100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』の感想

1oo分de名著の『偶然性・アイロニー・連帯』を見ました。以前、100分de名著の『ディスタンクシオン』を見たときは、YouTubeで同じ本の紹介をされている、「帰ってきたロシュフコー」という方の動画の方がわかりやすくて、この本もその方が解説されている動画も見ましたが、『偶然性・アイロニー・連帯』は100分de名著の方が良いところを切り抜いている感じがしてわかりやすかったです。

全4回に分かれており、以下の構成になっています。
第1回 近代哲学を葬り去った男
第2回 「公私混同」はなぜ悪い?
第3回 言語は虐殺さえ引き起こす
第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!

それぞれの回の概要に関しては、このサイトに詳しく書いてありました。


全体的に、とてもいい内容でした。わたしが気になっているテーマな上に、どうすればいいのか適切な答えを示してくれていそうでした。社会のみんなが他人を思いやれるようになるにはどうすればいいか知りたくて、そのヒントを期待して、C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』を読みましたが、ここでは社会学批判の内容が多くて私の知りたいことはあまり触れられていませんでした。東浩紀『訂正可能性の哲学』には、わたしが知りたかった内容があって、ローティの内容に近いと聞いていました。そのローティの思想の一部を理解できてよかったです。

リベラル・アイロニストとは、
リベラル:私たちの社会の「残酷さ」を減らしていくことが最も重要だと考える人
アイロニスト:自己の偶然性を認識し、自分が正しいと信じていることも、いつか訂正されうると考える人
という定義らしくて、みんなこれを目指すべきだなと思いました。

正しいと思えることはいつでも変わりうるし、自分はこういう育ちでこういう信念を持っているけど、違う立場なら違うふうに考えるよなあと思える人はアイロニストであって、そういう考え方が自由で創造的な生き方につながると言います。

また、公共的なものと私的なものを区別すべき、と言います。公共空間は建前を使うような、気を遣わないといけないような場で、私的空間とは、同じような人が集まってきて安心して話せる場です。私的空間は言いたいことが言える場ではあるけれども、限度を超えた差別的な発言も出てしまうかもしれない。親密な空間だからこそ、本音で喋って自分を変更に開ける自己創造の可能性がある場所でもある。それは私的な空間だからこそできることだと言います。

番組では一つの例として、政治家が私的な場で不適切な発言をした際には、その政治家がそういう考え方を持つこと自体には問題はない、と言います。「心の底から考え方を変えさせねばならない」と批判すること自体が窮屈さを生む、と。私個人の考え方としては、言ってる内容はよくわかるけど、みんなが正しい(とされる)考えを話すのがいいのでは…とも思いますが、私の想定している内容が差別的な発言とか、そういうのばかりだからかもしれません。たしかにちょっとした考え方の違い?みたいなことなら、全然いいのかも。

その後、公と私の矛盾を乗り越えるための理想像として、前述のリベラル・アイロニストという定義が出ます。私的な趣味の追求や相手が大事にしていることは一歩一線を引きながらも、残酷な状況に対しては一緒に手を携えて、介入をして残酷な状況を解消しようとする、というのがリベラルアイロニストに託された構想だといいます。

第3回では「われわれ」と「やつら」と線引きする言葉遣いの区別が本質的な違いなのか考えてしまうことが非人間化を生み出してしまい、人権が機能しなくなってしまう、人権の適用外となってしまう、という話がルワンダ紛争の話を例に紹介されていました。その上で、私たちはどうやったら連帯が可能なのか、残酷さを減らすことができるのかを第4回で紹介しています。

以前の日記でも書いていましたが、『人間の測りまちがい』という本に、進化論登場以前には科学的人種差別論の一説として、それぞれの人種は生物学的に別個に創造された種であり、黒人は人間とは違う別の生物なのだから、「人間の平等性」にかかわる必要などないという論者もいたと書かれていました。これも、人間の本質を限定することによって非人間化を生み出してしまい、残酷な結果になる例だと思いました。まさに番組内でも言及されていましたが、基本的人権を提唱したトマス・ジェファソンは大量の奴隷を抱えており、平気で非人道的なことも行っていた人だったといいます。そんなんなら人権という言葉はなくなったほうがましかもしれないと思ってしまいました。

