見出し画像

小説「レッド・アイズ〜色彩師の憂鬱〜」(その1/無料)

ポーポーは小説もいくつか書いていますが、今まで公開したことがありませんでした。期間限定でだいぶ前に書いた長編作品を公開してみようと思います。途中まで無料で読めます。鮮やかな色彩の世界を小説で表現しようと思った作品です。「色彩プロファイリング」を得意とする「色彩師」の物語。ミステリータッチで話が進みます。様々な伏線を張り巡らしています。

あらすじ/命がいくばくもない妻のため、家出した娘を探す男性。会社から無理難題を突きつけられ自殺をしようとしている男。初めてのデートを成功したいと考える女子高生。色彩師の彩木は、色彩を使ってその難題を解決していく。ところが、一見バラバラだと思えた問題は奇妙なつながりを見せて彩木の前に再び姿を現すのだった…

1

「ねぇ」
 誰かの声が響く。
 闇の中で誰かの声がする。
「聞いているの?」
 女性の声だ。
 女性の声が部屋の中に響いている。
 そうか、思い出した。うっかり眠ってしまったようだ。
「あぁ」
 私は声をなんとか絞り出し、ソファーからゆっくりと起き上がった。首を左右に振ると骨が鳴る音がした。ずっと同じ姿勢でいたためだ。腕も痛い。体の下にあったのだろう。時計を見ると二時半だった。たぶん、二、三十分も寝てしまったかもしれない。
「で、何の話だっけ」と私は言った。
「ほら、聞いていないじゃない」
 事務所の中央で星崎文花は椅子に座り、自分の爪を触りながら、不機嫌そうな声を上げていた。文花は大人の色気を漂わせながら、少女のような可憐な表情をする女性だった。
 いつものようにふらりと文花はやってきて、いつものようにここで時間を潰し、いつものように機嫌が悪かった。そして、この事務所にはいつものように仕事がなく、いつものように暇な時間が流れていた。
 いつもと変わらない日々の光景だった。
 私は背伸びをしながら窓の外を見た。ライトグレーの壁が目に飛び込んでくる。事務所が薄暗いのは周りをビルで囲まれているせいだ。しかたがない。それでこの事務所は安く借りられる。
 窓の外には、ビルの輪郭に切り取られて少しだけ空が見える。
 空が高い。晩秋の空だった。
「なんで、運命の赤い糸は、赤い色をしているかっていう話」
 文花は自分の爪を見たままそう言った。
 そうか、文花はまた難解な質問をしていたようだ。私が色に詳しいからと思って、彼女はいつも子供のような質問を私に投げかける。この質問に明確に答えないと彼女の機嫌がさらに悪くなる。
 先日、パトカーはどうして白と黒いデザインだと聞かれたので、善悪を「白黒つけるため」と冗談で言った。すると、文花は無言で怒り、しばらく口を聞いてくれなくなった。
 冗談を言って、文花の機嫌を曲げるのは得策ではない。
「そうだった」と私は話を聞いていたふりをした。
 文花は冷たい視線を一瞬こちらに見せたが、再び自分の爪に目を戻した。文花が手を動かすたびに長袖の赤いシャツが動く。文花は赤いシャツを着ていた。今日も彼女は赤いものを身につけていた。赤は彼女のテーマカラーだ。赤いシャツ、赤いコート、赤いバック、赤い靴、彼女はいつもどこかに赤い色を身につけていた。彼女の長い黒髪が赤い色をより際立たせる。黒は赤を引き立て、強調する色彩である。

