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自分の中の不寛容さと向き合う(24/1/22:この国の不寛容の果てに)

人に言うのも恥ずかしいことですが、日々小さなことでイライラしてしまうことがあります。

例えば、昨日自転車に乗っていると、自転車道に自動車が停車していました。
それだけでイライラして、その停車している自動車に怒りを向けてしまいます。(もちろん、直接文句を言ったりはしませんが)
どうして自分は、こんなにも寛容でなくなってしまったのでしょうか。たかが、停車している自動車など避けて走ればいいだけなのに。
そんな自分の不寛容さを改善したいと、今年の目標に「相手の考え・意見を寛容に受け入れる」という内容を立てました。しかし、残念ながら現時点では、あまり達成できているようには思えません。

そこで、今日は「この国の不寛容の果てに」という、相模原障害者施設殺傷事件を元に考える本を取り上げたいと思います。

この本では、「この国に溢れる不寛容な言葉」として、相模原障害者施設殺傷事件の犯人である植松死刑囚と、同様の「本音」を我々多くの人々が持っているとして「内なる植松」と表現しています。

著者は、そのような不寛容さの要因の1つとして「持つ者と持たざる者の格差・対立」を挙げています。

しかし、実際にはそれだけにとどまらず、「持たざる者」同士の対立があります。
その端的なものが自己責任論です。「派遣として働いているのは、その人が選んだ選択肢だから」、派遣社員は正社員と同じだけ働いていても給料が少ないのは問題ないという発想や、一部の障害者が働いしている中で、別の働いていない障害者に「努力が不足している」と言ってしまうようなことですね。

他にも、人間らしく働くことができる条件が揃っているのに、「働いている自分よりも、生活保護を受けている彼らの方がいい生活をしている」と思ってしまうことも、「持たざる者」同士の対立がではないでしょうか。

さらに、植松死刑囚のもつ危険な思想として、「内なる優生思想」を挙げています。

優生思想というと、ナチスドイツが思い浮かびますが、まさにそこで行われた生命の優劣をつけることです。
「障害者は(生産性がないから)、生きる価値がない」と勝手に判断し、それを殺してしまうということは、ヒットラーがユダヤ人に行ったことと同じで、絶対に許してはいけない思想です。

しかし、これら思想を我々は完全に否定できるでしょうか。少なくとも、いまの私にはできませんでした。

この本で最終的に思ったことは、筆者たちは植松死刑囚のような「不寛容な人」に対して、不寛容であるのではないかということです。もちろん、殺人事件を許すわけにはいきませんし、法治国家として適切な罰が必要になります。

しかし、私自身が少なからず「不寛容」と自覚している中で、そう思っていても何とか理性を持って、悪い行動を取らないようにしている。そういう人々が多数いるのであれば、まずはお互いにそれを認めあった上で、自分にできることから進めていくことが重要ではないでしょうか。

こういうときに思い出すのは、サンフランシスコ講和会議でセイロン代表の蔵相として演説を行った、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏の言葉です

「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love.)」という法句経の一節を引用して、日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説を行った

「あなたは不寛容だから駄目だ。今すぐ直しなさい。性別、年齢、人種、障害の有無、すべての事柄に対して差別の意識を持たずに、これから生きていきなさい」
これでは、どうやっても上手くいかないでしょう。

「不寛容である自分を自覚する。それによって、どのような言動をしているのかを思い出してみる。そして、次に同じような場面に合ったときに、少しでもそこに慈悲を意識してみる」
ジャヤワルダナ氏や、セイロン(スリランカ)の人々のような慈悲の心とまではいかなくとも、相手にもなにかの事情があるんだということを考えていきたいです。



寛容のテーマに1文追記したいと思います。「怒りが出たときは、相手の事情を想像する」

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