どうすれば連帯が可能か、ということについてローティは犠牲者への共感を育むことが大事だといいます。そして、犠牲者は語ることができないので、彼らの声は詩人、ジャーナリストや小説家によって表現されなければならないと言われています。読んだ人が犠牲者への共感を抱くためには、実証的な理論ではなく、感情に訴える方がより機能を果たすと考え、それを感情教育を呼びました。そして、のちに以下のように述べました。

「人間は他の動物よりも(知性や尊厳を持つというのではなく)はるかによく感情を理解しあうことができる」と言うべきです。…そうすれば、自分たちの持てる力を感情のコントロールに、つまり感情教育に注ぐことができるからです。
この感情教育の目標は、「私たちの同類」とか「私たちのような人たち」という言葉の指示対象を広げることにあります。

『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』


私は以前にバートランド・ラッセル『教育論』を読んで、感想にも書いていましたが、似たような内容のところがありました。

望ましい形の感受性が発達する次の段階は、共感である。もっぱら身体的な共感もある。たとえば、ごく幼い子供は、兄や姉が泣いていれば自分も泣き出す。これこそ、さらなる発達の基礎になるのだと思われる。 必要なのは、これを二つの方向へ拡大することだ。第一は、苦しんでいる人が特別な愛情の対象でない場合でも共感を覚えること。第二は、その苦しみが感覚でとらえられる形では存在していなくても、 いま起こっているのだと知るだけで共感を覚えることである。この拡大の二番目のものは、多分に知性に依存する。それは、たとえば、すぐれた小説の中で生き生きと感動的に描かれている苦しみには共感するという程度にとどまるかもしれないし、反対に、統計を見ただけでも心を動かされるという程度まで伸びるかもしれない。このような抽象的に共感する能力は、貴重であるとともに、まれである。

『ラッセル教育論』安藤貞雄、1990年、岩波書店、70-72頁

ローティは実際に文学が社会を変えた例として『アンクル・トムの小屋』を挙げています。奴隷制度に翻弄されるアメリカの黒人の悲惨な境遇を描いた小説です。これが大きな世論を喚起し、奴隷開放の機運ができたそうです。
『阿Q正伝』を書いた魯迅も、中国人民の精神を啓発するために文筆を始めた、と以前聞きました。
他人の苦痛などを理解するには理論ではなくシンパシーが大事で、感情がついてこないと理論が機能しないと述べられています。

番組内で伊集院さんが、理論として分析することは、しょうがないということに近いと述べられていて、解説役の朱喜哲さんは、理論的な分析は現状の構造を分析するのである意味ではすごく残酷、「こうなった必然性」とは本当にその時必要なのか?それは苦痛の叫びに対して何も返してあげられない、と言われます。たまにネットの記事とかを見ていて、社会の悲惨な状況の分析みたいな記事に対する違和感がよくわかりました。

また、ローティはウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』を例に挙げ、文学によって自分の内側にある残酷さに目を向けることができると論じました。

これも以前日記で言及していた内容なのですが、チェーホフの戯曲『三人姉妹』に以下の情景があります。

アンフィーサ (ぐったりして) オリガお嬢さん、お願いです、あたしを追い出さないでください。追っ払わないでくださいまし。

オリガ なにバカなことを言ってんの。誰もあなたを追い出しやしないわ。

アンフィーサ (オリガの胸に頭をあずけて) オリガさん、大事な大事なオリガさん、あたし、骨身も惜しまず働いとります、仕事をしとります......。 めっきり体が弱くなったもんで、みんなしてこのばあやに、とっとと出ていけと言いなさる。でも、どこ行きゃいいんです? どこに行けます? 八十になって。数えで言や、八十と二つのこの婆さんに・・・・・・。

オリガ ちょっと座ってたら、ね、ばあや......。 疲れたのね、かわいそうに......。(相手を座らせる) ちょっと休んでらっしゃい。 その顔色ったらないわ!

