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イスラエルと共にあの時の皆を想う

先日の成人式だけでなく、様々なことに我慢の日々が続きます。私はその昔、部活動にしか熱心でなかった学生生活を送っていたため、授業以外の活動にも多々制約のあるいまの中高生、大学生のことを想像しては、何とも言えない思いでいます。

数年前の夏、プロテスタント系中学校3年の生徒さんとのカナダ研修に添乗する機会がありました。それからあっという間に5年がたち、今年成人式を迎えられました。

あれからもう会うことはなかったけれど、その後どう成長されたかな、今年どんな思いで成人式を迎えられたかな、と思いながら、先日の成人の日の一日をすごしていました。

いつも思い出す曲「鹿のように」

彼らとの2週間に思いを馳せるとき、いつもある歌を思い出します。毎日まず朝の礼拝をおこなってから授業が開始されたのですが、その際たびたび歌ったのが、讃美歌「鹿のように(As the deer)」でした。

プロテスタントの讃美歌とカトリックの聖歌は違うため、私はその歌のメロディーを初めて耳にしましたが、歌詞を以下にご紹介します。

鹿のように(As the deer)
谷川のながれをしたう鹿のように
主よ わがたましい あなたをしたう
あなたこそわがたて あなたこそわが力
あなたこそわがのぞみ われは主をあおぐ

あれ?この歌詞どこかで…そうなんです、これは、カトリックだと典礼聖歌集の「谷川の水を求めて」を思い出しますよね。

谷川の水を求めて
谷川の水を求めて あえぎさまよう鹿のように
神よ 私はあなたをしたう
わたしのこころはあなたを求め 神のいのちをあこがれる
わたしが行ってみ前にいたり み顔をあおげる日はいつか
わたしは日夜神を問われて 明け暮れ涙を食物とする
谷川の水を求めて あえぎさまよう鹿のように
神よ 私はあなたをしたう

この聖歌は詩編42章から来ていますが、「鹿のように」の歌詞もおそらく同じ箇所がもとになっているのだと思います。

曲の印象がここまで変わるとは

さて、この「谷川の水を求めて」は、私がイスラエルに行く前と行った後で、もっとも印象がかわった象徴的な歌でもあります。

イスラエルに行く前、この聖歌を、緑豊かな野原にキラキラとした太陽のもと、きれいな川がながれていて、そこに鹿が水を飲みに来るような、まるでちょっとディズニーの世界のような光景を思い描いながら歌っていました。

ところが実際にイスラエルに行ってみて、歌詞にある「あえぐ」という箇所をすっかり見落としていたことに気づかされました。

年間数十ミリしか降らない砂漠の中で、水をもとめる鹿。光にあたって水がキラキラ輝いているような川などありません。雨水が時々鉄砲水になり川になる「涸れ谷」は、一年のほとんどは水は流れていません。一滴の水を求めてまさにあえぎさまよう鹿や動物たち。植物は、地中深くの水を吸い上げ葉を広げ、たくましく生き抜く自然の姿がそこここにありました。

その光景を体感してから、この歌に持つ印象は180度変わりました。この聖歌をミサで歌うたびにイスラエルの自然の姿を目の前に思い浮かべ、この「あえぎさまよう鹿のように神をしたう」という言葉の持つ意味を、心の中で繰り返し問いかけていました。

世界中で歌われる「鹿のように」

讃美歌「鹿のように(As the deer)」は世界中で同じメロディーで歌われ、多くの人から慕われている曲のようです。(とてもきれいな歌なので、ぜひYOUTUBEなどで調べてみてください!)私はカナダ研修後すっかりこの歌が気に入ってしまいました。そしてその後のイスラエル添乗時では、砂漠の光景を目にするたび、「谷川の水を求めて」と同時に「鹿のように」のメロディーも頭の中に流れ、成長しただろう彼らのことも時折思い出すようになっていました。

これから先もそんな思考のループが永遠に繰り返されていくのかもしれません。でもそれは私にとって、とても幸せなループでもあるなあと、今でもよく思うのです。

(写真はイスラエルのネゲブ砂漠にあるラモーンクレーター)


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