血という縁に花束を


最近思う、血の価値について。私達は血のつながりと言うと、少し古臭い感じがする。でも血に古いも新しいもないだろう。僕達の体は血でできる。血は今ここに生まれ死に生まれ死んで生まれている。血が通うから生きてる。血は生きてる証拠であり、死を思い起こすきっかけでもある。血は生死の境界を司る。

僕達日本人が、ある田舎の風景を見て、懐かしく感じる。延々と弘がる田園、小川のせせらぎ、山に日が暮れる様、古びた神社と三毛猫、畳の香りと風鈴の音、道端に御わす仏様。これを何故懐かしく思うのか。

私は祖父の代も両者都市圏の集合住宅で、そのような故郷は戸籍の最果てからグーグルマップで探し出すくらいでしか見たことない(いつか絶対訪れる)でもその空間にいた人間が、紛れもなく愛を注いでくれたから今の自分がいるのだ。僕の故郷は夢と希望により20世紀のときに開発された埋め立て地だ。そんな土地の小学校の音楽室で、『ふるさと』を歌ったとき、自分は強烈に心を締め付けられたのを忘れてはいない。

愛を受けて新しい愛を紡ぎ注ぐのか。結婚も、子どもを遺すことも、家を継ぐその価値を失う世の中で、僕達は少年少女があの美しい野山と川で遊ぶ夢を見る。でもそれは僕の記憶ではない。誰がこれを懐かしく想わせる?本当はもっと温かかったんだよ。

こんな苦しい世界に、こんな駄目な私達の血を遺しても何になるの?他人の結婚を祝うのは間違ってる。そうか、確かにそうたね。

私達は自然を離れた人間の計画と加工の集合体である都市にどんどん集まり、そこで一方は幻想に耽り世を哀しみ、一方は刹那的に体と愛を消費し合う。そこから抜け出した情緒的合理主義者は郊外に素敵な家庭を育むだろう。嗚呼、まぁこれが全てではないのは知ってる。

時折自然のある場所に行っては心を癒す。最も、田園も里山も人の手が加わったものだが、私達はあそこに懐かしさという本能的な欲求を生じさせる。注いできた愛は、実在として紛れもなく血であった。私達は血という言葉を忌避する。愛という言葉は実は血であることを知ってるのに。血に想い出など宿らないのはその通りだ。でも血のないところに血を通わせ、血のあるところに情を通わせるのも悪くはないはずだ。だからお前の見たことない田舎も、宇宙も懐かしく想うんだろ。

家族を離れて自由になる。素晴らしいものはいつだって家族と離れた場所で生まれるのは、よくあることだと思う。でも貴方の源は故郷であることを忘れないで。本当の故郷、そして見たことないが懐かしきあの風景、どちらも愛の証なのだから。行ってしまうことが尊ばれる現代に愛を込めて、故郷を抱きしめたい。

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