 赤い色を好む人は、活動的で行動力があり、情熱的で意志の強い人だ。また、そうなりたいと思うときにも人は赤い色を求める。自分の心のどこかに「何かをしたい」という気持ちが眠っているとき、行動促進効果のある赤を求めるたくなる。ふっと赤い服に手が伸び、赤い車に乗りたくなるのはそんな心理があるからだ。そして、赤が好きな人は、いつでも刺激的で幸福な生活を求めている。正義感が強く、真面目な人が多いが、ちょっと無作法で、態度が悪い人もいる。
 文花は典型的な赤が好きなタイプの女性だ。何かをしたいというオーラを纏っている。しかし、残念ながらこの事務所にいては何もおもしろいことはない。それなのに文花がどうしていつもここにくるのか、私にはまったくわからなかった。
「運命の赤い糸の話は、中国の奇談に由来しているみたいだな」
 私は姿勢を正して話を続けた。
「唐の時代、幼い頃に両親を亡くしたある青年は、早く結婚したいと思って、いくつも縁談を進めていたがどれもうまくいかなかった。あるとき、青年は旅の途中で宿場町に滞在した。そこで、青年は婚姻を管理しているという不思議な老人に出会ったそうだ。そして、将来結ばれるべき相手は、赤い縄で足と足が結ばれていると言って、青年が今進めている縁談はうまくいかないと告げられた」
「ふーん」
 文花は自分で質問しておいて、あまり興味がないような態度をとる。まぁ、文花の反応はいつもこんなものだ。色々なことを聞くくせに、たいして興味を持たない。たちが悪い。
「そこで、青年が自分の赤い縄はどこにつながっているか聞くと、老人はこの宿場町の市場にいる幼く醜い幼女だと言った。怒った青年は召使いに幼女を殺すように指示をしたが、幼女の眉間に傷をつけて殺害は失敗する」
「ひどい話ね。そんなことで逆上するなんて」文花は言った。
「ああ、たしかにひどい。相手は幼女だからな」私はできるだけ文花に共感する反応を心がけていた。
「そして、青年は縁談に向かったそうだが、老人の言う通り失敗してしまったそうだ」
「ま、当然よね」
「そして、それから十数年後、青年は上司から美しい娘を紹介されて結婚することになった」
「へぇ〜」
「ところが、その娘には眉間に傷があって、どうしたかと聞くと、子供の頃に宿場町で暴漢に襲われて傷つけられたという話をした。青年は驚いて、事実を告げ心から詫びた。そして、お互いを敬い愛するようになり、青年は娘と結ばれたという話だ」
「おもしろいわね、その話」
 文花は手を止めて顔を上げた。子供のような目を見せて微笑んでいた。めずらしく彼女の興味を誘ったらしい。
「その話が日本に伝わって、赤い縄から赤い糸へと変わったんだろう。小指と小指を結んでいるという話は、約束を大事にする日本人らしい話だとは思わないかい?」
「そうね。それはわかる気がするわ」
 よかった納得してくれたようだ。
「でも…… なんで赤い糸なのかしら? だって見えないんでしょその糸。見えないのになんで赤い色をしているのかしら?」
 文花はまた厄介な質問を投げかけてきた。しかし、文花の疑問は正しい。
「中国ではめでたいものは全て赤で表現される。赤は幸せを運ぶ尊いものという考えがあるから、運命を司る糸は、赤い色をしているということだろう。中国だけじゃなく、赤い糸に力があるという話は世界中にある。赤い色には不思議な力があると信じられている」
 私はわざと文花のシャツを見ながらそう言ったが、文花は眉間にしわを寄せて、納得していない顔を見せていた。どうやら私の言わんとすることが伝わっていない。確かに文花は『私も赤い服を着ているから、幸せを運ぶ存在なのかしら』などと言うタイプではないことはよくわかっていた。
「ふーん」
 文花は少し怒ったような言い方をした。
 微笑んだり、怒ったり、感情の起伏が激しいのも赤い色が好きな人の特徴だ。こんなときは下手に関わらないほうがいい。私はいつも文花に振り回される。
 私は立ち上がり、窓のところまでいくと、窓を開けて顔を出した。
 風はなかった。ビルの間を縫って、やわらかい日差しが降り注いでいた。これから本格的に寒くなるというのに、今日はおだやかであたたかい日だった。
 窓の下では自転車が走っているのが見えた。商店街から帰って来たのか、前のカゴに野菜が積んである。その横には渋い顔をしたサラリーマンもいた。これから営業にでもいくのか、いや、あの顔からしてクレーム処理かもしれなかった。二階からでも眉間にシワが寄っているのが見える。そして、遠くで犬の鳴き声と子供の声が聞こえる。平凡な平日の午後だった。
 それにしても、今日もまた退屈な一日だ。そう思いながら私は背伸びをした。
「ねぇ」
 文花は爪を見ながらまた私に声をかけた。
「ん?」
「その赤い糸の話、信じる?」
 私は考えた。赤い糸の話は夢があると思った。実際に本当にそうだったら、私の指にある糸はどこに向かって伸びているのだろうか? 柄にもなく、そんなことを考えて私は思わず微笑んだ。これから出会う相手かもしれないし、意外と近くにいるのかもしれない。糸の先を見たい気もするし、見ない方がよい気もする。
 そう思いながら、私はひとりの女性のことを思い出していた。遥か昔の記憶をたぐり、青い服が似合ったひとりの女性の顔を思い出していた。
「そうだな。本当にあるかどうかわからないが、あると信じたいな」と私は言った。
「ふ〜ん」
 どうやらまたいい答えではなかったらしい。
 私はやれやれと思っていた。
 コンコン。
 突然、私に耳慣れない音が聞こえてきた。何の音だか理解するのにしばらく時間がかかった。そうだドアを叩く音だ。うちの事務所に来る人間は、ドアをノックしたりしない。誰もがいきなり入ってくる。ドアを叩くような人間を私は知らなかった。
「はい」と私は声をかけ、入口までゆっくりと歩いていった。どうせ、何かの勧誘か営業かと思っていた。
 私がドアを開けるとそこにはひとりの男が立っていた。三十代後半か、いや四十代かもしれない。私に近い年齢だろう。白いシャツに紺のジャケットを着ている。姿勢はあまりよくないが、身なりからは真面目でしっかりとしているようにも見えた。どうやら勧誘ではないようだ。
「はい」と私は男にかけた。
「あのう。ここは彩木色彩研究所でしょうか?」男ははっきりとした声で、ゆっくりとした声だった。
「はい。そうですが」私もゆっくりと答えた。
「あのう。ここで人を捜してくれると聞いたのですが……」
 やれやれ、またそういう依頼かと思った。確かに「色彩研究所」とは名ばかりで、色彩の研究どころか、たいくつな時間の過ごし方を探しているといったほうがいい。確かにここにくる仕事は、色の相談よりもはるかに浮気調査、人捜しなど探偵事務所のような依頼ばかりだ。確かに色彩は浮気調査、人捜しにも色彩の知識は応用できるが、それは私にとって不本意なのだ。どうせ、近所の誰かにあそこに行けばやってくれるだろうと吹き込まれたに違いない。私はそんな仕事に飽き飽きしていた。
「すいません。ここは色彩の調査や研究をしているところです。申し訳ありませんが、人を捜す仕事はしていません」
 そう言いながら、ちょっと冷たい言い方をしたと思っていた。少し感情的になったかもしれない。別にこの男が悪いわけではない。
「そうですか……」
 男は少しためらうような仕草を見せて、「すいませんでした」と頭を下げて振り返って歩き出した。がっくりと肩が落ちていた。
 私は何かすごく悪いことをした気になった。
「ちょっと、話だけでも聞いてあげたら」
 私の背中から文花がそう声をかけた。
 男の足がゆっくりと止まった。
「そうですね。話だけでも……」私は思わず男の背中に声をかけた。
 私が男に声をかけたのは、なにも文花に言われたからだけではない。ましてや罪悪感からでもない。男が一瞬見せた寂しげな目がとても気になったからだった。困っている初対面の人間を救ってあげたいと思えるほど、私は人間ができているわけではない。ただ、一瞬、彼の輝きのない目が気になった。そして、男をここまで追いつめたものが何か、それを知りたかったのかもしれない。
「こちらへ、どうぞ」
 男を事務所内に導き、ソファーに座るように進めた。男は肩を落としながらゆっくりとソファーに座った。
「私はここの所長をしています。彩木優一といいます」
 私は自分の名前を言った。事務所の名刺などもう半年以上誰にも渡したことはない。
「所長ねぇ」 
 文花は私をからかうように、ぼそっとつぶやいた。
 確かに所長も従業員もお手伝いさんも含めて、ここには私しかいない。
 二、三分ぐらいの間、ただ沈黙が続いた。男は下を向いて何かを考えているようだった。私は男が何かを言うまで待っていた。
「家出した娘を捜してほしいのです」
 男はゆっくりと話しだし、手帳から一枚の写真を差し出した。そこには笑顔の女性が写っていた。二十代、いや十代後半かもしれない。うっすらと茶色いストレートの髪の毛、そして大きくて愛らしい目が印象的だった。そういえば、男も大きな目をしていた。写真の女性は色白で日本人ではないような顔立ちをしている。少しだけフランス人の血が入っているような、人形のようなかわいらしさもあった。かなりの美人である。
