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のどぼとけとギター

すいかのおじちゃんがおそらにのぼった。


すいかのおじちゃんは、私の叔父で、父親の兄にあたる。


すいかのおじちゃんが亡くなりましたと親から連絡がきたとき、私は偏頭痛が酷くて仕事を早退させてもらい家で寝込み、起きてうだうだしていたときだった。

私にとって記憶にある身内が亡くなったのは初めてだった。偏頭痛はほぼ治ったものの、心臓に偏頭痛が移動した感じがしてずきんずきんとし、それからなんだか顔の周りがムズムズと痒くなり、涙が溢れてきた。


すいかのおじちゃん

すいかのおじちゃんは一人暮らしだった。私の実家の近所、自転車で15分ぐらいのところに住んでいて、お正月とお盆になると私の実家へ来て、仏壇に手を合わせ、父親と話をする。そのときによくすいかや果物をくれたり、お年玉をくれたりした。いつからか「すいかのおじちゃん」と私たち姉妹は呼んでいた。

私がすいかのおじちゃんと会ったのはおそらく10年前が最後なんじゃなかろうか。大学生になって、年末年始はバイトをしたり友達と過ごしたりして、そのうち実家を出て、それからは年末年始もお盆も実家にほぼ帰っていない。

脳梗塞かなんかになったときに、自分で異変に気づいて、自転車で病院まで行って、無事だったという話を聞いた。そのあと会った正月がたぶん最後で。お年玉の入ったポチ袋を持つ手が小さく震えていたのを覚えている。


コロナもあるし、私たちの家族以外に親族がいないため、葬式と通夜は省いて火葬だけやると親から連絡がきた。実家を出ている三姉妹は動揺したが、みんな向かうことになった。

私も悩んだけど、私たち三姉妹が誰も行かなかったら、さいごにお見送りするのは私の両親の二人だけだ。もうずっと会えてないからいいかとか思ったけど、ずっと会えてなかったから会いに行こうと思ったのだった。

ついに自分も、人の死に本当に向き合わなくてはならない日がきた。

私の記憶のあるうちに、身内でなくなった人が誰もいなかった。だからいつかその日が来るだろうと思っていたけど、その瞬間は本当に突然にしておとずれる。私の覚悟なんて全然待ってくれない。


火葬の前日は仕事をしていた。仕事に集中しようと思えば集中できる感じはしたけど、なんだかやる気が出なかった。何を食べたらいいのかわからないという感覚がうつ病を患っていたぶりにきて、コンビニで昼食を時間かけて悩んだ。火葬というものが何をするのかぼんやりとしかわからず、何をするのかググって調べた。何回読んでもご遺体が焼かれることに変わりはなかった。おじちゃんは明日焼かれる。ごはんを食べてるとちょっと涙が出てきた。

10年も会っていない人なのに、どうしてこんなに悲しいんだろうと思った。職場の人たちも私が悲しんでいる姿を見て「仲の良かったかたなの?」と聞いてきたけど、10年会っていない人だと答えながら自分でもなんだか腑に落ちない感じがあった。なんでだろうって。

火葬の日の前日は仕事が終わったら実家に直行して、一晩止まって朝に斎場に行くことになっていたんだけど、できるだけ誰とも会いたくなくて、当日の朝6時半に家を出て葬儀場の最寄駅で家族と待ち合わせすることにした。

喪服も持っていなくて、家族に話したら「喪主じゃないし身内だけだからなんでもいいよ」と言われたので、家にあったありあわせの黒い服をかき集めた。黒いタイツは2年ほど履いていなくて、つま先は穴が空いていた。


さいごにみたすがた

火葬の日、家族と合流すると、斎場に向かう車の中は意外にも和気あいあいとしていた。妹がゾゾタウンで急遽買った安物のネックレスが急に切れてバラバラになったり、母親が家で作ってきたおにぎりを食べていたり、斎場に行く道を間違えたり、そこで妹がナビを始めたのに父親が無視して進もうとしたり。ハプニングのたびに全員がガヤガヤした。

