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秘された歴史 茨城という茨の城❷

前回の記事で古代の茨城には大和朝廷に反抗する民族が多く暮らしていたと書きました。

その代表となる神に天津甕星がいます。日立市の大甕神社で祀られています。
この天津甕星、日本神話の中で唯一の悪神とされる珍しい神で、
さらには日本神話がひた隠す、星の信仰を持つ神でもあります。

シュメールの天文学に始まり、世界各地で見られる天体配置の古代遺跡を見ると、
この島だけ星の信仰が全くなかったとはとても考えられません。

そこには、大和朝廷がどうしても隠したかった秘密がなにかあるのでしょう。

この天津甕星の系統をさかのぼると、出雲国風土記にとても興味深い女神が登場します。
天之甕津日女(アメノミカツヒメ)という女神です。
この女神は出雲王国成立にとても重要な役割を果たす女神です。

出雲国風土記によると意宇(おう)郡の条に
八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)という出雲王国の基礎を作った祖神が登場します。

この統治王は近隣諸国を自らの力で引き寄せ、小国であった出雲を大国にしたと伝わります。いわゆる国引き神話ですね。

僕はこの国引き神話の真相とは、初期出雲王権が、各国の女神と婚姻関係を結び、領土を広げていったと解釈します。

古代の世界においては、実質的な国のトップは女性祭司王でした。
邪馬台国もそうですね。女王卑弥呼です。だから男性統治王が大国を目指す際、有力な女性祭司王との婚姻関係は必要不可欠なものでした。

そしてこの八束水臣津野命の息子の皇后が天之甕津日女(アメノミカツヒメ)なのです。
つまり出雲が大国になることに協力した別の国の女性祭司王こそ天之甕津日女だったのです。

ではこの天甕津日女はどこの国の女神だったのか?

それについては尾張国風土記に興味深い逸文がのっています。

垂仁天皇の御子・品津別皇子が七歳になっても言葉を話さず 困っていたところ、
皇后の夢に、多具の国の神、阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)が出現し、
私を祀れば皇子は話すだろうと告げた。

この逸文からわかるとおり古代出雲が大国になる前に多具という国が存在し、
おそらくその国は星を信仰とする一族で、その女性祭司王が天之甕津日女であり、
その末裔が天津甕星となる。こんな仮説が成り立ちます。

平田篤胤によれば天津甕星は金星をあらわすと言及しています。シュメールで金星をあらわす神とは豊穣の女神イナンナです。

この謎多き多具の国。そしてその国の女神。シュメールと何か関連があるかもしれません。

多具の国とシュメールも深掘りしたいテーマですが、それはまた別の機会に。

僕が今回取り上げるのはあくまで茨城と古代出雲の関係です。
キーワードは甕と女神、そして多具の国です。

上記で述べてきたように天津甕星のルーツは確実に出雲にあります。
それがなぜ、茨城に存在し、かつその地で葬られたのか?

鹿島神宮の御祭神といえば武槌ですが、名前にが入っています。
鹿島神宮元宮司 東実氏は著書『鹿島神宮』の中で
古来、鹿島神宮の御神体とは鹿島の海底に沈んだ大甕であったと記述しています。そしてその大甕は豊前から来たと。

九州には甕神信仰が考古学で確認されています。九州の遺跡で発掘される甕棺(死者を甕に入れて埋葬する)などはその典型です。

現在、武甕槌は剣を象徴する武神とされていますが、本来は甕を神とする信仰であったようですね。
この島の歴史を鑑みるに、縄文、弥生とあれだけ土器を創っておいて、器を神聖視しないわけはありません。
むしろ名前に甕のつく神は、縄文由来の古くから信仰されていた神だと僕は考察します。

また、九州には甕神信仰の伝承が他にも残っています。

筑後国風土記によると、

昔、筑前筑後の国境に荒ぶる神がいて通行人の半分は死んでいた。
そこで筑紫君等の先祖である甕依姫を祭司としてまつらせたところ、
これより以降は通行人に荒ぶる神の被害がなくなったという

ここでも甕を信仰する女神が登場します。先述した天之甕津日女も甕を名に持つ女神です。

では九州にあった甕神信仰を、誰が茨城に持ってきたのか?