ナターシャ、登場。

ナターシャ  (冷たくアンフィーサに)あたしの前で、よくもまあいけしゃあしゃあと座り込んでいられるもんだ!お立ちよ!とっととお行き!

アンフィーサ退場。間。

それにしたって、なんであんな年寄り置いとくの、料簡が知れないわ!

オリガ (面食らって)ごめんなさい、私にも分からないの….....。

ナターシャ ここに居たってなんの役にも立たないし。百姓なんだから村で暮らしゃいいのよ…..……。甘やかしすぎよ! あたし、家のなかはきちんとしていたいの。 余計な人間は必要ないの。 (オリガの頬をなでる) かわいそうに、疲れてるのね! うちの校長先生はお疲れね! うちのソーフォチカが大きくなって中学校に上がったら、あたし、きっとあなたにビクビクするんだわ。

オリガ 私、校長になんかなりませんっ。

ナターシャ そんなこと言ったって、白羽の矢が立つに決まってるんだから。仕方ないわよ。

オリガ お断りします。できないわ、私には......。 そんなこと、私の身にはそぐわないし……。(水を飲む)さっきあなた、ばあやにとってもきつく当たったでしょ……。私、そういうの、耐えられないの……目の前が真っ暗になったほど……。

ナターシャ (気をもんで)ごめんなさい、ごめんなさいね……。あなたにつらい思いをさせる気 なんてなかったの。

オリガ 分かってもらえるかしら…..… 私たち、ひょっとしたら、育てられ方が変だったかもしれないけれど、私、ああいうの耐えられないの。ああいう仕打ちを見ていると胸が締めつけられるようで、気が遠くなるの……。ただもう、滅入ってしまうの!

ナターシャ ごめんなさい、ほんとごめんなさいね......。 (オリガにキスする)

オリガ それがどんなささいなことでも、 乱暴な振る舞いや、繊細さを欠いた言葉を目にしたり耳にすると、はらはらどきどきしてくるの......。

ナターシャ あたし、しょっちゅう余計なおしゃべりしてるでしょ、それはほんとにそう。 でもね、あのばあやなら、村で暮らせるはずよ、そうでしょう。

オリガ でももう三十年もうちにいるのよ。

ナターシャ でも、今じゃ仕事もできないじゃない! あたしが唐変木なのか、それともあなたが聞く耳持たないのかしれないけれど、 あのばあや、もう仕事なんかできやしないのよ。 寝ているか座り込んでじっとしてるだけ。

オリガ 好きなようにさせておけば。

ナターシャ (驚いたように) 好きなようにさせとくですって? でも、あれは使用人じゃないの。(涙声で)あたし、あなたの言うこと分かんない。 子供たちには子守もいれば乳母もいる、それにうちには小間使いや料理女だっている・・・・・・この上、どうして年取った婆さんまで抱え込まなきゃならないのよ? ね、どうして?

舞台裏で半鐘を打つ音。

オリガ 今夜ひと晩で、私十歳も老け込んだ気がする。

ナターシャ ちゃんと話をつけとく必要があるわね。 きっぱりと......。 あなたは中学校で忙しいし、あたしは家事で精いっぱい。 あなたの仕事は教えることだし、あたしは家のやり繰り。 使用人のことであたしがとやかく言うにしても、あたし、ことの分別は心得てます。 こ・こ・ろ・え・て・ま・す・よ。明日にはあの厄介者を叩き出してちょうだい、あの老いぼれのことよ・・・・・・。(足を踏み鳴らして)いいこと、あの婆さんを叩き出すの。あたしを怒らせるんじゃないわよ、いいわね!(はっとわれに返って) ほんと、あなたが階下に移ってくれないと、あたしたち、しじゅういがみ合っていることになるわ。もう、やってらんない。

チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』光文社古典新訳文庫p233-236

私はこのシーンで、オリガの言っていることがよく理解でき、共感しましたが、(この本の感想にはナターシャはヒステリックだと書かれたりしていましたが)ナターシャのような人も世の中にはいるのではと思いました。有用性という点で人を判断し、排除しようとする・・・。わたしが逆の立場なのも、理論的にうまく説明できませんが、オリガのセリフや態度が、ナターシャのような人に対抗する態度であって、そういう考え方の人も、これを読むと自分の残酷性などにも客観視できて目を向けられるのかもしれないと思いました。

番組の最後に、以下の引用があります。

むしろ、連帯とは、伝統的な差異(種族、人種、習慣、その他違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』岩波書店、2000年、 齋藤 純一 訳 , 山岡 龍一 訳 , 大川 正彦 訳


アメリカの白人層はグローバリゼーションが進んだ時代、「われわれ」から外されていったと言及されます。これ、The SmithsのStill illという曲の和訳と解説を載せてくれているサイトがあるのですが、そこでも似たような内容を見たな、と思いました。

この曲は「英国病」と「サッチャリズム」を意識したうえで聞くと、俄然意味が深いものになります。

参考:wikipedia 英国病

英国病(イギリス病)とは、手厚い社会保障や国有企業の肥大化、激しい累進課税制度(最高税率98%!)などによって生じた、国民の労働意欲低下、社会保障費の増大、ストライキの頻発といったイギリス経済の諸問題を指します。これにより1960年代から70年代において、イギリスは経済不振に陥り「ヨーロッパの病人」と呼ばれるようになってしまいました。

そんなイギリスの立て直しを目指し、強硬な財政改革に乗り出したのが「鉄の女」と呼ばれるサッチャー首相であり、その経済政策(サッチャリズム) です。
サッチャリズムは(強者を生かし弱者を切り捨てる形で)、英国病の克服に一定の成果を上げましたが、所得格差や失業率の増加などの問題を進行させ、称賛と非難が入り混じるかたちとなりました。

労働者や失業者側(ザ・スミスの側) にとっては、目の敵のような存在だったと言えます。

Still Ill」とは、英国病(ill)から回復したイギリスにおいて、サッチャリズムによって切り捨てられた人々を指している、とも読み取れます。

https://lyriclist.mrshll129.com/thesmiths-still-ill/


結論として、(こんな単純ではないですが)残酷さを取り去るのを優先度高くして、会話を続けていくことが大事だということでした。

残酷さを減らして、「われわれ」を拡張して、共感して連帯する・・・みたいなのはまさにわたしが知りたかったことでした。前から思ってたことですが、やっぱり社会を変えるためにも小説書けるようになりたいと思いました。何人かの知人が、世の中にいるわかってくれない人を変えなくても、わかってくれる・自分と同じような少数の人と社会を作ればいいと言っていましたが、わたしはできればみんながある程度…それこそローティの言う、他のことはいいけど残酷さに対しては抗えるように理解し合える程度に連帯し合って過ごせるようになりたいなと思います。ヤフーニュースのコメントとか、YouTubeのコメント欄とか民度低いと言われていますが、そもそも日本人自体が民度低いらしいです。先進国の中で日本はボランティアやっている人も少ないし、なんていうか忘れたけどお金持ちの人がやる慈善活動も日本はかなり少ないらしいです。ネットの民度、あれだけが低いみたいなわけではなくて、あれに国民の大多数のすべてが集約されてるといっても…。コメントの内容とか結構真に受けますが、たとえば「不登校は自己責任・親だけの責任だ」とかそんな偏狭な考え方の人がたくさんいる社会で過ごしたくないなって思いました(だいたいのことに関して当事者でない・何も知らない人が厳しいことだけを言っている)。だからできれば変えたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?