父と自分は親子だが、別人格

 今年のお盆期間中の、8月14日、父の新盆だったこともあり、鎌倉霊園に墓参りに行ってきた。父は昨年の9月13日に82歳で亡くなった。ちょうど僕とは24歳違い、ぼくが58歳の誕生日の9日前だった。その2年ぐらい前に下咽頭癌が見つかり治療を続けてきたが、最後は自宅で旅立っていった。
 PaPa、子供のころから僕は父のことをパパと呼んで、それは大人になっても変わらなかった。さすがに他人の前では「おやじ」「父」と呼んでいたが、家族、実家に帰ると「パパ」と呼んでいた。とは言っても、見た目、パパという感じの人ではなく、むしろ「お父さん」という方がイメージには合っていたと思う。決して面白い人ではなく、そう、昭和の人という感じであった。僕も昭和生まれだが。転勤の多い会社に勤めていたので、僕ら家族も、全国を転々とした。最初の赴任地の広島で僕は生まれたが、そのあとは四国愛媛県の松山市へ。松山は僕は幼稚園年少から小学校5年までいたが、そのあとは秋田県秋田市へ。そこに3年、そのあとは宮城県仙台市へ。ちょうど、宮城県沖地震がおきた1978年だった。地震が起きたのが6月だったと思うが、その2ヶ月後に仙台市内のアパートに引っ越してきたのだが、地震の影響で工期が遅れ、最初の数日はホテル暮らしだったと覚えている、僕が中学2年の時だ。そのあとも転勤は続き、僕が浪人中の1984年に、ようやく?東京本社(渋谷)へ父は異動した。
 父は、休みの日は遊んでくれて、小さい頃はキャッチボール、そして小学校になると時々釣りにも一緒にいった。家には車がなかったのでいつも遊びに行く時は自転車でよく行った。釣りも、秋田の頃は、1時間以上もチャリで行ってきた。頭の良い、勉強ができる父で、僕は塾は通ったことはないのだが、父がいつも勉強を見てくれた。残念ながら、東大出身の父の頭の良さは、僕には遺伝はしなかったようだが。
 父の仕事はジャーナリスト、放送記者だった。最後はプロデューサーなども勤め、深夜のニュース番組のプロデューサーなどもしていた。子供ながらに、父が記者として追いかけていたことはよく覚えている。四国の頃は、レ本州、四国の橋についてよく取材、出張に行っていた。秋田では、なんだろう、大潟村の減反政策、粉塵。仙台では、原子力船むつ、体外受精のことなど、東北の光と陰、をジャーナリストとして取材していた。
 その父に憧れたのもあったのか、身近だったので、僕も高校生の頃からマスコミで働くことを目指していて、大学4年、就職活動ではテレビ局、新聞社なども受験したが、結局ダメだった。父の会社ならば、入れたかもしれないが、父も「親子で働くところじゃない」と言い、対応してくれた人事部長が、いまでも覚えているがとても感じ悪い人で、僕もやめた。僕は大学卒業してアパレルメーカー、外資系アパレルメーカーなどで営業として働き、いまの会社で広報担当として、20年以上のキャリアを務めることになった。今の会社に入ってしばらくして、そこの顧客に父の会社もあることに驚いた。まったくそれは偶然で。でも、ある時、友人の妹さんから、「結局、映像・放送に関連する世界で働いていらっしゃるんですね」と言われたことが、当時、とてもびっくりしたことを今でも覚えている。
 そんな父なのだが、なくなり1年が経ち、ふと思うことがある。それは、あれだけ色々な事件、出来事を取材していたら、自分ではどう思っていたのか、それを世の中に、自分では残そうと思わなったのか、ということだ。1年たち、父親が随筆とか、記録とか、残しているというのは見つかっていない。でも、子供の頃、父から時々取材したことなどについて話を聞かされたこと、もしかしたら僕が子供だからということで、わからないだろうと、しゃべっていたことを、実はぼくはよく覚えている。「これは、残念ながら世の中には出せないけどな」などということを。家にいれば読書、レコード、コーヒー、タバコ、酒、そしてパチンコの姿を今でも目に浮かぶ父なのだが、本当のところ何を思い、晩年を生きてきたのか、直接パパと話したかった。僕は、父が取材で知り得た事実を、記録として残して欲しかった。
 多分、取材して、ほんとはもっと伝えたかったことがあるはずなので、それを会社の方針もあり断念したこともあったと思う。それを、父はどうやって、自分の中で昇華していたのだろうか。局では最後は北海道の地方局の局長を勤め、サラリーマンとしては上に登りつとめたと思う。でも、父はそれで良かったのだろうか。幼稚園の頃、お風呂に入ると「学生の頃はデモに参加して、警察とやり合ったこともあった」なんて自慢話を聞かされた。また、会社でも、若い頃は組合活動を一生懸命やって、それで睨まれて、なんてことも聞かされた。でも、結局、最後はサラリーマンとして上に上り詰め、家の中では世の中を批判すること言っていても、行動には移そうとしていない。
 もっとも、父からすれば、僕はもっと、普通の人になって、世の中を批判もしない人間だ、と父の目には映っていたのかもしれない。最初の会社を8年でやめて外資系に転職する際も父は「理解できない」と言っていたし、今の会社にきたときも、それほど喜んでいなかったかな。もっとも今の会社に10年ぐらい勤めて、広報の仕事や、海外出張などの話もしたら、喜んでくれていた。
 父と息子といっても、育った環境は全く違うし、時代も違うから、価値観、考え方が違うのは当たり前なんだよな、と改めて思う。もう父はこの世にいないので、直接言葉を交わすことも二度とない。父が生きているうちに、父が知っていること、父が考えていることを聞いていたら、すこし違ったかもしれない。でも、父の考え方、話を聞いたら、自分との違いがますます広がって、嫌になっていた、かもしれない。
 父は、向こうで何しているのだろう。ひょっとして今頃になって、ノンフィクションでも書いているかな。まだ、僕はしばらくはそちらに行く予定はないけど。いつか読ませてください。


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