 男が差し出した写真は誰かと二人で写っているものを半分に切ったようであった。女性の右側に誰かの腕と服の一部が少し写り込んでいる。なぜ写真を切ったのか? きっと切る理由があったのだろう。もしかしたら、この写り込んでいる腕はこの女性の彼のもので、家出にはその男が関係しているのかもしれない。そんなことを直感的に思っていた。彼の顔など見たくはないはずだ。いや、父親の手に渡っている段階で、すでに切られていたのかもしれない。
「半年ぐらい前だと思います。突然、娘は手紙一枚だけ残して家を出て行きました。手紙には自分でやりたいことがあるといったような内容が書かれていました。自分で決めたのだから、捜すことはやめようと思っていました。ところが、状況が変わりました」
 男の表情が次第に険しくなった。
「先月、妻が癌であることがわかりました。末期の癌でした。あまり時間がないため、どうしても妻と娘を会わせたいと思いまして、こうして娘を捜すことにしました。娘は電話を変えてしまい、連絡が取れません。住んでいるところもわかりません。手がかりがほとんどなく、どうしていいかわからないところ、ここの事務所なら捜してくれるかもしれないという噂を聞きつけまして、いてもたってもいられなく、お願いにあがったのです」
 最初のゆっくりとした口調とは対照的に、男は少し早口になっていた。そうとう娘と妻に対して思いがあるのかもしれない。
「そうですか」
 私は他にかける言葉が見つからなかった。
「私は上月雄次と申します。埼玉県にある普通の企業でサラリーマンをしています。娘の名前は友梨奈と言います。カメラが好きで、たぶん、今もどこかの出版社と契約し、フリーのカメラマンとして仕事をしていると思います。学生時代からカメラマンのアルバイトをずっとしていました」
「どこの出版社で仕事をしているか、もしくはしていたか心当たりはありますか?」
「いえ、わかりません。娘はあまり私に仕事のことを話してくれませんでした。正直、今はカメラの仕事をしていないかもしれません」
 男は顔を軽く左右に降った。
「手紙に書かれていたという『自分でやりたいこと』というのは、カメラのことですか?」
 男は少し考えている様子だった。
「わかりません。何かほかにやりたいことがあるのかもしれません」
 私は少し不自然だと感じた。やりたいことは実家からだし、できないものなのか? 家族と一緒にだとできない理由があるのか、それとも別の理由があるのかもしれない。
「他に理由は考えられますか? たとえば、男性問題とか……」
 私は上月の反応を見るためにわざとそういう言い方をした。上月の顔が一瞬、こわばった気がした。
「いえ、それはないと思います」
 彼は即座に否定した。まぁ、仮にそうだとしても認めたくないか、これだけかわいい娘だ。年頃になった段階で常に心配の種になっていただろう。
「この写真、半分に切られているようですが、横に写っていたのは誰ですか?」
 私は念のため聞いてみた。
「いや、誰だかわかりません。私はこの写真を妻からもらいましたので」
 そういうことか。
「そうですか。他に何か手がかりはありますか?」
 男は少し考えて「いえ、ありません」と答えていた。
「住んでいそうなエリアとか、親しい友人の存在とかは?」
「すいません、わかりません」
 確かに手がかりが乏しい。この情報から探すのは難解に思えた。
「実名で登録しているフリーカメラマンの仕事募集サイトを検索してみたけど、該当者はいないわ。名前を隠してプロフィールのみの公開者も捜してみたけど、それらしい人はいないわね。女性の登録者は少ないみたいだし」
 文花はすぐに自分のノートパソコンを使って検索をかけていた。見た目からは想像がつかないが、文花のパソコンを使った検索能力は極めて高かった。その速さと正確さにはいつも驚かされる。彼女は今までどんな仕事をしてきたのか本当に不思議に思う。
「都内でカメラの仕事場なんて、どこにでもあるわ。出版社だけでなく、スタジオ、結婚式場もあるわよ。都内には結婚式場、披露宴施設だけで約百カ所、出版社は三千社もあるのよ。それをひとつひとつ当たるのは、ちょっと難しいわね」
 確かに文花の言う通りだった。そして、彼女がカメラの仕事を続けている保証はない。
 男の表情が曇った。彼も最初から難しいことはわかっていたのだろう。本当に寂しくて悲しい目をする男だった。男の感情は悲しみで溢れていた。突然、妻が癌という告知をされたことで、その事実をまだ受け入れられないのかもしれない。長年、連れ添った妻の突然の病気。どんな気持ちなのか、私にはまったく想像もできなかった。
 しかし、この情報量なら、うちの事務所に着たのは正解かもしれない。いや、すでに探偵事務所を何カ所か周り、苦し紛れにたどり着いた可能性もある。なぜ正解かといえば、私には色を操る『色彩師』としてひとつの特技があったからだ。
「娘さんの好きな色は何色ですか」
「確か… 淡いピンクに白でしょうか。それから、着ている服はベージュとか、モスグリーンとか、花柄の服も好んでよく着ていました」
 なるほど、ピンクを好む女性は一般的だ。若い成人女性がもっとも好む色といってもいい。ただ、ピンクを好む人には、優しく穏やかな性格の人が多い。文花とは対照的な人たちだ。そして知的教養度が高く、裕福で安定した家庭環境に育っている人にも好まれる。また、白が好きな人にはいくつかのパターンがあるが、芸術的な仕事をしている人で白好きな人は、完璧主義者で努力家の傾向がある。
 人の性格と色の好みには大きな関係がある。色の好みを探ればその人の基本的な性格傾向が見えてくる。色の好みからその人の性格を知り、行動パターンを推測する「色彩プロファイリング」は、私の得意とするもののひとつである。また、好む洋服の色からも特徴的な性格傾向が見えてくる。ベージュとかモスグリーンといった服を好んで着るところから調和型の人間だと推測される。
 洋服の好みという、上月はこちらの聞きたいことを先に口にした。空気が読めるのか? それとも偶然か? よほど娘を捜し出したい気持ちが募っているのだろう。持っている情報は全部だそうとしているようにも思えた。
「どんな種類の服が多かったですか?」
「ワンピースが多かったでしょうか? ロングのスカートが中心でしたが、仕事に行くときは、ラフな感じでジーパンのときもあります。全体的に地味なほうだったと思います」
 なるほど、カメラマンという仕事をしているが、積極的に行動力のある人ではなさそうだ。白を好む性格を別の視点から見れば、モデルのような仕事にも興味を持っているかもしれない。白が好きな人には、自分の容姿に憧れを持ってほしいという願望を持つ人もいる。積極的に活動はしていないが、モデルとして頼まれたら断れないもかもしれない。これだけの容姿だ。可能性はある。本来の性格は真面目で控えめ、そして優しい女性か。そして、ピンクと白が好きということから、恥ずかしがり屋な一面も垣間見られる。積極的に動くタイプではないだろうから、新しい仕事場を点々としているというより、ずっと同じ出版社で仕事をしている可能性が高い。頼まれたら断れない性格だろう。すると……
「文花、都内にファッション系を扱う出版社は何社ある? カメラマンが多く出入りしているところ、そうか、学生の頃からその仕事をしているのなら、雑誌の可能性が高い」
 文花はすぐにキーボードを叩き始めた。長い爪をしながら文花は器用に指を使っていた。
「そうね、主要な出版社は二十数社といったところかしら。学生のカメラマンを使っている出版社なら、もう少し絞れるかもしれないわね」
「娘さんは、この中の出版社と仕事をしている可能性がありますね」
「それだけで、そんなことがわかるのですか?」
 男の顔がほんの少しだけ明るくなった。
 学生カメラマンを使っている雑誌といえばフッション系の雑誌の可能性が高い。それでも洋服、ヘアー、メイクなどの雑誌は数多く出ている。まだまだ骨が折れる作業が残っている。
「もちろん、可能性があるという話です。やみくもに当たるよりは、可能性が高いでしょう。もし、見つからなかった場合は、結婚式場やスタジオなどのラインからも探してみましょう」
 男は感心するような顔をした。
 色彩プロファイルで絞り込めるものは、こうした大きなところまでだ。ここからは、地道な調査が必要となる。
「早速、私たちはこの出版社を当たってみます」
「ありがとうございます」男はとても丁寧に頭を下げていた。
「『私たち』って誰?」
 文香は不機嫌な声を上げた。
 そしてまた話を聞くだけのつもりが、いつの間にか仕事を受けていることに気がついた。またいつもの悪いクセが出た。
 やれやれと思いながら、窓の外を眺めた。
 空からあたたかい日差しがゆらゆらと降り注いでいるようだった。