久しぶりに家族が全員揃った。というか私がずっと帰ってなかった。


車のトランクを開けると、添える花のほかにたくさんのものが入っていた。すいかのおじちゃんが読んでいた本、弾いていたギター、釣竿、釣り用の服、アロハシャツ。ぜんぶ棺桶に入れるらしい。

棺桶にものを入れるの、なんだかドラマや映画で見たことあったけど、本当にやるんだなって思って、そこで本当に人が死んでしまったんだ、これから人が火葬されるんだということを実感した気がする。


斎場ロビーで少し待って、お待たせいたしましたと案内の人が言う。ついていくと、白い木でできた箱があり、その前のテーブルにお焼香が乗っていた。母親のやる動作をよくみてそれぞれが不慣れな焼香をした。

すいかのおじちゃんは口をあんぐりと開けていた。歯がほとんど虫歯で溶けていて残っていなかった。白い布に包まれて横になっていた。そこへ持ってきたおじちゃんの服を乗せていく。父親が適当に乗せようとするので、下着から先に乗せようと言った。

ほとんどが木でできたギターは、金属が使われているので入れられないと斎場の人に言われてしまった。本も灰がすごいことになるのでダメだと言われ、本の表紙だけを取って入れた。持ってきたものの多くは結局家に持ち帰ることになった。

最後に花を添えた。おじちゃんの肩から上らへんに花を各々添えていく。この花を添え終わったらもう会えないんだと思った。花をおじちゃんの顔の横に置こうとしたら、開いた口から出る生温かい吐息が、花を持つ私の手に当たるんじゃないかと思って緊張したけど、風は起こらなくて、それがすごく悲しかった。会場についてはじめて涙がぼろぼろと溢れてきた。ただ寝てるだけかもしれないのに。きっとまた起き上がると思うのに。でも息はしていないみたい。寝てるように見えるのに。どうして息してないんだろう。燃やしてる間に起きたらかわいそう。そんな感情が一瞬で自分のからだを駆け巡って、それが涙になって溢れ出てきたような感じ。


箱の中に入ったおじちゃんは、ディズニーシーのタワー・オブ・テラーでみたことのあるような、重たそうな扉の中に入っていった。扉を閉めたらさらに重たい扉で閉められる。斎場の人が手際よく、でも丁寧に箱を火葬していく。扉を全て閉めたら、扉に向かってお辞儀をした。

そこからロビーに戻って、1時間ほど時間を潰した。ロビーには他の人の火葬をしに来ている知らない家族もいたのだけど、どの家族も老若男女20人ぐらいという感じの大所帯で、ちゃんと喪服を着ていたり、遺影を持っていたりした。私たちは5人で喪服もありあわせ。遺影もないし、なんかギター持ってるし。でも私たちの家族が一番ガヤガヤしていたと思う。

父親は最期のおじちゃんを発見した第一人者で、ここ数年のおじちゃんの様子を話してくれた。私は父親っ子なので久しぶりに会う父親の話を相槌打って聞く。妹1はなんだかさっきから具合が悪そうで、寒いと言ってコートを羽織り、私の大きなマフラーも膝にかけて寝始めた。妹2はロビーが飲食禁止なのを知って、母親が持ってきたおにぎりを食べに車に戻ったり、自動販売機を見に行ったりとうろちょろ。母親は久しぶりに家族が集まったことがとても嬉しかったようで、集合写真を撮ろうと立ち上がり、今じゃないでしょと妹に止められていた。


納骨

1時間ほどして斎場の人に部屋に呼ばれた。部屋で待っていると、大きなステンレスのテーブルに骨が乗って出てきた。すいかのおじちゃんの骨。

私は事前に火葬についてググったとき、骨を見るのは人によっては衝撃が強いため、子供にはあまり見せないと書いてあった。私はそれを読んで、この瞬間を耐えられるのかとてもとても不安だった。人が骨になり、その骨の実物を目の当たりにする。その事実をどうやって受け止めたらいいのか。

