った。

潜水艦が、ゆっくりと浮上してゆき、満月が、柔らかな波や海底を、蒼く照らす。
潜望鏡を海面から突き出し、周囲をぐるりと警戒する。周辺に異常はないらしい。ハッチが、ゆっくりと開いた。

ハッチのはしごの前に、乗組員たちが見送りに来てくれた。
声が漏れるので、みな無言で、敬礼をする。
ふんどし姿の三人は、その格好のまま敬礼をする。ところどころから、くすくすと笑い声が聞こえ、三人も笑いを噛み殺した。

軍服姿の花石が艦上に立って見送る。花石が海軍式の敬礼をすると、三人が、陸軍式の敬礼を返礼した。
花石が頷き、三人も頷いた。
三人は音を立てぬようにゆっくりと海に入る。

仲村が、堪りかねて小声で訴えた。

「あの、ここのカレー、世界で一番美味しいカレーでした。宮野さんに、そうお伝えください。絶対に、忘れません」

花石はしゃがみ、仲村を見下ろして白い歯を見せて笑って頷いた。
渡邉は、潜水艦に掴まり、花石に右手を差し出した。
花石は、しっかりとその手を握り返す。
渡邉は、睨むようにして花石を見つめた。何か言おうと言葉を選んだが、何も言葉は出てこなかった。どんな言葉も、似つかわしくないように思えた。
そして渡邉も、花石の手を強く強く握り返した。

ふたりの手が離れると、花石は立ち上がり、ゆっくりとハッチへ歩いてゆき、はしごを降りた。三人は、音をたてぬように浜へ向かい、渡邉は泳ぎながら振り返った。

満月を背に、潜水艦のハッチから顔を出した花石が見えた。
あの日、海軍兵学校へ向かう汽車で別れた時の、あの顔だ。
花石のその姿が、ぼんやりと滲んで見える。もう、彼を見ることも、声を聞くこともない。

陸に泳ぎ着き、浜に立ち、すぐに振り返ると、海にはもうなにもなかった。まるで最初からなにもなかったかのように、ただ夜の静かな海があるだけだった。
波音が、静かに繰り返され、三人は、珊瑚のかけらで埋め尽くされている浜に寝転び、黙って空を見上げた。

「夢みたいだったな。なんか」

清水がぽつりとそう言った。

「ああ」

渡邉がそう応える。

花石に、なんと声をかければよかったのだろう。さまざまな言葉が川の水のように、渡邉の意識に流れてくる。けれど、どの言葉も違うように思える。それでも、たくさんの言葉が、どんどん押し寄せてくる。
言葉が溢れ、言葉を届けたいとき、言葉を届けたい相手はもういないものだ。

星がまたたき、波が何度も寄せては返した。さらさらと珊瑚のかけらが擦れ合う音がしていたが、もしかしたら流れ星の音だったのかもしれない。
渡邉の頬を海水がつたう。


もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。