2

「彩木さん、頼まれた雑誌を買ってきました」
 そう言って工藤瞬治は書店の紙袋をふたつテーブルに置いた。どちらも雑誌が詰まっていた。
「重かったですよ。バックナンバーなんてとても買って来られないスよ」
 工藤はひどい顔を見せた。
「あぁ、いいよ。ありがとう。これで充分だ」
 工藤は事務所の椅子にどっかりと腰をかけた。安い事務椅子なので、奇妙な音がした。新しいものをそろえたいが、うちにはそんな余裕はない。今月も赤字だろう。
 この事務所には文花以外に、もうひとりよく出入りする暇な人間がいた。それがこの工藤という男だ。大学卒業後、就職試験に失敗し、今では暇なフリーターになっている。この事務所に出入りして、たまに私の仕事を手伝ってくれる。特に色彩の知識や感覚があるわけではない。どちらかというと共に人並み以下である。ところが、工藤も文花と同じようにいくつかの奇妙な特技を持っていた。なにしろ、この事務所には奇妙な人間が集まってくる。私にはその理由がよくわからなかった。
 工藤は苦しそうに息を切らしていた。いつものように黒いジャケットに黒いズボン、黒い帽子をかぶっている。そして深紅のシャツに白いネクタイという極めてあやしいスタイルをしていた。なんでも七十年代後半のテレビドラマ『探偵物語』の主人公に憧れ、同じ姓ということもあり、主人公と同じ衣装を着ているのだという。同じ衣装を着ても探偵物語の工藤と目の前にいる工藤は、行動パターンがまったく違っていた。探偵物語の工藤俊作は口数が多くて、コミカルでスタイリッシュだが、この工藤瞬治は口数が多いただのドジである。それにコーヒーはブラックでしか飲まない工藤俊作と違い、瞬治は砂糖とミルクをたっぷりといれる。コンセプトが破綻していた。そして彼は大きな勘違いをしている。
 ここは探偵事務所ではない。
 入口からドアを開ける大きな音がした。
「ちょっと、優一、人使いが荒いわね。こんな袋を持たせて、爪が割れるじゃないの」
 文花がはやり書店の袋を持って立っていた。今日は赤いコートを着ている。けっこう強烈な色彩だ。工藤と文花が並ぶとあやしいクラブのようにも見える。色彩研究所の所長である私が、セーターにチノパンという普通の格好をしていて、関係のないふたりがこんな色彩的に鋭角な服装をしている。関係を知らない人が見たら、文花と工藤が夫婦で色彩関係の仕事をやっていて、私が助手に見えるはずだ。
「ありがとう」
 私は礼を言い、ふたりが持っていた袋の中から、雑誌を取り出してソファーの前にあるテーブルに並べた。三十冊はあるかもしれなかった。どれもがファッション、ヘアーに関わる雑誌であった。最近の傾向で、雑誌にはバックなどのオマケが付いている。それが雑誌を太らせていた。
 三人で手分けして、現在出ているファッション系雑誌を買いそろえた。まずはコスメの専門誌は除いた。コスメが好きならば、見せることに喜びを感じ、もっと派手な色を好む傾向があると推測したからだ。もちろん、その可能性もないわけではない。ここで結果がでなければコスメ系の雑誌まで探そうと思っていた。
「この子がモデルとして載っている可能性がある。また、彼女はカメラマンの仕事もしている。写真のクレジットも確認してほしい。みんなで手分けして探そう」
 私は上月から預かった娘の写真をテーブルに置いた。一枚のスナップを半分切ったような写真の中で、可憐な女性が微笑んでいた。
「美人ですね、いくつですか?」と工藤は言った。
「二十四歳」
「大変な作業ね」
 文花は私の発言を打ち消すように、ぼそっとつぶやいた。今日も機嫌が悪いようだ。
「はいはい、やります、やりますよ」
 工藤はソファーに座り雑誌をめくりだした。
 私もひとつ雑誌を手にとった。洋服の新作を紹介する若者向けの雑誌だった。めくってみると意外と登場する人が多い。それもほとんどが女性だ。みんなメイクをしている。芸能人に読者モデルといった素人が混在している。この中から同一人物と特定し、見つけられるのか不安になってきた。女性はメイクひとつで顔が大きく変化する。さらに、写真のクレジットを探すのは大変だった。時間がかかる仕事だった。
 しばらく三人で黙々と雑誌を見ていた。ページをめくる音だけが部屋に響く。
 ページをめくりながら上月雄次の気持ちを考えてみた。長年連れ添った妻が突然、癌と告知をされるその衝撃。癌患者の闘病生活は過酷だと聞く。時間がないなかで、家族で充実した時を過ごすために、家出した娘を探す思い。やっと見つけ出しても、娘に母親のことを説明するのも苦しいだろう。苦しむために娘を探すのか…… いっそのこと自分だったら逃げ出してしまいたくなる状況だ。そもそもどんな理由で娘は家出をしたのか? やはり男の問題、駆け落ちか? いや、もっと深刻な問題を抱えているかもしれない。なにしろ、突然、出て行ったという話だ。もしかしたら、親子間でトラブルがあったのかもしれない。娘を探し出し、正面を向いて話し合い、説明して和解できる内容なのか? そんなことを考えると、自分たちがやっていることが、人を救うことになるのかもよくわからなかった。まあ、いい、そういうことは考えないことだ。
「ねぇ、優一」
 文花が私を呼んだ。
「ん?」
 私は文花のほうを見た。また、何かを質問するときの顔をしている。
「ちょっと、疑問に思ったんだけど、雑誌の表紙は、なんで芸能人ばかりなのかしら」
 文花は本当に子供のようになんでも疑問を持つ。
「そうですね。これも、これも、みんなそうです」
 工藤も手を止めて、目の前にある雑誌の表紙を眺めていた。
 よくそこに気がついたなと私は思った。誰もがいつも見ているはずなのに、多くの人は疑問を持たないで受け入れている。圧倒的多数の人は色々なものを疑問に思わないで生活している。文花はややこしい相手だが、色々なものに疑問を持つことはいいことだ。
「答えは簡単だ。表紙に芸能人を使うと雑誌が売れるからだ」と私は言った。
「ふーん、でも、なんで?」
 文花は納得がいかないような声をあげた。
「僕わかりますよ。それは芸能人のよいイメージが雑誌のイメージをあげるから。そうですよね」
 工藤はそう言って、私を見た。私に意見を求めている。
「その通り。と言いたいところだが、それは答えの半分だ。確かに芸能人のよいイメージを使って、雑誌のイメージを上げている。人はイメージでものを判断するからだ。でも、もう半分の答えはここにある」
 私はそう言って自分の頭を指差した。
「頭?」
 文花は首を傾げた。
「頭の中、脳の話だ。脳内には人の顔にだけ反応する細胞があって、とても発達している。したがって、自然と人の顔に目がいく。特に知っている芸能人の顔は反応しやすい。だから、表紙に芸能人を使うとその雑誌がついつい気になって手に取ってしまうのだ。その結果、本を買ってもらいやすくなる。もちろん、雑誌は内容が一番だが、まずは手に取ってもらわないといけないからな。」
「へぇ〜」と工藤は感心する声をあげた。
「私は特に気にならないけど」
 文花はつまらなそうにそう答えていた。
「まあ、個人差はあるからな」
 私はそう言って深く突っ込まないことにした。
「脳は顔に反応するんですか」
 工藤は両手で雑誌を持って、自分の顔の前に持って来た。
「人にとって顔は特別なものなんだ。生まれたばかりの赤ちゃんも、人の顔を注目することがわかっている。たぶん、人は顔から色々な情報が得られることを本能的に知っているんだろう。そして、ずっと色々な人の顔を見ながら生きていくことで、さらに顔を判別する脳細胞が発達する。いわゆる学習効果というやつだ」
「へぇ〜」と工藤は感心していたが、文花はつまらなそうに、ペラペラと雑誌をめくりだした。
「ちなみに、こうすると」
 私は有名な芸能人の写真をふたりから見て逆にした。
「顔を逆にすると、誰だかよくわからない。反対の写真ではそっくりさんと本物の区別がつかなくなる。常に人は正面方向からしか顔を見ていないので、別の角度になると判別ができにくくなる」
「本当だ、顔を反対にすると、芸能人でもよくわからないですね。これ、おもしろいッス」と工藤は感心した。
 文花も興味がありそうな顔をした。
「たとえば、日本人はいつも日本人の顔を見ている。だから日本人の顔の違いを容易に区別がつくが、ヨーロッパのサッカー選手なんてみんな同じ顔に見えるのはそのせいさ」
「あぁ、なるほど。動物園でゴリラがみんな同じ顔に見えるのと一緒ですね」
「そう。その通り」と私は工藤に言った。「本来、ゴリラにも個別にみんな違う顔をしているけど、私たちは見慣れていないから同じに見えてしまう。ところが飼育員さんはみんな簡単に区別がつく。それは毎日顔を見ているからだ」
「ちょっと、動物園のゴリラとか言わないで、韓国の俳優とかの例にしてよ」と文花は声をあげた。
 私は微笑ながら、再び雑誌を手に取りページめくりだした。
 黙ってページをめくり続けた。
「ねぇ、優一、このバックもらってもいい?」
 文花は付録でついていた赤いトートバックを手に取った。
「どうぞ」
 文花は微笑んだ。こんなもので機嫌がよくなってくれるなら、いくつでもあげたいと思っていた。最近、この手の雑誌の付録は本当に侮れない。それが有名ブランドだったりするから驚く。
 さて、何冊、見ただろうか? この地味な作業で本当に目的の女性にたどり着けるのだろうか不安になっていた。私は少し弱気になっていた。
 ページを開くとモデルの顔を確認する。そして、写真があるページは撮影者の名前を探した。また、アルファベットで表記されていたりするので、余計にわかりにくい。
 次第に集中力が切れて来た。女子高生が見るような雑誌を見続けるのは少し辛かった。
「彩木さん、もう、今日はこれぐらいにして飲みに行きましょうよ」
 工藤がタイミングよくそう言った。工藤もぐったりしていた。
 私は工藤の意見にひどく共感した。確かにこのまま続けても探し出せる気がしなかった。
 上月のためにもなんとか早く見つけてあげたい気もするが、まるでゴールの見えない短距離走をしているようで、気持ちがゴールに向かない。
「そうだな」と私は答えていた。
 ただ、なんとも言えない、何かがのどに引っかかっているような違和感があった。この違和感はなんだろう? 
すでに上月友梨奈の顔を見ていて、気がつかないで見逃しているのかもしれない。
すると「私も行こうかな」と文花もつぶやいていた。
 まぁ、気のせいだろうと思って、私は深く考えないことにした。
 上月に運があり、私たちと縁があれば、きっと出会えると思っていた。

