チャールズ・ライト・ミルズ『社会学的想像力』感想1(陽気なロボット)

チャールズ・ライト・ミルズの『社会学的想像力』の感想を書きます。難しいけどいい本でした。社会学の手法や意義などが書かれています。ぜひ読んでいただければと思うので、第1章の1節の一部から紹介しようと思います。

こんにち、自分の私的生活は罠の連なりなのではないかという感覚に、人はしばしば囚われる。彼らは、日常的な世界のなかだけでは自分たちの問題を解決できないと感じている。そう感じてしまうのは、たいていの場合まったく理にかなったことである。普通の人が直接に見たり聞いたりしていることや、行おうとしていることは、個人の生活圏を超えることはない。彼らの視野や能力が及ぶのは、仕事や家族、近隣といったクローズアップされた場面に限られるのであって、他者の生活圏については、自分と重ねてみることはあるものの、あくまで傍観者としての分を守る。たとえ漠然としたものであっても、自分の手が届く範囲を超えるような企みや脅威に気づけば気づくほど、ますます罠にはめられたように感じるようになっていく。 こういった感覚の根底には、一見したところでは自分と関わりがあるとは思えないアメリカ全土にわたる社会構造そのものの変動がある。
…(中略)…
個人の生も、社会の歴史も、そのどちらも熟知していなければ、それぞれを理解することはできない。 そうはいっても、人々は普通、自分たちが抱えこんでいるトラブルを、歴史的変動や制度矛盾といった観点から捉えようとはしない。また、享受している幸福について、自分たちが暮らしている社会全体の大きな浮き沈みに関わるものだとは考えない。普通の人々は、自分たちひとりひとりの生活パターンと世界史の流れとの間に複雑なつながりがあることにほとんど気づかない。両者のつながりは、人々がどんな人間になってゆくか、そしてどんな歴史形成に参加することになるかということに対して何かしらの意味をもっている。だが普通の人はいつもそれに気づくわけではない。彼らには、人間と社会、個人史と歴史、自己と世界の関わり合いを理解するうえできわめて大切な思考力が欠けているのだ。個人的なトラブルにうまく対処するには、その背後でひそかに進行している構造的転換をコントロールする必要がある。
…(中略)…
どんどん拡大していく世界にいきなり直面することになったごく普通の人々が、こんなものときちんと向き合うことはできない、と感じてしまうのは当たり前のことではないだろうか。自分たちの人生に対して自分たちの時代がもつ意味を、彼らが理解できなかったとしても、自分自身を守るために道徳感覚を麻痺させ、完全に私的な世界にとどまろうとしたとしても、あるいは、罠にはまってしまったような感覚に囚われたとしても、それは無理もないことではないだろうか。 こうした人々にとって必要なのは、情報だけではない。今日のような「事実偏重の時代」においては、情報がしばしば人々の注意を支配してしまい、それを取り込む人々の能力を圧倒してしまう。彼らに必要なのは物事を分別する技術だけでもない。とはいえ彼らはしばしば、そうした技術を手に入れようと懸命にあがき、自らのかぎりある道徳的な活力をすり減らしているのであるが。 人々が必要としているもの、あるいは必要だと感じているものとは、一方で、世界でいま何が起こっているのかを、他方で、彼ら自身のなかで何が起こりうるのかを、わかりやすく概観できるように情報を使いこなし、判断力を磨く手助けをしてくれるような思考力である。こうした力こそが、ジャーナリストや研究者、芸術家や公衆、科学者や編集者が切望しているものであり、社会学的想像力とでも呼ぶべきものである。本書は、まさにそれを論じようとしている。

