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海の魔女と、島国の夜明け

「海の魔女に、子どもができたんだ」

 王の言葉に、議場は一瞬静まり返った。ややあって、悲鳴が生まれる。ざわめきは議場の外まで広がった。兵士が騒ぎ、メイドが卒倒し、動揺は王城の外に伝染した。城下の町はあっという間に大騒ぎとなった。
 海の魔女は魔物ではない。ただ、生まれつき海の精霊に愛されて生まれただけの女性だ。いわゆる海の巫女と呼ばれる存在として、航海や漁の安全を祈願し、荒れる波を鎮める、そういう存在として育つはずだった。しかし、残念ながらそうはならなかった。端的に言えば力が強過ぎたのだ。赤ん坊であった彼女が泣き喚くと海は確実に荒れた。育った彼女は若干男勝りな性格に育った。彼女が町で殴り合いをするたび、両親と言い争うたび、波はざぶんざぶんと上下した。彼女はいつしか、海の魔女と呼ばれるようになった。

 最初に気付いたのは、女性だった。王はもちろん、分かっていた。
「女王にも聞いた。生まれるまでの十月十日の苦しみは想像を絶し、お産の苦しみは筆舌に尽くし難いものだと」
 議場に殺到した全国民、特に女性が首を何度も縦に振った。
「最悪の場合、国が沈むかもしれん」
 すすり泣く声が聞こえた。海の魔女とは呼ぶものの、彼女に罪は無い。ただ少しだけ、精霊に愛されすぎただけだった。
「国が沈まずに済んだとして、苦しみは産後にも続くと聞く。喜びばかりではない。様々なことで思い悩む。となれば、数年は漁に出ることは叶わない。商船も寄り付かなくなる」
 国は小さな島にあった。海に囲まれているのだ。海が荒れれば国が荒れる。海が穏やかなら国も穏やかだ。
「残念だが、国民たちよ。国を捨ててくれ」
 王の宣言に、しかし国民たちはすぐに動かずに顔を見合わせるばかりであった。何かできることは無いか。自然とそういう話になった。海の魔女はその実、国民たちに愛されていた。彼女が航海の無事を祈るようになってから、沈んだ船は1隻も無かった。彼女が豊漁を祈れば、海はその幸を惜しむことなく差し出した。そんな彼女の幸せだ。男勝りで喧嘩っ早く、直情で怒りっぽい。しかし、情に厚く、真っ直ぐに役目を果たして暮らす。そんな彼女の幸せを、本当は誰もが喜んでいた。

 その日から、国は貯蓄をすべて切り崩して準備を始めた。食料を買い込んでは王城に溜め込む。木材や石材を買い込んでは高台にある王城を増築し、全国民の避難に備えた。海が荒れれば、国民は魔女を想った。どうか穏やかにと願わずにはいられなかった。王は金に糸目をつけず、商船に妊婦の苦しみを和らげるあらゆる薬草や医者を集めてこさせた。それほどまでに、海の魔女は愛されていた。しかし、それでも波は日に日に高くなっていった。漁に出られない日が増え、ギリギリまで粘っていた商船たちも、いよいよ取引を諦めていった。
 そして、その日が来た。お触れが無くても国民たちは分かっていた。海はこの世のものとは思えないほどに高くうねっていた。神話に出てくるクラーケンがそこにいた。すべての人間が祈った。懸命に祈った。聞こえるはずの無い海の魔女の叫びが、城中に響き渡っているようだった。嵐が国を襲っていた。島を襲っていた。
「この世の終わりだ」
 悲鳴を上げた男がいた。隣の妻に小突かれて、別な男に抑えられる。
「聞こえたらどうする」
 全員が泣いていた。恐怖を押し殺していた。海の魔女にも、その子どもにも、伝わってくれるなと、ぐっと恐怖を押し殺した。生まれてきたことが不幸なことであったなどと思わせてはいけない。王命が下るまでもなく、国は一丸となっていた。干し肉を食い縛って耐えた。抱き合って耐えた。長い長い夜。激しい雨音が響く。海という海がすべて降り注いでいるのではないかと思うほどの大豪雨。

「お生まれになりました!」

 王はその知らせを、夜明けの風景とともに聞いた。続いていた荒天が嘘のように静かな空。さざ波が聞こえる。水平線の向こうに昇る太陽が見える。日に照らされた国が見える。
「終わったか」
「まだまだ、これからよ」
 安堵する王に、女王は言い切る。
「生まれて終わりじゃないのですよ。お分かりですか」
 女王は自分のことを思い出していた。そう、これからだ。自分から生まれたものとの波長が合うとは限らない。王は何も言えぬとばかりに、視線を彷徨わせたが、結局、男に出来ることは限られていると、これまた過ぎ去りし日々を思い出すと、嘆息を漏らす。
「国が傾かぬようにすることしか、私には出来ぬよ」
 女王に溜め息をつかれて、王はこそこそと部屋を出ることにした。

 小さな島国があった。海の魔女に護られたその国には、たくさんの妊婦が訪れた。魔女のために集められた薬草も医者も知識も魔法。そのすべてが島国の財産となった。海の魔女は今日も無事を祈る。生まれて来る子らの人生、その航海が穏やかで実り豊かなものでありますようにと、ただ祈る。傍らの娘とともに。

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