 工藤が行きたい店があると言い出し、事務所から少し離れたバーで飲むことにした。看板を出していない、静かで落ち着いた雰囲気のよい店だった。口コミだけで常連客が増えているという。小さい店だが、飲み物はなんでも揃っていた。しかしフードはほとんど置いていなかった。ピスタチオとチーズが数種類あるだけだった。おかげで若い客はほとんどいない。音楽と心地よく抑えた間接照明。シンプルに飲むのにはこんな店もいい。時間を味わえる店、そう思える店だった。
 こんな店でビールを飲むのはもったいない。私はバーテンのお任せでカクテルを注文した。ジンがベースのカクテルが来た。さすがに客の好みも初見で見抜ける。
「この間、なんでパトカーは白と黒なのかって聞いたら、白黒をつけるためって言ったわよね」
 文花は飲む前から、絡んできた。この間の話をけっこう根に持っているらしい。
「あぁ、悪かったよ」
「本当はどうしてなの?」
 改めて聞かれると素直に答えたくなるのが心情というものである。また、何かくだらない冗談でも言おうかと思ったが、文花の目を見てやめることにした。
「パトカーは二十四時間稼働しなくてはならない。つまり昼でも夜でも路上を走る。だからいつでも、太陽光に関係なく目立つようなデザインになっているのさ。明るい昼は黒が目立つし、暗い夜は白が目立つ」
「ふーん」と文花は答えていた。相変わらずの反応だった。
 代わりに、私はおもしろいことを思いついた。
「では、君たちに問題を出したい。なぜ上半分が白で下半分が黒なのか?」
「えぇー、意味があるんですか?」と工藤は言った。
「黒のほうが重たい色だから安定するからじゃないの?」
 文花は考えながら、手をあごにあててそう言った。
 工藤は悩みながら、「警察は意外と腹黒いからですか?」と言った。
 私は思わず笑った。工藤の発想は好きだった。本当に腹黒かったとしても、警察が自分でそんなことをアピールしてどうするんだ。
「確かにデザイン的には文花の言う通り。でも答えは機能面の問題、腹が黒いからではない」
「機能面?」
「パトカーが導入された頃、日本では道がたいして舗装されていなかった。砂利と土の道ばかりだ。雨が降ると車はすぐに汚れてしまう。警察官も暇ではない、いつも車を磨くのはいやだろう。しかし警察官がいつも泥だらけのパトカーを乗っているわけにもイメージ的によくないからな。そこで、下を黒にすれば汚れても目立ちにくくなるという配色をうまく使ったのさ」
「へぇー」と工藤は感心した。
 文花も納得した表情をみせた。
「警察車両といえば、白バイだが、昔は赤かったのは知っているかい?」
「え〜、昔は赤バイだったんですか?」と工藤は驚いた。
「大正時代には赤く塗られたバイクが配備された」
「へぇ〜」と工藤は感心した。
 私はそんな話を続けた。気がつくと二時間も経っていた。
 その後に解散となり、文花と別れて私は工藤と一緒に駅で電車を待っていた。
 私はあまり酔えなかった。話に夢中になっていたわけではない。気分的に酔えなかった。
 土曜の夜、私鉄の駅は人もまばらで静かである。
 私は椅子に座ってぼんやりと前を眺めていた。
 この駅には病院の看板が並んでいた。病院の看板はなかなか難しい。病院はイメージがとても大事だ。看板のイメージを良くしようとすると視認性が悪くなる。つまり遠くから見えにくくなり、看板としての機能が低下してしまう。逆に視認性を優先すると良質なイメージが出しにくい。そのバランスを取るのがなかなか難しいのだ。整形外科、皮膚科、内科、科の種類によっても、誰に見せるかによって、使う色彩は考えなくてはいけない。年齢によって見えにくい色も存在する。しかし、この駅にある看板はどれもバランスがとれていない。もったいないと思った。
 そんなことをつい考えてしまうのは、やはり職業病か?
「彩木さん、ハイ。ブラック」
 工藤は私にブラックの缶コーヒーを渡した。私は「サンキュー」と言って缶コーヒーの表面を眺めた。ブラックを売りにしているだけに、黒いデザインをしている。黒は人の味覚に深みを感じさせる心理効果がある。私はふたを開けてひとくち飲んだ。しかし、深みなどを感じる精神状態にない。人の感覚器は感情とつながっている。気持で何もかもが変わってしまう。大勢で食事をするとおいしく感じるのがその最たる例だ。
 工藤は私の横で、また甘い缶コーヒーを飲んでいる。工藤が飲んでいるのは朝専用という缶コーヒーだ。赤い容器が目を引いた。赤は活動を促進させる色だ。少し苦みを強調している商品らしいが、色彩新の視点からも朝を感じさせる商品となっている。容器の選定会議の状況が目に浮かぶというものだ。しかし、朝専用のコーヒーを夜に飲む。またも、コンセプトが破綻している。
 私はため息をついた。なんか憂鬱だった。心が晴れない。
 そのとき、ホームに特急電車が通過するアナウンスが流れた。
「彩木さん、あれ」
 工藤の緊迫した声で我に返り、私は前を見た。
 くたびれたトレンチコートを着た小太りのサラリーマンがホームの前でゆらゆらしていた。足が危険を示す白線を越している。足を見るとゆっくりと前に進んでいるようだった。このままではホームから落ちそうだ。
「まずい」 
 私と工藤はとっさに動いた。
 特急電車はもう直前まで来ていた。
 警告音が響く中、私と工藤はそのサラリーマンを抱きかかえ、力任せに後ろに引いた。三人でホームに倒れ込んでしまった。
「おっさん、大丈夫か」
 工藤は男の肩を持ってそう叫んだ。
 男は生気のない目をしていた。
 具合が悪くてふらふらしていたのではない。この男は死のうとしていたのだ。
 私と工藤は男の肩を抱えて、ベンチに座らせた。そうして男の左右に私と工藤は座った。
「すいません、すいません」
 そう言いながら男はシクシクと泣いた。下を向いてずっと泣いていた。
 きっと上司から日々抑圧されているのかもしれない。とりあえず謝る癖ができているのだ。五十代前半、会社では中間管理職として上からも下からも突き上げられているのだろう。くたくたになったコートの裾は地面にぐったりと落ちていた。コートの下には艶のある茶色のスーツ、ワインレッドのシャツを着ている。普段は意外とお洒落さんなのかもしれない。 
 しばらくの間、男が落ち着くのを待った。たまに前を通りかかる学生や会社員風の人々が冷たい視線を投げかける。無理もない、いい歳の男がベンチで謝りながら泣いているのだ。
「どうしたんだよ」
 工藤は男の肩を軽く叩いた。
「すいません。すいません。でも、もうダメなんです」
「何がダメなのですか?」
 私はできるだけやさしく語りかけようとした。
「ダメです。私はダメなんです。すいません、私にはできません」
 男はまだ泣いていたが、少しずつ言葉を話せるようになってきた。
「こんなところで出会ったのも、何かの縁でしょう。よかったら、詳しく話してくれませんか?」
 私はやさしく語りかけた。別にややこしい話に首を突っ込みたいわけではない。助けてもまた別な場所で自殺されたら、なんとも嫌な気分がするだろうと思ったからだ。
 私は男が話すのを待った。
 男はしばらく泣き続けた後、か細い声をだした。
「か、会社から、無理な経費の削減を要求されまして… 」
「はい」
 私は相づちを打った。
「そ、それが出来ないと、クビにすると言われました。わ、私にはできません。とても無理な話です。で、でも、クビになったら、家族に、家族に会わす顔がありません」
「なんか、ブラックな会社だな」と工藤がそうぼやく。
 確かに経費節減を個人に要求し、できないからクビというのは現代では許されないはずだ。
「そんなことで死ぬことはないでしょう」 
 私は少し感情的に言った。
「ひ、ひたすら勉強をしていい大学に入り、いい会社に就職して、そこで二十五年間真面目に働きました。気がつくと私には仕事しかありませんでした。このまま定年までここにいるのかと思ったら、なんか、なんか、怖くなって、家族の反対を押し切って、小さな会社に転職したんです。やりがいがあると思いました」
 男は泣きながら身の上話を続けた。人はなかなかこういった話をしないが、一度しだすと雄弁になる傾向がある。自分の気持ちをうまく制御できなくなる。
「ところが、転職は失敗でした。実際はとてもひどい会社でした。外からはわからなかったんです。色々と無理なことを言われ続けました。法に触れそうなこともやらされました。なんとかがんばってきましたが、今回は無理です。できません。家のローンもまだ残っています。だから私が死ねば、生命保険で補填できます。私は死んだ方がいいんです」
 男は絶望したように、手で顔を押さえた。
「自殺じゃ、保険金が支払われないことがあるよ」
 工藤はそう言った。
「えっ?」
 男は顔を上げた。
「ほとんどの保険会社は自殺免責期間が三年と定めているから、契約後三年間は支払われることはない。それ以降、自殺でも払われるケースがあるけど、保険金取得が目的の自殺だとわかると、保険金を支払わないケースもある。法的には支払いの義務はないからね」
