「メランコリック(2019)」と10本の映画

今回は、2019年公開の田中征爾監督作品「メランコリック」をもっとよく知るための10の映画をピックアップしてみました。本作について、その周辺にあると僕が勝手に思う作品を挙げながら本作の輪郭を見つけることができたらいいなと思います。(「メランコリック」についてのあらすじなどの基本情報は、こちらから確認して下さい。)

個人的に、「メランコリック」のポイントは、銭湯という場所でした。キャリアハックのインタビューによれば、元々の舞台は銭湯ではなくて「山の上の採掘場」だったらしいのですが、いろいろな関係で結果的に銭湯で撮影することになったことで、非常に意味のある作品となったのではないでしょううか。特に、日本映画において。というのも、「銭湯」広く言えば「湯」という主題は、最近の日本映画における一つの流れといえるからです。たとえば2010年代では武内英樹監督の「テルマエ・ロマエ」(2012)や中野量太監督「湯を沸かすほどの熱い愛」(2016)、中川龍太郎監督「わたしは光をにぎっている」(2019)など、数年おきに「銭湯映画」が公開されているのは興味深いですし、アニメ作品では2000年代ですが、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」(2001)がありました。とくに「千と千尋の神隠し」は、最近まで日本の興行収入一位を誇っていた作品でした。

もしかしたら、バブル崩壊後の日本を描く上で、誰でも分け隔て無く受け入れてくれる「湯」という存在は改めて重要な存在として浮かび上がってくるのかもしれません。

特に、地理的に温泉が各地で湧き出る日本では、古くから風呂という場所に特別な思いを抱いていました。「ケガレ」を落として身を清める場所としての風呂と考えると、その意味の大きさに気づかされます。さらに、不特定多数の利用者がいるという公共の場所であるという異質な点は、個人主義的な傾向がある現在において、特徴の一つだと考えられるでしょう。

一方で、海外の映画を見てみると、シャワールームというのは日本ほど特別な意味を持っていないようです。シャワールームでの殺人と言えばヒッチコックの「サイコ」ですが、そもそも銭湯という文化がないアメリカを初めとする諸外国において、体を洗うシャワールームは完全にプライベートな空間。だからこそ他の誰にも見つからないで「サイコ」では殺人が行われたわけです。

次のポイントは、「無気力な大学卒」が主人公であると言うこと。「メランコリック」では、主人公が行くつもりのなかった同窓会に参加するシーンがあります。大学卒業後、就職するわけでもなかった主人公と、その一方で、それぞれの形で社会に適応していった同級生たち。どちらの立場にせよ、卒業後の進路というのはどの時代の大学生も頭を悩ませてきた問題でした。日本映画史でいうと、初期では小津安二郎が「大学は出たけれど」(1929)で、昭和恐慌後の就職難に苦しんだ男を撮っているし、最近では三浦大輔監督の「何者」(2016)は、リーマンショック後の就職氷河期に苦しんだ就活生の苦しみを描いています。大学を出たものの経済的、産業的な理由から苦しむ若者を映画はいつの時代もキャプチャーしていました。

最後に気になった点は「ブラックコメディスリラー」というジャンルについて。あまり普段から映画のジャンルを特別気にすることがなかったのですが、コメディとスリラーがどう両立しているのか気になって、鑑賞後調べてみたところ、このジャンルにはポン・ジュノの「パラサイト」(2018)やジョーダン・ピールの「ゲット・アウト」(2017)、コーエン兄弟の「ファーゴ」(1996)「モンティパイソン」シリーズ、キューブリックの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964)などなどを含むことができるのだとか。なるほど、名作揃い。というよりも、映画の歴史を更新してきた作品であったり、大きく社会に影響を与えた作品がこのジャンルにはこのジャンルには多いように思えました。いつの時代も、コメディは社会批判の一つのツールです。もしかしたら現在の映画が持つ大きな役割の一つが、このジャンルを研究することでわかるかもしれません。

ただただドラマやストーリーを伝えるのではなく、描くべき対象から一歩か二歩下がり、適切な距離を取った状態で観察する。そこから見えてくる人間の愚かさやおかしさというのをキャプチャーしていくのがこのジャンル。それには高度な脚本技術や、演出技術が必要になってきます。そして、必然としてそうした作品は社会に大きな影響を与えることができる。

「メランコリック」がどのような社会批判を含んでいたのかについては、また別の機会に書きたいと思います。

織田哲平

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