だけど目の前にあらわれたそれらは本当に骨で、とても綺麗だった。規則的のように見えて他にない曲線を描いた白くてマットな質感のものたち。内側はあみあみになっていたけど、自分が想像していたよりもずっと密度が高かった。

斎場の人が部分ごとに骨を説明していく。一番最初に説明されたのは、のどぼとけの骨だった。

喉仏。仏様が手を合わせるような形をしていることからその名がついた。喉仏って骨だったんだって思った。男の人の喉を上下に動くあの生き物は骨だったのだと知った。

おじちゃんののどぼとけは本当に綺麗な形をしていた。仏様の頭もはっきりとわかったし、腕がぐっと突き出ていてその先に手が合わさっている。背筋がピンと伸びていた。仏様の後ろ姿が本当にかっこよかった。

「こんなに綺麗な喉仏はあまりないですね。骨も全体的に密度が濃くて、健康的です」

斎場の人はすいかのおじちゃんの骨を褒めていた。


それから家族で1つずつ、おじちゃんの骨を骨壷に入れた。お箸を使って、2人1組になって大きめの骨を一緒につまんだ。小さい頃から箸で掴んだものを別の箸で掴んではダメだと口酸っぱく言われてきたけど、今日だけは許された。骨は意外と重たくて、確かに一人分のお箸で持つのは落としちゃう気がした。

それからは斎場の人が手袋をした手で骨壷に収めていく。骨が入りきらないときは途中で骨を押させていただきますと前置きして、骨を丁寧に骨壷に入れ出した。それを私たちは静かにみている。

斎場の人と、こんなタイミングで話をする機会なんて滅多にないだろうと思った私は、思っていたことを質問することにした。

「さっき骨の密度が濃いとおっしゃってましたが、すかすかの方もいるんですか?あと、いま壺の中の骨を押して入れてますが、大人の人はこの骨にそうしないと入らないもんなんですか?子供だと押さなくても入りますか?」

斎場の人は手を止めたり、動かしたりしながら、丁寧な動作は変えずに優しく教えてくれた。

「そうですね。もっと骨の密度が薄い方もいらっしゃいます。ご病気で亡くなられた方などでときどきいらっしゃいます。そうなるとこのように骨の形にはならずに出てくるんですね。先ほど骨の部位をご紹介しましたけど、骨の形にならずに出てくる方は部位がどこだかもわからない状態になってしまいますし、壺に入れた際もこのぐらい(壺の下から7分目ぐらいのところに手を当てる)でいっぱいになる方もいらっしゃいます」

私はへえ〜と声を出した。斎場に来てこんな声を出すなんて思っていなかった。不謹慎だと思われたかもしれないがここには私の家族しかいない。妹や父もへえと小さく言っていた。そう話を聞くと、おじちゃんは本当に健康で丈夫な体だったんだなと思ってなぜか安心できた。


斎場の人が最後まで丁寧におじちゃんの骨を骨壷に入れてくれた。最後のほうは小さなほうきと、ステンレスの大きなトレーのようなちりとりを使うのだけど、私たちの知っている使いかたでは全くなかった。ほうきを押し付けてテーブルにゆっくりと滑らせていく。遺灰が舞わないようにだろうし、雑に見えないようにするためだろう。本当に少しだけテーブルに乗った遺灰を最後まで骨壷に入れてくれた。

こうしてすいかのおじちゃんは骨壷に静かに納まった。

斎場の人が骨壷を箱に入れて、箱の上から白い布で手際よく覆ってくれてた。それを父親が受け取り、斎場を後にした。車の運転をするために私が膝の上で抱えて帰った。思っていたよりもずっしりと重たかった。