「そ、そうなんですか」
「保険会社の判断で、払われるケースもあるし、払われなかったケースもある。だから、保険金目的の自殺はリスクが高い」
 工藤は得意げに言った。なんで工藤がこんなに保険に詳しいのかわからなかった。
「じゃあ、どうすればいいでしょう?」
「そう言われても……」
 工藤は私をチラッと見た。
「無理な経費節減ってどんなものですか?」と私は言った。
「あっ、はい……」
 男は口ごもりながらゆっくりと話だした。
「私は山下と申します。新宿にあるカルチャースクール運営会社で総務課長をしています。この不景気で思うように生徒が集まらず、会社からしきりに経費節減を求められているのです。ひとつは家賃です。スクールを展開しているだけあって、広い場所が必要で、売上に占める家賃負担がかなり重たいのです。上司から毎日のように大家のところ行って家賃交渉をしろと責められます」
「ひどいな」と工藤は言った。
「はい。毎日なんて単なる嫌がらせです。それから、広い教室がいくつもあるので、光熱費がとても高いのです。冷暖房の費用も相当な金額になります。光熱費もなんとかしろと言われています。でも、参加者は女性が多く、女性はちょっとの温度差に敏感です。冷暖房を控えめにしているとすぐに強くしてくれとクレームがでます」
 私は山下の話を聞きながら、文花のことを思い出していた。たしかに注文は多い。いつも事務所のことを寒い、熱い、暗い、気持ち悪いとすぐクレームを言う。
「わかります」と私は相づちを打った。
「また、最近では、講師の人件費を抑えたいので、講義の時間を短縮する方向です。当然、生徒からクレームと推測されます。そこで、生徒を納得させる方法を考えろとのことです。そして、それができないなら辞めろと言われています」
「無理だよ。そんなのほとんど嫌がらせだね」
 工藤は呆れたように言った。
「はい。できるわけありません」
 男はがっくりとうなだれた。
 たしかに嫌がらせとも思える圧力だった。家賃、光熱費の圧縮、そして時間短縮の対策。普通に考えるとどれも無理そうである。
 しかし、私の考えは違った。
「いや、できるかもしれませんよ」
 私はそう言うと工藤と男は不思議そうな顔をこちらに見せていた。
「確かに家賃の問題はしかたがないでしょう。しかし、光熱費を下げる方法と時間を短縮しても生徒から文句のでない方法はあります」
「えっ、どうするんですか?」と工藤は言った。
「色彩の力を使うのさ」
「しきさいですか?」男は不思議そうな声をあげた。
「はい。色の力を使うのです。色彩は使い方によっては、人の感情や感覚に大きな影響を与えます」
 男の口がぽかんと開かれた。
「たとえば、温度感覚もそのひとつです。赤、オレンジといった暖色系の色は、人の温度感覚を狂わせます。壁の色を暖色にすることで三度から五度は体感温度を上げられます」
「へぇ〜」工藤が感心する声をあげる。
 私は身内が感心する声をあげてどうすると思っていた。工藤はいまひとつ空気が読めない。
「壁を塗り替えるという大掛かりなことができなくても、カーテン、椅子、テーブルなど部屋のインテリアを暖色系にするだけでも、効果は見込めます。数度は設定温度を下げても文句はでないでしょう。実際に海外では、季節によって内装で体感温度をコントロールし、温度調整をする企業もあります」
「ほ、本当ですか?」
 男は顔を上げて答えていた。
「はい。本当です」「それに、時間を短縮しながら生徒に満足感を与える方法、それも色を使えばうまくいく可能性があります。色には時間感覚を麻痺させる効果があります」
「ほ、本当ですか?」
 山下は驚いた顔を見せた。その顔はひどく涙だけでなく、よく見ると鼻水もたれていた。私はポケットからティッシュを取り出して一枚、彼に渡した。聞きたくない音が響いた。渡すときに男の手がふれた。男の涙が付いてしまった。すぐに拭こうと思ったが、あまりに露骨なことをすると可哀想なので、しばらくそのままにしていた。
「赤い色などの暖色系は時間の流れをゆっくりと感じさせる効果があります。たとえば、赤い内装の部屋にいると、一時間経過しても体感的には一時間十分、十五分と経過したと感じる傾向にあります。もちろん、個人差はありますが、これは色彩の心理効果のひとつです」
「そ、そうなんですか」
「はい。この手法は身近なところにも使われています。たとえば、ファーストフード店の内装が赤、オレンジ、黄色などを多用しているのは、明るいイメージを作っているだけでなく、この時間をゆっくりと感じさせるようにしているんです」
「なんで、ファーストフードは時間をゆっくり感じさせる必要があるんです?」
 工藤は不思議そうな顔をしてそう言った。
「か、回転率ですか?」
 山下はそう答えた。
「そうです。回転率を高める施策のひとつ。ファーストフード店は、どんどん回転を促さないと儲からない。だから、時間をゆっくり感じさせる内装にしておけば、みんな実際の時間よりも短い時間で。満足して帰ってくれるのです」
 私は自分の手を口に持って行った。唇が濡れた。しまった、男の涙で濡れた手を拭くのを忘れていた。私は変な顔をしないように、そっとティッシュで口と手を拭いた。男の涙は変な味がした。最悪だ。私は自分の愚かさを呪った。
「なるほど、色の力ってすごいですね」と工藤は言った。
 山下の顔が明るくなった。目も大きく開かれた。そうして口元が少し緩んだようにも見えた。
「逆の例でいうと、青などの寒色系の色は、時間の流れを早く感じてしまいます。寒色の色を見ていると、あっという間に時間が経ってしまうのです。あの『浦島太郎』が竜宮城で過ごした時間を実際の時間よりもかなり早く感じたのは、青い水の世界だったからではないかとも言われているのです」
「へぇ〜、童話も色彩心理で語れるんですね」工藤は感心していた。
「つまり今の季節なら、部屋のインテリアを暖色系に変えることで、体感温度が上がり、暖房費が抑制でき、さらに暖色の時間感覚を狂わせる効果で、講義の時間が短くなっても、生徒の時間的な満足感を上げることができます。まあ、来年の春か夏までの施策ですけどね」
「す、すごいです。あ、ありがとうございます」 
 山下は突然立ち上がって、私の手をつかんだ。
「ありがとうございます」と何度もいいながら、山下は私の手を握り続けた。
 また、手が濡れた。今度は鼻水もついていた。
 私はゆっくりと右手を抜いてハンカチで拭い、ポケットから名刺を取り出して山下に渡した。きっと半年ぶりに出す名刺だった。
「私は彩木といいます。新宿で色彩の研究をしています。具体的なインテリアの配置や用意の方法は相談にのりますよ」
「は、はい。で、でも…」と山下は口ごもり「うちの会社にはそんな予算は……」と言った。
「あぁ、コンサルタント料は無料でいいですよ。また、どこかで自殺しようなんて思われると、私も辛いですし」
「いいんですか、あ、ありがとうございます」
 あまり気の利いた台詞を言えなかったが、山下が喜んでいるのでいいかと思った。
「彩木さんは、色彩の世界では有名な方なのですか? すごい知識をお持ちだ」
 山下は憧れている人を見るような目をした。
「いや、色に少し詳しいだけです」
「私には神様のように見えます。ありがとうございます」
 山下はしばらく何度も礼を言い続けた。そして最後に深々とお辞儀をして、くたくたのコートを引きずるように帰っていった。
「また、電話してもいいですか?」
 山下は振り返ってそう言った。
「いつでも、電話してください」
 私は山下に声をかけた。山下は興奮して今日は寝られないかもしれないだろう。でも、死ぬよりはいい。生きていればきっといいこともある。
 世の中には色々な境遇の人がいて、色々な性格の人がいるとは理解しているが、本当に色々な問題を抱えている人がいると感じていた。
 風のように自分の前を特急電車が通過した。
「相変わらず、お人好しですね」
 特急電車の通過が終わると、工藤はそうぼやいた。
「お人好しなんかじゃないさ」
 別にお人好しなんかではない。人助けに喜びを感じているわけではない。どちらかと言えば、面倒なことには関わりたくないと思っている。ただ、色は様々な可能性を持っている。色をうまく使えば、生活が豊かになるだけでなく、多くの人を救う可能性を持っている。私は色の効果をもっと多くの人に知ってもらい、色を使いこなしてもらいだいだけだ。そう、昔、私が色に助けられたように……
 私は忘れかけていた自分の気持ちを少しだけ取り戻した気がした。
 私も助けられたのかもしれない。
「ボク、あの人の気持ちわかります」
 工藤は寂しそうにそう言った。
 工藤も挫折を経験している。その発言はそのせいかもしれなかった。彼もまたエリート路線から不幸にも脱線をしてしまったひとりだ。人は誰でも挫折する。そして、目標を見失う。大事なのはその挫折を乗り越える力だ。その力は自分一人ではどうにもならないことがある。
 私は残っていたブラックの缶コーヒーを飲み干した。
 土曜の夜、私鉄の駅は、人もまばらで静かなものだった。

