No.965 フェルトセンスと情動についてもう少し理解を深めてみる…
私は2週間前に鹿児島で池見陽氏のフォーカシングワークショップを5年ぶりに開催し、私自身も参加した。
何か、新型コロナ感染症で身動きできなかった4年間を含め、このワークショップは私のカラダにスペースや子供の自由さや安寧の時をもたらしてくれた。
そして、矛盾する世間や組織に対するやるせなさや怒り、虚しさを感じていた私に、また新しい息吹を吹き込んでくれたような気がしている。
それは2週間経った今もとても穏やかな感覚を感じているからだ。
「矛盾する世間や組織についての感覚」を感じてみる時、今はやるせなさや怒りや虚しさと言うものは微塵もないのだ。
今、私の中には、胸の辺りに平穏で穏やかな感じがあり、背中の肩甲骨の辺りから少しのワクワク感ややりたい思いみたいな感覚が広がっていくのがわかる。
穏やかさを持っている私とワクワクを感じている私が両立しながら、そこに存在している。
“この穏やかさやワクワク感は何についてのそれなんだろう”と聴いてみる。
私は少しカラダ全体を静かな場所へと誘いながら、カラダ全体に注意を向ける。
それは、これからの私が生きていく人生についての穏やかさやワクワク感である。
“どんなこれからの私の人生が穏やかでワクワクなんだろう”
また、私は静けさの中に居ながら、そのカラダ全体へと注意を向けてみる。
すると、何故なのか、子供たちと戯れながら、楽しそうに笑っている私のイメージが浮かんでくる。
子供たちは2,3歳から7,8歳だろうか。
7,8人の子供たちと私は戯れている。子供たちはとても無邪気であり、私を1人の友達として遊んでくれているみたいだ。
このイメージの中に浸ってみる。
そう、私の中の無邪気さが穏やかさとワクワク感を繋いでいる。
さっきまでは両立して存在していた私の感覚は、無邪気さという感覚や言葉で繋がっている。
穏やかな無邪気さ、穏やかなワクワク感。
“穏やかな無邪気さや穏やかなワクワク感は私にとってどんなものなんだろう”と聴いてみる。
私に子供の頃の冒険心を思い起こしてくれる。
そう、あの頃はしがらみもなく、何も考えず、ただ、私のカラダがやりたいことをやっていたなぁということに気づいた。
一途な私
そんな言葉が浮かんでくる。一途な私、この言葉がしっくりする。
生きることについての一途な私。今を精一杯カラダ全体を使って生きている私。
少し、涙が溢れてくる。
そう、今を精一杯、カラダ全体で、今を精一杯生きたい。
それは、赤ん坊が必死になって寝返りを打つような、必死になって泣き叫ぶような、今を生きようとしているような、そんな感じだ。
今を精一杯必死に生きる、かっこ悪くても何でもいいから、精一杯必死に生きる。
今、私のカラダ全体が一つに繋がり、統合されている、そんな感覚を味わっている。
実は、このセルフフォーカシングは昨日、会社での仕事中に15分位だっただろうか、やってみたものだ。
とても穏やかで統合された私を感じることができた。
そして何より、私は穏やかに、心の底から社員の皆んなと接することが可能となった。
これからは、この私のセルフフォーカシングの実践も含めて、著書「フォーカシング」第3章のフェルトセンスへの理解をもう少し深めてみたい。
フェルトセンスとは、まだ何かははっきりとわからないが、カラダに感じられる漠とした、微かな意味を持った感覚である。
それは、私たちがカラダへと注意を向けることができるなら、感じることのできる、誰もが生まれながらに持っている感覚だ。
しかし、それは情動とは違い、まだ、概念化した言葉では現すことが難しい。
情動とは、怒りや悲しみと言った、既に私たちが単一的な言葉として表現できる、私たちの表層部分にあるものだが、フェルトセンスとは、言葉として表現するには、適当な言葉がすぐには浮かばないような複雑で微細な私たちの深層部分にある感覚である。
私のセルフフォーカシングでの最初のフェルトセンスは、胸の辺りの平穏で穏やかな感じと、背中の肩甲骨辺りにある、少しのワクワク感ややりたい思いみたいな感覚だ。
そして、このフェルトセンスと共にいることで、このフェルトセンスは2,3歳から7,8歳位の子供たちと戯れながら、楽しそうに笑っているイメージへと変化した。
そして、私の中の無邪気さが穏やかさとワクワク感を繋いでいる感覚へと変化する。
それと共に、さっきまで両立して存在していた私の感覚は、無邪気さという感覚や言葉で繋がりながら、穏やかな無邪気さ、穏やかなワクワク感を感じている。
この時点で、私のフェルトセンスは既に2回もシフトしている。
そして、私に子供の頃の冒険心を思い起こしてくれる。それは、“一途な私”というダイレクトリファレンスな言葉を紡ぎ出す。
そして、わからないけれど、涙がこぼれ落ちる。
その涙の意味を理解することに意味はない。
ただ、涙が流れていることに気づく、これがとても重要だ。
そして、最後に、”カラダ全体が一つに繋がり、統合されている”というフェルセンスを感じた。
フェルトセンスは、私たちに次に何をすれば良いのか、何が訪れるのかを暗示してくれる、カラダからのサインである。
しかし、私たち人間は進化したが故に、そんな感覚を忘れてしまった。感覚よりも思考優先の社会の中で私たちは生きている。
しかし、本来の人間という生き物は他の生き物と変わらない感覚を持っているものだ。
その感覚を蘇らせてくれるのがフォーカシングという心理療法なのだと感じている。
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