No.952 私の心の在り様が外界にもたらす影響は計り知れない…
やっと3月がやって来た。
これまでの私は少しの冬眠生活を送っていた。
8月生まれの私にとって冬という季節はなかなか手強い相手である。
3月になった途端、匂いが違う。
木々の匂いや日差しの匂い、雰囲気の匂いや空気の匂い、街並みの匂いやそこを歩く人々の匂い、全ての匂いが春色をしているように映る。
この匂いは嗅覚における匂いだけではない。
私の肌を通して感じる匂いであり、身体全体で感じている匂いである。
屋外にいるととても心地良く、身体全体から力が抜けていく、そんな雰囲気が私を包んでくれる。
呼吸は鼻から入り、肺を大きく膨らませる。
それに伴って私の肩甲骨あたり全体が大きく上下するのがわかる。
いつもはうるさく聞こえる市電の音が何故か心地良く私の鼓動のリズムとシンクロしているのがわかる。
何か市電が走りながら曲を奏でている、そんな感じだ。
心の在り様というのは本当に不思議なものである。
私の身体がとても心地良く、気持ちが穏やかであるならば、普段はうるさく感じる音たちがとても心地良い友達の様に思えるのだから…
私の心の在り様が私の外界への反応を決めている。
外界は私を苦しめよう、いじめてやろう、などとはこれっぽっちも思っていない。
ただ、私が勝手に外界が私を苦しめている、外界にいじめられている、と思っているだけである。
そして、私が勝手に、私がイライラしてるのは外界が悪いからだと外界のせいにする。
まぁ、ゲシュタルト療法的に言えば外界へと私の在り様を投影しているわけだ。
私が苦しいのは私のせいではない、外界が私を苦しめているから、私は苦しいのだと言う。
これはこれで逃避策としてはとても良い防衛手段である。
しかしだ、この防衛手段は長続きしない。
この防衛手段を取り続けることによって、私は外界に囚われることとなる。
それは外界を気にしながら生きていかねばならないこととなる。
外界とは私以外の全てのものを言う。
それは人であったり、ものであったり、自然であったりする。
他者が私をどのように見ているのかがとても気になる。
あの人は私を嫌っている、あの人は私をどう思っているのだろうか、私自身には全く目が向かず、他者の言動を気にしながら生きていく。
物へも八つ当たりすることになる。
この段ボールがこんなとこにあるから私は転んでしまったじゃないか、こんなところに木があるからぶつかったじゃないか…
今なお世界を揺るがしている出来事も心の在り様を映し出しているように思う。
そこにあるのは外界に対する恐れであるかもしれない。
そして、相手が私を苦しめているから、私は苦しいのだ、だから、その苦しみを取り去るために私は侵攻するのだという防衛手段であるように思う。
心の在り様が日常の些細なことから、世界を揺るがす大きな出来事にまで影響してしまう。
私たちゲシュタルト療法家を始めとする心理療法家に求められる課題はとてつもなく大きいのかもしれない。
人道的、社会的な出来事が今まで以上にこれから大きくクローズアップされてくるであろう。
そんな出来事に対し、私たちはどのような行動が求められるのか、考える必要がある…
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