がらくた屋敷

おじちゃんは一人暮らしだった。

定年退職後はアルバイトをしながら、仲間をつくって楽器を演奏したり、釣りに行ったりしていたようだった。正月に会うときもウクレレの話を聞いたことがあったし、父親と釣りの話をしたりしていた。私が中学生のとき、私が吹奏楽部に入ったと聞いて、映画「スウィングガールズ」の本をくれたのを覚えている。

しかしここ数年、おじちゃんは認知症の疑惑が上がっていて、数年前から父親が少しだけ面倒を見ていたらしい。がっつりと面倒を見られていなかったのは、おじちゃんが一人で生活することを望んでいたからだったようだ。

プールや銭湯や飲食店の入った施設に行き、プールで泳いだりお風呂に入ったりして一日をそこで過ごすのがここ最近の日課になっていたようだ。その行き来の道で飲食店に寄りご飯を食べる。自転車でどこでも行く人だった。毎日この生活を続けていたらしい。

しかし自転車で施設に行く途中に転倒し救急車で運ばれることが増えてきて、父親がその都度迎えに行った。数年前に初めておじちゃんの家に行ったのだけど、家は良く言えばがらくた屋敷、悪く言えばゴミ屋敷だった。部屋はものが入った段ボールで山積み、ゴミはほったらかし。風呂場もトイレも段ボールだらけで、水道もガスも通っていなかった。父親はそこから部屋を片付けようと提案するのだが、おじちゃんは頑なに「これは捨てるな!」と怒鳴り続けたという。

それから短期記憶が少しずつ怪しく感じるようになり、転倒して病院に運ばれたときの記憶も分からないことが増えていた。おじちゃんが亡くなったタイミングは、ちょうど父親が介護保険を申請した数日後だった。


そんなすいかのおじちゃんが過ごした家に、斎場から帰宅し着替えた後に向かうことになった。父親と妹と。

部屋はアパートの一階で、部屋の前には毎日乗り回していた自転車が置いてあった。前と後ろにカゴがついていて、濡れないようにちゃんと蓋が閉められるようになっていた。その中にたくさんの荷物が入っている。おじちゃんが過ごしていたそのままの状態。

部屋に入ると床は何かをこぼしたような跡だったりが無数にあって、父親は土足で部屋に上がっていった。私と妹も靴のまま恐る恐る続く。

父親はおじちゃんが寝ていた布団をどかして、これでも半分ぐらいものを捨てたんだよと言った。部屋は二つあったが、一つは天井まで高く段ボールが積まれ、段ボールの間に服がところどころ挟まっていた。窓があるはずの部屋なのに太陽の光は全くさしてこず真っ暗だ。これ全部何が入ってるのと聞くと、本とかCDとかレコードとかDVDだよと父親は答える。

そして父親がギターケースを出してきて、楽器なんて捨てられねえからよぉ、と私に渡してきた。

ずっしりと重たいハードケースを開けると、ずっしりと重たいギターが入っていた。ぴかぴかしているけどちゃんと使われた跡があるギター。ピックがネックと弦の間に挟まっていて、チューナーもシールドもちゃんと入っていて、いかにも「明日もまた弾くぞ」という感じだった。おじちゃんの昨日を見た気がして涙が出そうだったけど、視界に入るゴミたちがそれを抑えてくれた。

それと父親は、ハサミがいくつもいくつも出てくんだよと言った。見ると適当なカゴの中にいろんなハサミが何十本も入っている。壁にもハサミがかかっている。100均で売っているような文具のハサミが大半だが、ときには曲がったハサミや、大きな裁ちばさみなどもあった。推測だけど、家にハサミがないと思い込みいちいちハサミを使うタイミングで買いに行っていたのではないかなと思う。どんなことにハサミを使うのか、郵便物を開けるくらいしか思いつかないけど。

私もライブのたびにハサミを買ったりしていた。フライヤーを手作りしてコンビニでコピーし、それを切るために。臨時で買ってきたコンビニのハサミが家に4本くらいある。楽器をやる人間が私の家系は私とおじちゃんしかいないけど、それ以外にもハサミをコレクションしちゃうとこもおじちゃんと似ちゃうなんて、どんな血だよと心の中で呆れて笑った。

