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微苦笑問題の哲学漫才27:レヴィ=ストロースと構造主義編(後編)

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:前回で『構造主義の冒険』に言及したけど、この本からは今の上野千鶴子は想像できないな。まあ同時期の翻訳『マルクス主義フェミニズムの挑戦』(勁草書房)からは窺えるけど。
 微:1962年の『今日のトーテミスム』と『野生の思考』の話からでしたね。かつてはトーテムポールに刻まれるトーテムは創世神話上の先祖や部族の守護神を示すものと考えられていました。
 苦:「今日からお前がレッド・スポーピオンだ」というクソ映画のオチ台詞を思い出したわ。
 微:ですが、オオカミならともかく、弱い動物は説明しようもありません。例えばオーストラリアのニューサウスウェールズのある部族はトーテムとしてコウモリを持ち、別の部族はキバシリを持っています。
 苦:龍の入れ墨はこわいけど、弱っちい生物じゃあ説明できないよな。
 微:この場合、レヴィ=ストロースはそれら動物と部族とに実際的・直接的な関係、つまり祖先関係はないと考えました。
 苦:あったら、完全にショッカーの改造人間だな。
 微:まあ、仮面ライダー自身、自分を棚上げして「出たな、ショッカーの改造人間!」って叫んでましたけどね。
 苦:V3は改造人間による改造人間だからOKだな。
 微:昭和的ボケはもういいです。レヴィ=ストロースの理解は、それらの動物は一方が狩り、もう片方が盗むという行為をなす、と。
 苦:二つ合わせて「借りパチ」だな。オレ、よくやるけど。
 微:知ってます。「野生の思考」によってその特徴と「部族間の社会的な関係」とが関連づけられた、つまり全体が一つの構造を成すので、それを構成する動植物が部族のトーテムにされたと考えたのです。
 苦:部族に分かれて生きている人間社会全体も、種ごとに群れを成す動植物からなる自然も、一つのミクロコスモスあるいは有機体であり、それらの全体においてはじめてそれぞれが意味をなす、と。
 微:はい。レヴィ=ストロースは従来の解釈の解体作業を踏まえ、「野生の思考」を比喩に基づく類推法の論理で成り立つと論じたのが前回では内容に触れなかった『野生の思考』です。
 苦:昔、『野生の王国』っていうTV番組あったな。ライオンの回は狩りに成功したライオンに感情移入して「おいしそうにガゼルを食べています」ってナレーションが入って。
 微:レヴィ=ストロースは自然環境において具体的な事物を一定の記号として扱う思考、すなわち野生の思考を本書の主題に据えて、文明社会において発達した科学的思考と対比しながら考察を進めました。そして未開社会は喩えるなら「冷たい社会」であると捉えました。
 苦:弱者に儒教社会は冷たいよな。
 微:そうではなくて、変化し続ける近代社会=「熱い社会」という理念的対比を念頭において、未開のレッテルを貼られた社会を「冷たい社会」とし、その社会像を提示したのです。
 苦:冷たい社会って、役所の福祉課とか福祉事務所のことかと思ってたぞ。
 微:特に維新の会が牛耳る役所はそうですが、「冷たい社会」とは変化しない社会のことです。この21世紀の日本社会でも、変化し続ける「熱い」部分と、例えば死者の遺体に異常にこだわるメンタリティのように、何百年と変わらない「冷たい」部分がありますよね。
 苦:名前に使う漢字へのこだわりなんかそうだよな。鎌倉時代の僧侶が自分が開祖となった寺号・院号にこだわり過ぎることを兼好法師は批判していたし。
 微:今日のキミは賢いね。何か薬でも飲んできたの?