1 社会学的想像力の効用──三つの問いかけ
社会学的想像力を手にした人は、より大局的な歴史的場面を、個人ひとりひとりの内的な精神生活や外的な職業経歴にとってそれがどのような意味をもっているのか考えることを通じて、理解することができる。また、それは日々の錯綜した経験のなかで、個々人が自分たちの社会的立場をどのようにしてしばしば見誤ってしまうかを説明してくれる。まさにそうした錯綜のなかでこそ、現代社会の枠組は探求されるし、まさにそうした枠組のなかでこそ、色々な人々の心理も定式化される。こうした作業を行うことにより、ひとりひとりの個人が抱える不安は、私的問題としてはっきりと焦点が合わせられるようになり、公衆の無関心も、公的問題に対する積極的な関与へと変わっていくことになる。 このように想像力を働かせることで、まず自己省察のアイディアを得ることができる。個人は、時代状況のなかに自分自身を位置づけることによってはじめて、自分固有の経験とは何かを理解し、その行く末を見定めることができるようになる。また、まわりにいるすべての個人のもつ可能性を認識することによってはじめて、人は自分の可能性を知ることができる。
…(中略)…
社会学的想像力とは、こうした自己意識の最も実りあるかたちである。社会学的想像力を用いることで、それまで限られた範囲をなぞりかえしてばかりいたような人が、見慣れたものと思っていた家のなかで突然目覚めたように感じることはしばしばある。正確かどうかはさておくとして、多くの場合、そういったとき彼らは、自分自身でしっかり総括し、じっくり評価判断を行い、見通しのきいた方向づけを与えることができると感じられるようになっている。かつてはゆるぎないものと思えていたこれまでの判断が、今ではなんとも説明のつけようもない淀んだ思考の産物のように思えてくる。物事に驚く力が、いきいきとよみがえる。彼らは新しい思考法を身に付け、いわば価値の転換を経験している。つまり、省察する力と感じ取る力とによって、彼らは社会科学の文化的意味を理解するのだ。

C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』、2017年、伊奈 正人 翻訳、中村 好孝 翻訳


感想というか、もはやここに書いてあることがわたしの言いたかったことなのでこれがそのまま広まってくれればいいなと思います。いまもですが、昔(18歳くらい)からうつで、それは完全に私的問題であって、社会のこととは一切関係がないと思っていました。というか、そんなこと考えもしませんでした。でもあるとき、自分の抱えている問題は、完全ではないにしても社会の問題と関係があるとわかって、ものの考え方がかなり変わっていきました。「社会学的想像力を用いることで、それまで限られた範囲をなぞりかえしてばかりいたような人が、見慣れたものと思っていた家のなかで突然目覚めたように感じることはしばしばある。」とありますが、まさにこのようなことが起こりました。こういうことを知ってから、文化、美術、音楽、文学などに触れるようになりましたが、こういう土台があったからこそ色んなことを理解しやすくなったのかもしれないと思います。

第9章理性と自由について にも示唆に富むことが書かれていました。

個人の観点からは、出来事の大半は、操作、管理、無目的な漂流の結果のように見える。権威はあからさまでないことが多い。しばしば権力者は、権力を明示して正当化する必要を感じていない。それが、普通の人が私的問題に陥ったときや公的問題に直面していると感じたときに、思考や行動の明確な目標をもてない理由の一つである。普通の人は、自分のものとしてぼんやり認識している価値を危うくしているものは何なのか、見定めることができない。このような合理化という支配的趨勢の影響を考えれば、個人は「最善を尽くして」はいる。彼は目標や仕事を、置かれている状況に合わせるが、出口を見出せない。やがて彼は出口を探さなくなる。状況適応するのである。仕事をした後に残された生活を使って、彼は遊び、消費し、「楽しむ」。しかしこの消費領域も合理化されつつある。生産から疎外され、仕事から疎外され、消費からも疎外され、真の余暇からも疎外される。このように個人が適応し、それが生活圏や自己にも影響すると、その結果、彼の機会が失われて、当然の成り行きとして、理性的に考える力や意志が失われる。そしてそれだけではなく、自由な人間として行為する機会や能力にも影響する。さらに言えば、彼は自由という価値も理性という価値も知らないように思われる。

