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凡庸”映画”雑記「インサイド・ヘッド2」

インサイド・ヘッド2を観る。

思春期を迎える少女の日常の物語。大きな事件が起こるわけでなく、思春期の、危うい変化で生まれる、人との関係性にひたすら苦悶する様子が、赤裸々に語られる。

頭の中(心の中?)に、巣食うさまざまな感情が、一人の生き方に右往左往し、何とか、世界に寄り添わせようとする。今まさに取り囲もうとしている社会に、正しく、心地よく着地させようと悪戦苦闘する。

新たに生まれる、さまざまな感情が、実に巧妙で絶妙。これらに意味を持たせた物語の作りが、よくよく練られていて感心する。

増えたことで、いっそうに複雑になっているのに、わかりやすく簡単にまとめられ、シナリオの頭の良さを感じる。賢い人の話は、わかりやすく面白いと言われるが、そのものだった。脚本を学ぶ人には、良い教材になるはず。

吹き替え版を見た。と言うかそれしか上映していなかった。違和感はないだろうかと、気になっていたが、俳優の声の演技は、全く違和感が無く、集中して観ることが出来た。

アニメ映画は、どうしてか専門の声優を使わず、主演級には、テレビでよく見かける俳優や、アイドルを使う事が多い。上手ければ何ら問題はないし、声優至上主義でもないが、目も当てられないほど棒読みで、違和感しかない時がある。この辺は何とかして欲しいものだ。と、某有名男優が主演した大河アニメを思い出す。

ただ、さすがディズニー、毎回感心する。全く違和感が無く、物語の登場人物に合わせ見事な演技を聞かせてくる。じっくりと時間をかけて、丹念に演技を付けているのだろう。

観ながら、ふと、日本アニメの影響を受けているのだろうか?と感じた。

スッキリ、ハッキリが信条のディズニーアニメなのに、もちろん明るく、深刻でなく、最後は良かったと終わるのだけど、全体的に何となく、ウェットなのだ。

御涙頂戴ではない、さぁ泣いて!と、下手な演出をしていない。そんなことは真逆のアッサリ感がある。全体的に感じる、言わずとも伝わるだろう、そうだろうと言う、引いた湿り気が、阿吽の呼吸の日本青春アニメを感じさせる。

最後、きっと胸の空くようなはっきりとした、人生大逆転が見られるだろうと、待ち構えていたら、すっかりと、はぶかれ想像で補うことになる。強いて言えば、淡く希望へと変化する少女の表情。それが、危惧した思春期の危機を脱したことを示している。野暮なことは言うまい、

推して知るべし。そんな演出をアメリカのディズニーが行っているのだから、驚いた。世界中で一定の理解と感情の結果を引き出さないといけないのに、良く、これが通ったもんだ。

何度か反芻しながら、中身を噛み締めて吟味する誠実な映画なのかもしれない。

でも、頭が良くて、何かにつけて白黒付けないと気に入らない我が妻君は、案の定、ようわからんとぼやいていた。情感というか、間というか、なんか、侘び寂びみたいなものが、必要になって来るのだ、良くも悪くも。(でも、僕がそんな美的情感を持っているわけではないのは周知の事実)

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