 苦:いや、今の日本でも「どう読んだらいいんだ!!」っていうキラキラネームというかヤンキー万葉仮名ネームを付けたがる親も多いから、そっちへの批判ね。
 微:アカデミックなのか、バカなのか判断しづらい例はいいよ!! 話を戻すと、何千年も意識化されないまま存続する感性や心性には、持続できるだけの合理性があるということです。
 苦:まあ、人形を使って呪うのか祝うのかわからんんけど、縄文時代から続いているわな。
 微:「未開社会」の分類論がある種の合理性をもっていることをレヴィ=ストロースは説得的に取り出しました。そして未開社会の秩序維持のメカニズムを、この現代社会にも残存する諸要素と通底させるかたちで例証したのです。
 苦:わかったから、「野生の思考」を具体的に説明してよ。このままだと「皇国史観」と同じだぞ。
 微:偉そうに言うんじゃねえよ!! さて、野生の思考とは「具体的な事物を一定の記号として扱う思考」で、これをレヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」と呼びました。
 苦:アイドルの顔に別人の身体をくっつけるやつだな。
 微:・・・それはアイコラで、もう死語です。ありあわせの素材を用いて入り用の物を作ることに例えられ、器用人の思考様式と特徴づけられます。
 苦:ウチの嫁さんみたいに足らない材料を買うんじゃなくて、冷蔵庫にあるもので晩飯を作る・・・。
 微:経験とアイディアが豊富なだけでしょう。それは眼前の事象を考える際に、その事象と別の事象との間にある関係に注目し、それと類似する関係性を有する別の事象群を連想しつつ、目の前の事象を再構成する思考構造です。
 苦:まあ、中世から近世ヨーロッパの「魔術」みたいな発想だろ。
 微:はい。「野生の思考」はそれらの事象に異なる意味を与え、新しい「構造」を生み出す思考であるため、理論と仮説を通じて考える科学的思考とは全く異質なのです。
 苦:構造のタイプの違いであって優劣はないと。レオパレスもヘーベルハウスも同じだと。
 微:思いっきり違います、一度住んでください。両者の相違について科学的思考が用いるものが「概念」であるのに対して、野生の思考が用いるものは「記号」です。
 苦:遅れていると扱われてきた日本が、逆に西洋よりも進んでいると主張した「近代の超克」妄想は痛い裏返しのコンプレックスだったわけだ。
 微:さて、「記号」という人類学におけるデータ分析の方法論的アイディアは当然ながら、言語学、とりわけソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学、およびデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学・人類学思想の2つです。
 苦:フランス語で書かれた著作の黄金時代だな。
 微:前号では書かなかったことを補足すると、デュルケムはフランス社会学の祖であり、『自殺論』において、個をどれだけ分析・集積しても全体の論理は導き出せないことを発見した人です。
 苦:直接、孟子に言って欲しいな。「修身斉家治国平天下はウソだ」と。
 微:まあ、正論です。単純化すればデュルケム「個の論理と全体の論理は異なる」を発見・実証した人です。
 苦:阪神優勝やサッカー・ワールドカップで日本代表が勝つことと道頓堀川ダイビングは論理的につながらないもんな。
 微:次にマルセル・モースは交易の始まりを互酬(レシプロシティ)から説明した人類学者です。
 苦:となると、『親族の基本構造』に出てくる近親相姦タブーを回避し、より多くの部族との交易・友好を維持できる親族の基本構造は、部族間での女性の互酬だと。
 微:はい、しかも交叉イトコ婚なら女性の交換・互酬の範囲を拡大でき、部族の安定につながります。
 苦:なるほど。いざという時も頼みやすそうだし。
 微:まあ、ざっくりした実存主義と構造主義理解についてはこの2011年3月に退官した内田樹の本でも読んでください。あの人の話はこの2つがネタ元ですから。
 苦:多すぎてわからないだろ、初心者には。しかし、女性が交換の対象となるのは男に価値がないためだ、という説明には笑ったというか、納得しましたな。個人的には、マンガで遊牧民が対象だけど森薫『乙嫁語り』が具体的イメージも湧いていいと思うぞ。
 微:はい。この著作はパリで出版された当初からフランス知識人に大きな衝撃を与え、人類学の研究にとどまらず現代思想としての構造主義の勃興を促しました。
 苦:建築業界を一時期、ラーメン構造が席巻したな。
 微:無視ね。レヴィ=ストロースは、従来の「野蛮」から洗練された秩序が形作られたとする西洋中心主義、文明史観を批判しただけでなく、「未開社会」においても一定の秩序・構造が見いだせると主張してオリエンタリズム的見方に一石を投じたわけです。
 微:これは後のポストコロニアリズムでも特に高く評価されています。
 苦:ポス・コロに評価されることは褒められたことになるのか?
 微:余計はツッコミは不要です。さて、哲学的には、『野生の思考』の最終章が大事な部分になります。その最終章「歴史と弁証法」においてレヴィ=ストロースは、フランス知識人界に君臨していたサルトルの実存主義を強烈に批判しました。
 苦:直前にたかじんとマツコデラックスから特訓されたそうです。
 微:デタラメ言うな!! サルトルの実存主義は主体偏重であり、個々の主体よりも各主体が部分として意味を成す構造、要するに主体間の構造こそが重要だと主張したのです。
 苦:
 微:しかも知識人の武器は言葉・言語です。主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものの最たるもので、われわれは言葉を使う限り、言語の外に出ることはできません。
 微:つまり天下のサルトルといえども、絶対的な主体ではあり得ないこともレヴィ=ストロースは喝破したのです。
 苦:コミュニタリアニズムのサンデル先生がリベラリズムのロールズに引導を渡したようなもんだな。
 微:しかもサンデルはユダヤ系ですしね。「弁証法的理性批判」をめぐるサルトルとの論争を経て、フランス知識人業界の覇権はカミュからサルトルを経てレヴィ=ストロースに遷りました。
 苦:そういう表現をするとサルトルが通過点になってしまうぞ。
微:分かっている人は大丈夫です。このことから、「実存主義を乗り越えるものとしての構造主義」という思潮を過剰なまでに盛り上げる契機となりました。
 苦:特にオランダ・サッカー界、特に1974年の代表チームで盛り上がったんだよね。
 微:ヨハン・クライフとも関係ありません。構造主義とは、あらゆる現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を探求する立場です。
 苦:構造が純粋理性においてどのように現象したのかフッサールに訊いて欲しいな。
 微:構造主義はフランス語圏で影響力を増し、ミシェル・フーコーをはじめ、文芸批評のロラン・バルト、文芸批評・言語学のジュリア・クリステヴァを輩出します。
 苦:そのくせサッカー界はカントナとかプラティニ頼りでシステムは構築できませんでした。
 微:嫌味を言うな。また精神分析のジャック・ラカン、構造主義的マルクス主義というかマルクス読み直しのルイ・アルチュセールなど人文系の諸分野でその発想を受け継ぐ者が々と現れました。
 苦:日本で言うと、かつての田中派、今の「細田」派みたいなもんだな。お金もポストをくれてありがとうございますって感じかな?
