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相手が求めているものを与えられなくてもいい
すぐに落ち込んでしまう。すぐに疲れてしまう。それは、相手が求めているものに気づきすぎることが一因かもしれません。求めているものがあれば、与えたい。そう思うのが自然です。ただ、すべてを与えられるわけではありません。また、ほとんど与えられない。そんなことの方が多いともいえます。
相手が求めていることに気づきすぎることを責める必要はありません。むしろ、素晴らしい力といえます。ただ、その分、与えられないという事実をたくさん経験することとなります。そのため、つらくなったり、苦しくなったりするといえます。
自分が与えられるものが明らかになる
一方で、その経験があるからこそ、自分は何を与えられるのか。また、人々は、どんなことを必要としているのか。それをだんだん明確にすることができます。そして、自分ができることはこれだ、そう明らかになっていきます。つまり、自分の役割や居場所がはっきりとしていくのです。
与えられないことも善である
また、そもそも、自分が相手が求めているものすべてを与える必要もありません。仮にすべてを与えると、その人は、自立ができません。つまり、自立や成長を阻害しているともいえるのです。そして、他の頼り先を見つけることができません。自分が相手に急に与えられなくなったとき。その人は困るといえます。
そう考えると、与えることができればすべて善というわけではありません。与えられないことも善であるといえるのです。どちらにしても善であるため、過度に落ち込む必要はないといえます。
相手が求めているものを与えられない。そんなときは、相手の自立や成長に貢献した。そのように考えればよいといえます。それは言い過ぎとも思えるかもしれません。しかし、与えられなかったことで落胆している状況です。それくらい極端に考えることを積み重ねて心のバランスを取る。そのために、相手の自立や成長に貢献したと考えることは大事といえます。
自分なりの与え方が個性
また、必要なものに気づき、与えられた。そう思っても、相手が感謝するとは限りません。相手が与えてもらったことに気づかない場合もあるからです。むしろ、相手が不満を示す場合も多かったりするといえます。
そうした場合、ますます落ち込むかもしれません。たしかに、つらいことだからです。ただ、それは、与えられるか。それだけでなく、どう与えるかにも相性があるものである。それを示しているといえます。
そして、自分の与え方を責める必要はありません。自分なりの与え方、それこそが個性だからです。感謝どころか不満を言われる。それは、与え方と受け取り方の相性が良くなかっただけといえます。
相手が求める与え方で、与えられなくてもいい。そう考えることが大事です。その上で、自分の与え方の特徴を明確にする。そして、どういう人が自分の与え方を喜んでくれるのか。それを考えて明確にすると、より自分の役割や居場所が明らかになるといえます。
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