3

今日も文花は昼頃に事務所にやってきて、机に座って爪を触っていたり、パソコンを使ったり、昨日買って来た雑誌をパラパラと見ていた。相変わらず退屈そうだった。
「なんか、今回のデキはあまりよくないのよね」
 文花は指を上にあげて照明ごしに見た。白いパールの輝きを見せる爪には、色々な装飾が施してあった。しかし、今回のデザインは気に入らないらしい。
「ねぇ。なんかお茶ない?」
「はいはい」と言って私は冷蔵庫にいき、中からお茶のペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。
「はい」と言って文花の前にある事務机の上に置いた。
「ちょっと、そのお茶、いつから入っているの? 大丈夫?」
 不機嫌そうに文花は言った。
「大丈夫さ。まだ開けてから二週間ぐらいしか経っていない」
 そう私は言いながら、やれやれ注文の多い客だと思った。
 文花は嫌そうな顔をして、グラスには手を伸ばさなかった。
 私は背伸びしながらソファーに寝そべった。脳裏には上月雄次のこと、そして昨日出会った山下のことが蘇ってくる。
 いくつか気になることを整理しようとしていた。しかし、考えても仕方なかった。わからないことだらけだった。
 入口のドアが静かに開いた。
「あ〜ら、文花ちゃんに、優ちゃん、こんにちは」
 入口から不気味な低音が響く。
 藤色のワンピースを着た不気味な生き物が立っていた。オカマのヨシ子だった。
 内股でスタスタと事務所に入って来てきた。手を立てて左右にふっている。そして、ヨシ子は私の横に座った。
 やれやれ、この事務所は本当に変な人間のたまり場になってしまっている。
「ちょっと、優ちゃん。最近、お店に来てくれないじゃない?」
 ヨシ子の厚化粧が間近に迫ってくる。生命の危機を感じる。
「あぁ。悪い、悪い。見ての通り仕事が忙しくて」
「ちょっと、どこが忙しいのよ。寝ていたじゃないの?」
 ヨシ子は私の肩を叩いた。意外と痛い。
「は〜い、文花ちゃん」
 ヨシ子は文花に小さく手をふっていた。文花はニッコリとそれに答えた。こういうときに、文花は少女のような顔を見せる。
「もう、カワイイわね」とヨシ子は身もだえていた。相変わらず鬱陶しい。
「あっ、そうそう。優ちゃん、赤紫が好きな人って、どんな性格?」
「おっと、ずいぶんとマイナー路線だな。赤紫といっても赤が入っている分量によっても違うけど、まあ、一般的な赤紫なら、個性的に見られたいと思っていて、気難しいタイプの人かな」
「うん、うん」
 ヨシ子はうなずいていた。
「人に認められないと無言になったり、認められると明るくなったり、反応が極端な性格の人が多い。赤の分量が増えると、より活動的な性格がでてくる」
「あっ、なんか当たっているわ。すごーい。最近、来る客で変な人がいるんだけど、好きな色を聞いたら、赤紫が好きっていうのよね。なんか、目立ちたがり屋みたいだし、気難しそうな感じ」
「赤紫はわりと女性に好まれる色だけど、相手は男?」
「そう男よ、でも、女性的な感じもするわね。粘着質のタイプ、ちょっと苦手。目もこんなに細くて」
 ヨシ子は自分の目を細めた。そしてぶるぶると震えた。本当に嫌いなようだ。客商売は大変だ。嫌いな相手でも接客をしなくてはいけない。
 一見、無敵艦隊のように見えるがオカマは繊細だ。意外と対人関係で苦しんでいる。
「そして、いつも白いスーツに白いネクタイとか、ダークなシャツに派手なネクタイをしてくるのよね」
「それって、あちら側の人じゃないの?」
 文花がそう言った。新宿の裏側にいる非社会的な団体のことである。
「たぶん、そうなの。でもね、大手の人たちじゃないわね。ちょっと雰囲気が違うのよね。私もこんな商売を何年もやっているから、人を見る目はあるつもりだけど、何か変な人たちなのよ」
「たち? そんなのが何人も来るのか?」
「まさか、そんな人はその人だけよ。でも彼が色々と取り巻きを連れてくるわ。連れてくる人もお洒落な服を来ているわ」
「最近はあの業界もみんなお洒落なんだろう」
 私は適当なことを言った。
「そうなのかしら」
 純粋なヨシ子はあまり疑うことを知らない。彼女、いや彼たちはみな純粋だ。
「ねぇねぇ、じゃあ、今日の私のファッションどうかしら?」
 やれやれ、ファッションチェックの仕事はしていない。しかし、ヨシ子はキラキラとした目を見せて、何かを言ってもらいたいという顔をしている。
「いいんじゃないか、似合っているよ」
「もう少し具体的に言ってよ」
 やれやれ。
「平穏で上品な色合いだ。その藤色は自分の感性を刺激してくれる色だし、人気者が着るとより力を与えてくれる色彩だ。ヨシ子にはピッタリの色じゃないかは?」
「そうよね」ヨシ子はニコニコと満足そうだった。ヨシ子は鼻歌を歌っていた。
「あら、この雑誌なに?」
 ヨシ子は目の前に積まれた雑誌の山を見て言った。
「あぁ、ちょっと人を捜していてね。この子が雑誌に載っているかもしれないと思って買ってきたものの、あまりにも雑誌の数の多さと登場人物の多さに弱っているところさ」
 私はそう言って、ヨシ子に上月友梨奈の写真を見せた。
「へぇ〜、お人形さんみたいな子ね」
 そう言って、ヨシ子は積んであるファッション雑誌を一冊手に取った。そしてバラバラと開いてみた。
「なんか、昔を思い出すわ」
 ヨシ子はそう言った。彼女はそんな前からオカマだったのか?
鼻歌を歌いながら、「カワイイわ」「これいいわ」と言いながら、ページをめくっていた。
「あら、この子じゃないの? ほら」
 私は驚いて、雑誌を覗き込んだ。
 写真の顔とは明らかに違う。髪型は軽くウェーブがかかっている黒髪、目もラインを強調して大きく見える。しかし…、口、鼻、輪郭…、そしてこの甘い笑顔、これは…
「本当だ」
 間違いない。
「ヨシ子すごいな」
 さすがに日々、色々な化粧顔を見ているだけある。ヨシ子がいなければ、私たちでは見抜けなかったかもしれない。
 文花も覗き込んできた。
「本当だわ」と文花は言った。
「私ね『一発ツモのヨシ子』って言われているの」
 私はちょっと納得した。ヨシ子とだけは麻雀をするのはやめよう。
 その雑誌を手に取った。読者モデルが中心となって、色々な女の子たちの私服や新作の服を紹介するファッション雑誌だった。彼女は読者モデルのひとりとなって雑誌の中で笑顔を見せていた。
 私はページの中で名前がクレジットされていないか探したが、残念ながら紹介されていなかった。しかし、この大きな目に甘い笑顔は、上月友梨奈に間違いはない。
 私は奇妙な仲間たちにいつも助けられている。
 雑誌を裏返し、出版社名を探した。
「風友社」
 聞いたことがない名前だった。
 文花がネットで調べると、それは千代田区にある中堅の出版社だった。ファッション雑誌を中心に、サブカルチャー系のムック本を出版している。
 この出版社に張りつけば、この女性と会える可能性は高い。大きな進展だった。困難だと思われた捜索が少しだけ動いた。

 その夜、私は依頼人の上月雄次に電話で連絡を取った。
「娘さんと思われる女性を雑誌で見つけました。もしかしたら、意外と早くたどりつけそうです」
「見つけた? ……ですか?」
 上月は少し驚いた声をだした。
「はい。雑誌に載っていました。カメラマンではなく、モデルとして仕事をされていました」
「あぁ、そ、そうですか、ありがとうございます」
 少し明るい声がかえってきて私はほっとした。
「なんという雑誌ですか?」
「すいません。まだ報告できません」
「どうしてですか、教えてください」
「本人を見つけて、確定してからご報告します」
 私は詳細を言わなかった。進捗は報告しても、詳細は伝えないほうがいいからだ。詳細を伝えてしまうと、そこから介入してくる依頼人が多い。その結果、問題を余計にややこしくしてしまうことがある。
「お願いします。一刻も早く知りたいので」
「すいません。うちの事務所の方針で、お知らせできません」
 もう少しうまく説明できないものかと自己嫌悪になった。相手は少しでも情報をほしがっているのだ、もっと優しい言葉はかけられないものだろうか? 
「早く私も見てみたいんですが、駄目ですか?」
「はい、すいません。そのかわりに本人を確認したら、すぐにご連絡します」
 ほんの少し沈黙があった。上月は何か考えているようだった。
「わかりました。でも、ひとつお願いがあります」
 上月はゆっくりと言った。
「はい。なんでしょう?」
「娘を見つけても、絶対に直接会わないでないでください。妻のことは私から話します。妻の病気のこと、私が探していることは絶対に言わないでください」
 上月の気持ちを考えると胸が苦しくなった。大事なことは辛くても自分の口から説明したいのだろう。依頼人の中には面倒なことは、すべてやってくれという人が多い。しかし、彼は違った。
「わかりました。そうします」
 上月は少し間を置いて「ありがとう。彩木さん。これで少しゆっくり眠れるかもしれない」と言った。
「いえ、まだ、調査はこれからです」
「彩木さん、ありがとう」
 そうして私は電話を切った。妙に丁寧な言い方なのが気になった。彼はきっとそういう性格なのかもしれない。
上月は娘と向き合って、いったいどんな言葉をかけるのだろうか? うまく伝わるといいなと私は願っていた。
そして、私は新たに決意をした。よし、明日からが勝負だ。