楽器は他にもあるだろうけど、来月末までにこの部屋を退去しなきゃならないらしく、とりあえず少しずつ片付けながらまた何か出てきたら連絡をするということになり、そのギターを私は持って自分の家に帰った。


私は今までの人生でいろんな楽器を練習してきた。小さい頃からピアノを10年ほど習ったし、吹奏楽部に入って打楽器を始め、それから今もドラムを叩いている。高校時代の管弦楽部で打楽器は人が足りてるからと、コントラバスを2年間だけ嫌々やったりもした。いつの間にか歌を歌ってライブしているし、いつの間にかピアニカを吹いていた。何故かウクレレを買ってあんまり上手に弾けないまま所有している。

音楽活動をしていてずっと隣で弾いてもらってきたギターだが、私は一切触ったことがなかった。だし今後も一生ギターはやらないと思っていた。だって5本の指で操るはずなのに、6本も弦が張ってあるんだもん。

だけどこうやって託されてしまうと、触らずにいられなくなってしまう。使わないともったいないし。

重たいギターを実家から持って帰る。ハードケースでリュックの紐などついていないので、小さなとってでおろして休憩したり持ち替えたりしながらどうにかこうにか持って帰ってきた。私は家に着いてからもう一度ギターケースを開けてみた。

さっき開けたときの部屋が暗かったからか、思ったよりもものがごちゃごちゃと入っていそうだった。ものを入れるところがふたつほどあったのだけど、そこはまだ開けていなかったのでおそるおそる開けてみた。

そこにはすいかのおじちゃんの昨日がまんべんなく詰まっていた。


ボランティア演奏をしたと思われる日のタイムテーブルとセットリストの紙。

いつ切れても替えられるようにバラバラと入っているギターの弦。

チューナーには二箇所に名前。仲間のものと間違えないように。

それからおじちゃんとバンドメンバーが一緒に写ってる写真。

封が開いてまだ残っている日光のいちご餅のお土産。



「こないだの演奏会後に飲んだときに撮った写真を仲間が現像してくれた。今日の練習で仲間が日光に旅行に行ったからとみんなに配ったいちご餅。また明日練習するときにつまみながらやろう」


おじちゃんのその時間がそのまんま蓋をされていた。私は堪えてた涙が止まらなくなって、一人の部屋の中で声を上げてしばらく泣いた。こんなもの、残したまんまにしないでよ。なんで私に見つけさせるの。いちご餅まで忘れないでよ、もう。なんでもういないの。


どうしておじちゃんが本をくれたとき、もっと音楽の話を一緒にしなかったんだろう。どうして大学生になったお正月に、バイトとかに時間を割いておじちゃんに会わなかったんだろう。って思ってたけど。

おじちゃんは一人で大好きなことを自分の満足がいくように、最後の最後までちゃんと楽しんでたんだ。楽器を一緒に演奏できる仲間がいて、自分の好きな街があって、変わらない日課があって、好きなときに好きなものを食べる。そんな毎日をずっとずっと崩したくなくて、自転車で転倒して気を失っても、病院に運ばれても、ご飯屋さんで倒れても、ずっとずっと変わらず自転車に乗って変わらない日常を過ごしていた。ときどきギターを鳴らして、ときどき音楽を聴いて、ときどき釣りに行って、ときどきハサミがないって困って。

おじちゃんの愛おしい日々がちゃんとあって、それどおりに最後まで過ごせたことが、本当によかったのだろう。

おじちゃんが亡くなったと聞いてからこの瞬間まで、一人で寂しくなかったかなとずっと考えていた。私じゃどうしようもできないかもしれないのに。だけどそんなことを考えてる私が大馬鹿者だった。おじちゃんごめん。