同書、

わたしは日本人しか知らないので日本人のことになりますが、普段見聞きする人でこういう人って結構いるよなと思いました。これが書かれている前の節でも、組織の中で働く労働者(技術者)はその中では合理的でしっかり仕事をこなす人物ではあるけども、社会の中では必ずしもそうではないし、自分のいる組織がどういうものであるかも理解していないみたいなことが書かれていたような気がします。仕事がしんどくて物価も高くて給与も上がらないけど、国に問題があるとは考えず、ひたすら自己研鑽に励んだり、どうしようもないと思われる今ある状況で「楽しもう」とします。そういった「自由と理性のない」人びとは「陽気なロボット」とここでは定義されます。

この陽気なロボットという人間が隆盛をきわめる社会は、自由な社会―あるいは言葉の文字通りの素直な意味における民主的社会とは正反対である。こうした人間の出現は、私的問題としての、公的問題としての、そして願わくは社会科学者にとっての問題としての、自由を示している。個人の私的問題―その観点と価値に個人は不安を抱えてはいるが気づいてはいない――として述べれば、それは「疎外」と呼ばれる問題である。公衆にとっての公的問題―――その観点と価値に公衆は概して無関心である――としては、それは事実および目標としての民主的社会の問題に等しい。私的問題と公的問題を暗示する不安と無関心が、意味においても影響においても非常に深く広範である理由は、まさに、この私的問題と公的問題が今は広く認識されておらず、それゆえ実際には明確な問題として存在していないからである。これは、その政治的文脈において見るならば、今日、自由の問題の中心であり、現代の社会科学者が自由の問題を定式化する際の知的挑戦の中心である。
私的問題の不在の背後、不快感と疎外という不安な感情の背後には、自由と理性という価値が存在するというのは、単なる逆説ではない。同じように、自由と理性に対する近代の脅威から最も典型的に生じる公的問題は、なによりまず、明確な公的問題の不在である。つまり、公的問題が問題として明確に定義されるというよりも、アパシーが生じるのである。私的問題と公的問題が明確にされてこなかった理由は、それを明確にするために必要な人間の主たる能力と資質である自由と理性が、脅かされ減退しつつあるからである。

その状況が蔓延することによって、人びとは…というかわたしが見てきた人たちは公共的な問題に無関心になりました。

社会科学者が社会構造に関心を寄せるのは、未来は構造的に決まっていると考えるからではない。私たちが人間の決定の構造的限界を研究するのは、効果的な介入点を見つけようとするからである。つまり、もし明確な決定が歴史形成において果たす役割が拡大するのであれば、構造的に変えられるのは何なのか、変えなければならないのは何なのかを知るためである。私たちが歴史に関心を寄せるのは、未来は必然であり、未来は過去に縛られていると考えるからではない。人々が過去においてある種類の社会で生活したということは、将来において生み出す社会の種類を厳密あるいは絶対的に制限するわけではない。私たちが歴史を研究するのは、他の可能性を見つけるためであって、その可能性のなかで、いま人間の理性と自由は歴史を作ることができるのである。私たちが歴史的社会構造を研究するのは、簡単に言うと、そのなかに、社会構造がコントロールされている方法とコントロールされうる方法を見出すためである。というのも、人間の自由の限界と意味について知るようになるには、この方法しかないからである。

「私たちが人間の決定の構造的限界を研究するのは、効果的な介入点を見つけようとするからである。」「社会構造がコントロールされている方法とコントロールされうる方法を見出すためである。」書いている内容とは少し違いますが、歴史を学ぶ意義というのはこういうところにあるのではないかと感じられました。わたしは大学では歴史学科で西洋近代史を専攻していましたが、その頃は全然何も考えられていませんでした…。歴史を学んで、社会は昔と比べてこういうことが良くなっている、それはこういう構造上の枠組みがあって、その中で人びとがこういう行動を起こしたからだと認識することで、今ある社会を良くする行動について考えられるんだろうなと思いました。