 夜から降っていた雨があがった。
 気持ちのよい朝だった。
 太陽が上がってくると、ミスト・ブルーのような靄が晴れ、澄んだ視界が広がってくる。都会でもこんな朝があるのかと思っていた。
 私と工藤は風友社の入口が見える道路に車を止め、中から出入りする人をチェックしていた。あまり近すぎると警戒される。しかし、離れすぎると人の判別が困難になる。毎日、少しずつ場所を変えて、入口をチェックしていた。正面から来る人は問題ないが、後ろ姿から判断するのは極めて難しい。写真から背の高さや体格はいまひとつ掴めない。髪型や髪の色は写真のままなのか、雑誌に載っているように変わったのか、それとも別の髪型をしているかもしれない。また冬は人を厚着にさせる。コートを着られると本当によくわからなくなってしまう。
 これはと思った女性の後をつけ、どこかのタイミングで正面に回って顔をチェックした。工藤は人に気がつかれないように後をつけ、さりげなく顔を見る天才だった。今日の工藤は黒いジャケットに冴えた紫みの青をしたロイヤルブルーのシャツに藤色のネクタイをしていた。
 あんなに怪しい姿をしているのに、行動はいたって自然だった。
 風友社に出入りする女性は意外と多かった。カメラマンだけでなく、ライターや編集者もいるのだろう。とても全部の人をチェックすることはできなかった。
 実はもう上月友梨奈は、何度も私たちの横を通り過ぎているのかもしれない。そんな恐怖心にも似た焦りがあった。
 朝の九時から夜の六時まで、ここで工藤と一緒に、時には交代しながら人の確認を続けた。今日で四日目だった。
 しばらくこの張り込みをしばらく続けて、それでも出会えないときは、別の方法を考えたほうがよいのかもしれない。彼女が毎月、この出版社で仕事をしている保証はない。あの仕事はたまたまなのかもしれない。念のため雑誌のバックナンバーを取り寄せた。今日、事務所に届くはずだ。文花が中身を調べてくれる。毎月、彼女が載っていればもう少し具体的な作戦がたてられるかもしれない。それでも駄目なら、編集部に直接アプローチする方法も考えたほうがよさそうだ。
「探偵ってわりにあわない仕事ですよね」
 助手席にいる工藤はそうぼやいた。
「なあ、いつも言っているけど、探偵じゃあないからな」
「わかっていますよ。一般論として、こんなことをいつもしている探偵は、わりにあわない仕事かなと思っただけです」
「なんでも調査には時間がかかるだろう」
「でも、彩木さんは、なんでこんな仕事をしているんですか? 彩木さんぐらい色彩に詳しかったら、もっと他の仕事があると思うんですけどね」
 自分自身、よくわからなかった。なぜこんな仕事を続けるのか。
「さあな。昔はこれでも、色彩の仕事をしていたんだ。でも、いつからか、こんなになってしまった。なんでかは、よくわからない。まぁ、成り行きかな」
 私は正直に答えていた。
 自分はどこへ行こうとしているのか、自分はいったい何がやりたいのか? 
 色を使って何をしようとしているのか?
 このままでは本当に探偵になってしまうかもしれない。心の中をもやもやとしたものがたまっていく、そんな気がしていた。
「工藤はどうするんだ、この先」
 工藤はまだ若い。就職試験に落ちたぐらいで、人生の道を踏み外すことはない。私は工藤の行く末が心配だった。ドラマのマネをしている場合ではない。
「ぼくもよくわからないです」
「うちの事務所なんかにこないで、まともな仕事をしたらどうだ?」
「はい。そのうちしますよ。でも、彩木さんと一緒にいると色の勉強になるので」
「ほう。色を使って将来なんかやるのか?」
「いや、そういう訳ではないですけど。まあ、色々なものを勉強したい年頃なので」
 思わず私は鼻で笑った。
「色彩の勉強をする前にその服のスタイルを考えたほうがいいぞ」
「そうですかね」
「いつも黒い服ばかり来ていると前に進む推進力がなくなる。もっと、色々な色の服を着たほうがいい」
「わかりました。考えておきます」
 私はやれやれという顔をした。
 私は大きく背伸びをした。ずっと座っているのも辛い。
「工藤は大学では何を専攻していたんだ?」
「法学部でした」 
「意外だな」
 そう言いながら、先日、山下に保険の話をしたことを思い出した。それで、あんなに保険に詳しかったのかもしれない。
「そうですか? 見えませんか」
「あぁ、見えない」
「そうですか」
 工藤は首をかしげて、意外だというような言いをした。
「司法試験は受けないのかい?」
「えぇ、学生のうちに取れないかと必死で勉強しましたが落ちました」
 工藤はすごいことに挑戦していた。なかなかおもしろいヤツだ。学生のうちに司法試験に受かる人など、本当にごく僅かしかいないと聞く。
「また、挑戦すれば、いいのに」と言いながら私はあくびをした。
「考えておきます」
 工藤はそう言った。
「彩木さんは、いつからこの仕事をしているんですか?」
「さて、いつからだろう?」
 私は記憶を呼び戻そうとした。
 
 事務所を構えたのは、確か五年前だったと思う……
 二十代の頃、あるきっかけで色彩に目覚めた私は、企業のデザイナーを経て、何年後かに独立してフリーのデザイナーとして仕事をはじめた。グラフィックデザイナーとして雑誌の表紙や音楽、映画のポスターやジャケットのデザインもしていた。プロダクトデザインの仕事もあって、カトラリーや食器のデザインなどもやっていた。様々な色を駆使したデザインは一定の評価をもらい、順調に仕事ができるようになっていた。忙しく土日も正月もなかった。
 そして、あるとき休暇を取って海外に一人旅に出掛けた。ギリシャを周遊し、地中海のサントリーニ島を訪れた。そこで私は島の景観に衝撃を受けた。白い壁の建物に、グリーク・ブルーの屋根をした建物。建物の向こうに見えるエーゲ海の深くて美しいブルーの色彩が広がっている。石灰で塗られた真っ白い壁面は、ありえないぐらい美しく、神々しくも思えた。澄んだグリーク・ブルーの屋根は神話に登場するゼウスの碧眼そのものだった。
 私はそれから海外の色彩に魅了された。トルコ、イスタンブールで見たブルーモスクの色彩。鮮やかな青いタイルの中で静かに主張する深い赤。現代においても原料が解明されていないというその不思議さ。そして、いたるところで見られる魔除けのナザール・ボンジュウ。深いオリエンタル・ブルーに引き込まれるようだった。ドイツの淡いレンガ色で並ぶ美しい町並み。スパニッシュ・レッドの情熱が迸るスペインの色彩、タイで見た黄金色の袈裟を着たアユタヤの仏像、インドのホーリー祭で使われる鮮やかな原色……
 私はそれらの色に触れ、昔、自分が色彩に救われ、色彩の力を信じて、色彩を通じてもっと大きなことをやろうとしていたことを思い出した。そして、仕事に翻弄され、いつの間にか仕事としてしか、色と接することができなくなった自分を憂いた。色にはもっと可能性がある。色を通して人を救うこともできる。そんな気持ちを忘れていた自分を恥じて、私はデザインの仕事を全てやめた。
 そうして私は「彩木色彩研究所」を立ち上げた。
 最初は色々な研究や調査をおこなって順調だった。コンサルタントの仕事も多かった。しかし、それも長くは続かなかった。二年を過ぎた頃から次第に仕事は減っていった。不況のせいではないと思う。思ったほど効果がだせなかったのかもしれない。気がつくと「彩木色彩研究所」は、暇人のたまり場になり、食べるために探偵まがいの仕事を受けるようになった。私の情熱もいつしか冷めていた。

 しかし、私はその経緯を工藤に語ることはしなかった。きっと話が長くなる。
 私はあくびをした。
 睡魔に襲われてそうだった。まだ午前中だというのに眠い。そういえば、昨日も遅くまで海外ドラマを見ていた。海外ドラマなんて見るもんじゃない。途中で止められなくなってしまう。
「ちょっと、缶コーヒーでも買ってくるわ。何かいるか?」
 そう言って私は工藤の顔を見た。
「すいません。僕のもお願いします」
 工藤も眠そうにあくびをひとつした。お互いに疲弊していた。
 私は車から降りて外に出た。けっこうまぶしかったので、私は思わず目を細めた。そしてゆっくりと深呼吸をして近くにある自動販売機を目指して歩き出した。工藤のことだ、また甘いコーヒーを飲みたがるのだろう。
 私は道路を軽くは走って横断し、その勢いのまま自動販売機の前まで走った。その瞬間、自動販売機の横にある道から人が現れて、ぶつかりそうになって、急に止まった。
「すいません」
 そう言って相手の顔を見た。
「あっ」と思わず声を上げてしまった。
 うっすらと茶色いストレートの髪に大きな目。フランス人形を思わせる白さと可憐さがあった。 
 そこには写真のままの女性が立っていた。上月友梨奈だった。
 彼女は私の出した声に驚いた様子だった。
「上月友梨奈さんですよね」 
 依頼人には接触しないように言われていたが仕方なかった。
「は、はい」
 警戒心に満ちあふれ、おびえたような表情を見せていた。知らない人と外で出会うことを必要以上に怖がっている感じだった。
「心配しないでください。私は彩木と言います。お父さんに頼まれまして、あなたを探しに来ました。怪しい者ではありません」
 相手の警戒心を解くために、私は先に事実を口にした。
 ところが彼女は余計に心の紐を結んだような表情になった。なぜだ?
「何かの間違いではないですか? 私の父は二年前に他界しています」
 えっ、どういうことだ。
「お父さんから、お母さんが病気という話をお聞きしまして…」
「母とは一緒に暮らしていますが、病気ではありません。すいません。失礼します」
 彼女はそう言って私の横を通り過ぎ、出版社の方へ小走りに向かっていった。
 彼女が嘘をついている訳ではないのは表情からわかる。私は鈍器のようなもので後頭部を叩かれたような気がした。どういうことなのだ? 私は混乱した。
 そうして、その日から依頼人とも連絡が取れなくなった。

-続く-


いつも応援ありがとうございます。 みなさまからいただいたサポートは研究や調査、そしてコンテンツ開発に活かしていきます。 ミホンザルにはバナナになります。