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【都市伝説】隠し念仏と隠れ念仏


●隠れ念仏


今回は九州と東北に伝わる「浄土真宗」の都市伝説「隠し念仏」「隠れ念仏」についてnoteにまとめました。

お菓子でも食べながらゆっくり読んで頂けると幸いです。

鹿児島に浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。

浄土真宗の「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生ける命は等しく尊い」という教えが、当時の封建制度にそぐわず南九州の一部で三百年にわたり浄土真宗は弾圧されていました。

浄土真宗を隠れて信仰したことが薩摩藩にバレると違反した信者に「石抱き」という拷問を行いました。

三角の割木を並べた上に容疑者を正座させ、幅30cm、長さ1m、厚さ10cm余、重さにして30kgの平たい石をひざの上に一枚ずつ重ね、体を前後に揺さぶる。石が5枚ぐらいになると足の骨は砕けてその痛みから絶命することもあったという。

また滝壷に信者を投げ込み、浮き上がってくると竹竿沈め最後には溺死させる刑罰も行われた。

このような非常に重い弾圧が続くなか、鹿児島の浄土真宗信者は地域ごとの信仰者による集まりを結成し、ひそかに山深い奥地や洞窟穴の中でひっそりと法座を開いたり、タンスの中に仏壇を作った「隠し仏壇」など多くの工作をしていった。

九州にある隠れ念仏の地


隠れ窟

上記のように悲劇的弾圧を受けた鹿児島の浄土真宗信者ですが、生き延びた多くの信者らはその後も浄土真宗を信仰しました。
一方で独自の信仰を遂げた浄土真宗信者の一派がいます。

それは「カヤカベ」という信仰集団です。
カヤカベ信仰の始祖は宮原真宅(みやはらしんたく)という浄土真宗のお坊さんで、薩摩藩に弾圧で殺されたと言われています。

カヤカベが独特なのはその複雑な信仰スタイルです。

表向き的には神道の信者を名乗り、毎年、霧島神宮への参拝を行いますが、実際は親鸞を開祖とする浄土真宗の信仰をベースに地元に昔からある「霧島山岳信仰」も取り入れています。

つまり、仏教である浄土真宗と神道である霧島山岳信仰が融合されたかなり稀な隠れ信仰集団です。

なぜここまで複雑な信仰の形態になったのか。

それは浄土真宗の本家である東本願寺との繋がりですら絶つことで、自分たちの信仰を守ろうとした強い意志によるものと言われています。

その意思を裏付ける話として、カヤカベ信仰の宅には神道の神棚があってそれに柏手を打ちながら拝みます。

しかし、その神棚の壁には一枚板壁があってその壁の裏に本当の仏壇があり、その仏像に対して拝んでいるそうです。

また、「カヤカベ」の実態や歴史、作法などについては「オツタエ」とう口伝で代々伝えられている為、謎が多く解明されていないが、正月やお彼岸、お盆、毎月11日、13日、16日、父母の命日は精進日とみなされており鶏肉や牛肉以外に乳製品は食べてはならない等日本では珍しく多数の禁忌が存在します。

●隠し念仏


「隠し念仏」とは江戸時代の東北地方おもに岩手県を中心に、幕府との関係を強めて徐々に世俗化していく浄土真宗に不満を抱いた信徒が、独自の信仰に走り開祖親鸞の教えを忠実に従った信仰です。

浄土真宗側からしたら本家を通さずに信仰を続けている為、邪教とみなされ、また幕府から見ても、浄土真宗を通して社会秩序を図ろうとしており、隠し念仏は邪魔だった為、国からも弾圧を受けました。

浄土真宗本家と幕府双方から弾圧をうけることになり、人目に付かない所で念仏などの信仰を続けたことから、隠し念仏と呼ばれるようになりました。

隠れ念仏は九州の藩が一方的に弾圧をして、そこから隠れるよう信仰を続けたのに対して、隠し念仏は自分たちの意思で信仰を隠したのです。

隠れて信仰を守る隠し念仏の集団は、幕府からも浄土真宗本家からも敵視されました。

仙台藩や盛岡藩では信徒に対する弾圧が行われ、さらに信仰を隠す機密性が増した結果となります。

木箱の中に隠してあった仏像

現在も隠し念仏の信者は東北の一部に残っているとされていますが、迫害を恐れて多くの人は口外しません。

多くの信者は家族間の信仰を代々続け守りぬいていることから、実態は謎に包まれている秘密結社のようなタブー的存在となります。

なお、昭和で青木慈雲(あおきじうん)の心霊番組があり、そこで若手時代の竹中直人が岩手に隠し念仏の取材にいっています。

取材中ニコニコしながら竹中直人と青森のおじいちゃんおばあちゃん世間話をしている中で突然竹中直人が「隠し念仏って知ってますか?」と聞くと、急に黙り込んでその場を去ってしまったり、笑いながらごまかしたりしており、本当にタブーなんだとわかります。

そんな秘密結社的な隠し念仏は呪術的で秘儀的な部分が強いといいます。

方座を開くときはクロ仏と呼ばれる仏像を崇めるのですが、これは浄土真宗の開祖「親鷲」が自らの姿を彫ったとされる仏像で、親鷲が亡くなった後に火葬された灰を塗り付けたとされています。

また、信者の家に生まれた子供は6才までに地域の導師や指導者の家に連れて行かれ、入信の儀式が行われます。

まず念仏を唱えられた後、経文で頭をなでられる「オモトヅケ」という儀式をします。

このオモトヅケを受けたその子が6~12才ころになるとある儀式が行われます。

それは「オトリアゲ」と呼ばれる儀式です。

オトリアゲを受ける子どもは地域の導師の家に出向き仏間で座禅を組むと「助けたまえ、助けたまえ」と長時間唱え続けます。

意識が飛び、泡を吹くまで行われるとされ、オトリアゲを受ける子どもたちが極限状態になったころ、導師が「助けた!」と叫ぶと、子供は口を手のひらで押さえられ、平伏させられます。

そして鏡を口の中に照らし、光をオトリアゲを受ける子どもの口に照らします。
そして導師からは「仏様がいま口から入ったからな。ここであったことを他人に喋ってはならない。もし他言すれば地獄に堕ちる」と厳命を受けるそうです。

オトリアゲの模様とされる一枚

隠し念仏は東北の一部の地域、とくに岩手の花巻に巨大な宗派があったとされ、この隠し念仏を幼少期に経験したと言われている有名人がいます。

それは宮沢賢治です。

宮沢賢治

宮沢賢治は岩手の花巻に生まれました。

宮沢賢治の一家は厳密な浄土真宗の信仰者だったとされ、宮沢賢治も3才のころには浄土真宗のお経を暗唱していたと言います。

しかし、宮沢賢治は18才のときに日蓮宗(にちれんしゅう)に信仰を変え、実の両親と宗教観で対立関係にあったと言われています。

宮沢賢治の詩にいくつか隠し念仏について書かれており、その様子は批判的に伝えていることから、隠し念仏を幼少期に経験したのではないかと言われています。

鹿児島の隠れ念仏、そして隠れ念仏から派生したとされる「カヤカベ」。
一方青森の隠し念仏はどれも浄土真宗から生まれましたが、どちらも共通して、現在も一部地域では信仰されていると言われています。

しかし、その実態は謎に包まれておりその数も年々減っていると言われていますが、時代とともに無くなっていくのでしょうか。

個人的には僕たちが思っている以上に「信仰」という想いは強いと思うので、無くなることはなくこれからも続いていくような気もします。

最後まで読んで頂きありがとうございました。
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