現代社会的事実としての人間の精神が質的にも文化水準においても堕落しているにもかかわらず、技術的な仕掛けがとてつもなく積み重なっているために、それに気づいている人は多くないという可能性に向き合わなくてもよいのだろうか。それが、理性なき合理性の、人間の疎外の、人間の事象における理性の自由な役割の不在の、一つの意味ではないだろうか。仕掛けが積み重ねられ、これらの意味を隠す。そのような装置を使う人々が、それを理解していない。それを発明する人々が、他のことをあまり理解していない。だからこそ私たちは、技術的な豊かさを、人間の資質と文化の進歩の指標として決して使ってはいけないのである。

たしかに、技術が進歩していてなんか発展しているように感じるせいで、「人間の精神が質的にも文化水準においても堕落している」ことはあまり感じられません。さらに、エンジニアとして技術職の人と接していても感じますが、技術者としては優れていても社会的なことに関心のある人なんてほとんどいないように感じます。ものを開発していてもそれが生み出す意義を深く考えてしないということも結構あるのではないかと思います。職場とかの人を見ていると、若手は何事にもやる気がないし、中堅くらいの人だったら家庭のことに加えて仕事のことで忙しくて(残業時間がすごく多かったりするので)、もし時間があったとしても自分の関わる業界や技術を勉強したり雑誌を読んだりしたいだろうし、初めから社会や文化に関心がない人だとすれば専門と全く別の分野である社会学みたいなものに関心を持ったり時間を割いたりしようと思わないのでは?と思います。わたしのいる組織自体がそんなにレベルが高くなかったり、単にわたしが人と深く話をしていないから知らないだけかもしれませんが…。でも普通に生きている人だと余計、なんかテクノロジーとかが発達していて便利だし、なんか問題なく進歩しているんだろうって感じてしまうのはあるだろうと思います。

いかなる問題であっても、それを定式化するためには、私たちは含まれる価値とその価値に対する脅威とをはっきり述べる必要がある。なぜならば、社会研究のすべての重要な問題と、すべての公的問題・私的問題とに必要な道徳的内容は、大切にされている価値たとえば自由と理性という価値に対して感じられる脅威だからである。好都合なことに、個性という文化的問題に含まれる諸価値は、ルネサンス的人間の理想によって示唆されるものすべてのなかに体現される。この理想に対する脅威は、私たちの間で陽気なロボットが優勢になることである。歴史形成という政治的問題に含まれる諸価値は、人間が歴史を作るというプロメンテウス的な理想のなかに体現されている。この理想に対する脅威は二重である。一方では歴史形成が怠慢によって進行する可能性がある。つまり人間が歴史の意図的な形成を放棄し続け、それゆえ単に漂流するという可能性である。他方で、歴史が実際に作られる可能性もある─しかしそれを行うのは狭いエリート集団であり彼らの決定と怠慢の結果を乗り越えようとしなければならない人々に対してこのエリート集団は実質的な責任を負っていないのである。私には現代の政治的無責任という問題や陽気なロボットという文化的政治的問題に対する答えはわからない。しかし少なくともこれらの問題に立ち向かわなければ答えが見つからないのは明らかではなかろうか。誰よりもそれに立ち向かうべきなのは豊かな社会の社会科学者であることは明らかではなかろうか。彼らの多くが現在そうしていないことは現代の特権的なものによって犯されている最大の人間的怠慢であることは確かである。

ここでいう「エリート集団」というのは現状の日本でいうと、為政者や大企業などの役員などがそうなのかなと思います。彼らは今後どのような社会ができようと、それでどれだけ人が苦しむことになろうと、それに責任を負うことはありません。ここでは社会学者がそれに立ち向かうべきだと書かれていますが、わたしとしては、生きているみなさんがこういう事実を認識し真に理解していくことで、大きな力になってくるのではないかと思います。そうすることでその人自身も身の回りの問題も解決するかもしれないし、感受性を豊かにし、多くの人を救えるような方向に行動を変えることで本当の自由と幸せを得られるようになるかもしれません。

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