鹿島神宮といえば中臣氏が祭司を司っていたとされますが、それ以前に祭司を担当していた多氏という一族がいます。この多氏が九州、伊都国の出身です。

伊都国とは現在の福岡県糸島市に比定されています。古代、この付近で信仰されていた甕神信仰を多氏が鹿島に持ってきたと僕は考えています。

茨城県潮来市に大生神社(おおうじんじゃ)という小さな社がありますがここは元鹿島と呼ばれます。つまり鹿島神宮の元となった神社です。
もちろん名前のとおり多氏ゆかりの神社です。

そしてこの多氏の祖とされるのが神八井耳(カムヤイミミ)
系図では神武天皇の息子です。弟に皇位を譲り、
自分は祭司を担当することになりました。

僕はこの名前につく耳と、皇位につかず祭司を担当したというところに注目します。
耳とは祭司を司るシャーマンにおいて神の声を聞くうえでとても重要な器官です。

琉球神道における最高神女(ノロ)のことを聞得大王(きこえのおおきみ)と言いますが、聞くという行為が祭司担当者にとっては必須なのです。

その耳という重要な器官を名に持つ神八井耳とは天之甕津日女のシャーマン性と深く繋がる存在ではないかと考察しています。
だから子孫の多氏はその甕神信仰と祭司を継承したと。

甕とは多くの神話で聖杯、つまり子宮を象徴します。
甕が本来あらわすのは女性性であり、
その点で言えば武甕槌も本来女神だったのではないかとも思います。

そして最後のキーワード多具の国

これは名前の通り、のちの多氏となる一族が住んでいた国だったのではないかと。

つまり多具の国は北九州にあったと考えています。

新撰姓氏録によればカミムスビの子に多久都玉命という神がいますが
この神も多具の国、そして多氏に関係しそうです。
多氏は甕もそうですが、玉もおおいに重要視していました。

古事記では多氏の祖、神八井耳の祖母が玉依姫、叔母が豊玉姫とされています。
故に多坐弥志理都比古神社では玉依姫も祀っています

ここまで天之甕津日女と多氏の関連性を述べてきましたが本題に移ります。
それがどう、茨城とリンクするのか?

天津甕星つまり日本神話で唯一の悪神とされる神。冒頭でこの悪神は日立で葬られたと書きました。

日立の民話では、他のまつろわぬ神すべてを平定した武甕槌でさえ、天津甕星には敵わなかったとあります。

日本書紀でも武甕槌と経津主は他のまつろわぬ神すべてを平定したのに、なぜか最後の天津甕星の時だけタケハヅチという別の神を派遣させ、服従させます。

出雲を国ごと譲らせた武甕槌は、なぜ天津甕星という一人の神を討てなかったのか?  

その謎について、僕はこんな考察を持っています。

それは武甕槌も天津甕星も、もともと同族だったからではないのかと。

鹿島神宮の項で触れましたが、本来武甕槌とは多氏の神です。
そして多氏の系譜を遡り、それが天之甕津日女に辿り着くとするならば、
途中で枝分かれする天之甕津日女の末裔に天津甕星が登場します。

茨城の太平洋沿岸部には多氏ゆかりの土地が数多く存在します。
天津甕星がなぜ日立を本拠としたのか?
それは彼も多氏の系譜だったからではないでしょうか?

武甕槌と天津甕星。どちらも神名に甕を持ちます。
九州から東国常陸に甕神信仰を持ち込んだ二つの多氏。

道は途中で別れてしまったけれど、最後に剣を交えることは、
同族のよしみとしてお互いにできなかったのではないでしょうか?

そうしてタケハヅチが派遣され、一方の多氏は葬られ、
残る多氏もやがて中臣氏によりその祭司権を奪われます。

こうして星の信仰、そして甕の信仰は秘匿とされて現在に至ります。

天之甕津日女。太古の信仰を封印した茨の城で、
その茨がほどかれる時が来るのでしょうか?

案外僕は、その日が近いんじゃないかと期待を込めて邪推しております。







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