その日は泣いたり泣き止んだりしながら何もせず布団に入って寝た。次の日仕事だったから。仕事中も一回泣いてしまい、職場の人を心配させてしまった。

またギターを開けると悲しくなってしまうと思っていたんだけど、楽器への興味は拭えなくて、仕事から帰ってきてギターを開けて音を鳴らしてみた。全然弾けないけどいい音なんだろうというのはわかる。それまでは心臓がときどきずきんと痛んでいたのだけど、音を鳴らしたら悲しい気持ちがどこかに行って、その日からすぐ元気になった。その日の夜も安心してぐっすり眠れた。


生きていく私と、死

人が死ぬのは悲しいことだ。もう会えないから。肉体がなくなって、その人の情報が更新されなくなるから。私たちは日々人と会ったり、会えないときは人のことを思い出す。人のことを思い出して「今何やってるかな」「元気にしているかな」と思えるのは、その人が日々の人生を更新している前提だから。だけど死んだ人は何も更新されない。更新されても、過去の生きていた頃のことが新たにわかるということだけ。

死は全てのいきものが平等に一度ずつ分け与えられているものだ。もちろん人にも。だけど私の生きる社会や世間、私の周りの人々は、人の死を不謹慎なものとして扱う。墓地を作るのを反対する人がいたり、人が亡くなった部屋の賃貸が安くなっていたり。もちろん人の遺体は基本的には目にすることができないようになっているし、カメラが向けられることは基本的にはなく、報道ではモザイクがかけられる。

自分はどうやって人の死と向き合うんだろう、と漠然と考えることがあった。しかしいつの間にかそんなことを考える私はいつも、人の死は恐くて恐くてしょうがないものだと思っていた。遺体を見ることは正直気持ち悪いものだと思っていた。だから火葬に行く前日は、自分の精神状態がどんなことになるか想像がつかなくて怯えていた。だけどおじちゃんの姿と骨を見たら、死はもっともっと静かで、怯えたり恐がったり気持ち悪がったりするものじゃ全然ないんだってわかった。当たり前という言い方はちょっと違う気がするけど当たり前の状態というか、ごく自然にそれは存在しているのだと思った。

すいかのおじちゃんは、私のどうしようもない恐怖をきれいに拭ってくれた。ありがとう。


そして残されてこれからも生きていく私たちは、亡くなった人の言葉をもう聞けないまま、遺したものでその人の意志を感じようと試みる。所有していたものとか、残した文章とか、写真とか。それらで想像力を働かせて、残された者は自分の都合のいいようにその人のことを想って一喜一憂する。

私もこの文章は、その一喜一憂にすぎないかもしれない。だけどそうやって人々は、悲しみを少しずつ少しずつ癒して生きてきたんだろう。正しいのか間違ってるのかわからないけども。

正しいのか間違ってるのかわからないことは、世の中たくさんある。




ずっとずっとやる気が起きなかったしやる機会もなかったギターを、遂に触る日がきてしまった。こんな形で。弾いてもらい語りから弾き語りに移行する日はまだまだずっと先だしそんなつもりもないけど、いつかおじちゃんの残したセットリストにある曲を弾けるようになれたらいいなと思って、今日も時間を見つけてギターを弾く。

おじちゃんの年齢になってもできないかもしれないけど、いつかおじちゃんが奏でた音を私も鳴らせたらいいなと思う。


2週間以上経った今でも、いちご餅は捨てられないから、おじちゃんはときどき食べにきてほしい。そんでついでにギター教えてくれ。

それからジャズの話をしよう。ハワイアンの話は途中で飽きちゃうかもだけど。




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最後まで読んでくれてありがとうございました。

このnoteをきっかけでいただいたと思われるサポートは、家にあるすいかのおじちゃんのギターのメンテナンス費用に充てたいと思います。なんかこの記事では、お金儲けしてるみたいになっちゃうの嫌だからさ。

サポートしていただけると一人の部屋で声出して喜びます。主に音楽活動費として使います。もしかしたらカツカツだったら生活に使うかもですが頑張ります。