 微:ただし、この継承の過程で、レヴィ=ストロースの分析が「構造の静的な面」を対象としていたことに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点が彼らによって導入されました。
 苦:構造だから安定はしているが誕生も崩壊もあるわな。ケケ中収奪システムは解体しないと。
 微:これがポスト構造主義として知られる立場です。また言語、文学作品、神話に加えて、ファッションといった商品や映像作品などの構造なども分析の対象となりました。
 苦:作品単品を分析・評価するだけではダメだと。系譜や表現記号の借用や転用も見ろと。
 微:こうした象徴表現一般を扱う学問は広い意味で「記号論」と呼ばれます。
 苦:まあ、こういう訳で構造主義、記号論、ポスコロを名乗る人間が増えたんだな。
 微:立場を見分けるには、潜在的というか言語化されない構造を言語化して分析するわけですから、「メタ~」の語があれば、それは構造主義や記号論の話と思ってけっこうです。
 苦:メタ言語、メタ分析、ジャルジャルの「メタ漫才」、あるいは輸入冷凍餃子の「メタミドホス」。
 微:最後は余計です。気をつけて欲しいのは、記号と象徴(シンボル)は違うことです。
 苦:天皇は日本国の象徴であって、記号ではないが、希望であって欲しいと誰かが言ってたな。
 微:紛らわしいよ!! 「ハトと平和」で説明すれば、ほんのわずかでも何らかの現実的連想が働いているのが象徴です。学生服と高校生あるいは性器だけで男女を象徴する便所の落書きなどは象徴です。
 苦:この哲学漫才こそ表現界の便所の落書きだろ。
 微:しかし記号は、記号とそれが指し示す対象や社会的約束との現実的・意味的必然性はありません。記号はある社会集団が制度的に決めた「しるしと意味の組み合わせ」なのです。その「しるし」をシニフィアン、指し示される意味がシニフィエです。
 苦:「頸を縦に振る」がイスラム圏では「否定の意思表示」だが、他地域では肯定を意味するみたいに?
 微:そうです。ですからシニフィアンとシニフィエの結びつきは極論すれば「恣意的」なものです。これだけで『旧約聖書』の「創世記」に記されたアダムの命名が示す言語観が虚偽であることがわかります。
 苦:それをネタにしたマンガあったな、だんだんアダムがなげやりになっていくという。
 微:しかもシニフィエの方は、個人、社会、時代によって変化します。文学作品においては、作者でさえ、意識化できない言語のルールや時代の無意識によって書かされていることがわかります。
 苦:つまり、ダイソンの「羽根の無い扇風機」みたいなもんか?
 微:まあ、そうなるのかな。つまり、「作者の言いたいことは何か」という典型的な国語の問題は、記号論からすれば無意味になるのです。
 苦:それを「作者の死」と表現したのがロラン・バルト(1915~ 1980年)だな。
 微:まあ、「エクリチュール」やら「ラング」「パロール」などの大事な概念もあるのですが、バルトは、はぐらかしの名手です。彼について断定的なことは言いにくいですね。
 苦:まあ、国民の自由を制限し、民主的手続きを無視する自由民主党の存在がシニフィアンとシニフィエの結びつきが恣意的であること示してくれてるんだから、これでいいんじゃない?

作者の補足と言い訳
 前回でペレの活躍により「未開の国」という欧米のブラジル認識が大きく変わったという話は、今回の補足の伏線でもありました。今やBricsとしてNIES、ASEANに次ぐ経済的地位を得たブラジルですが、その社会に独自の地位を築いた日系移民のことも忘れてはいけないでしょう。2008年は神戸から最初の日系移民が旅だって100周年に当たっていました。ついでながら第2次世界大戦における日本の敗戦を受け入れたのが「負け組」、受け入れられなかったのが「勝ち組」という表現の起源ですので、現実社会における自分の境遇認識とは本来は違う概念だということを補足しておきます。
 さて、構造主義に関連させて、個人と社会(共同体)の問題を、因習とか自由の疎外という、個人の自由の問題ではなく、実存主義と構造主義との問題へと読み替えた場合、この構図にピタリ嵌まるのがサッカーというスポーツでしょう。個々のタレント=「かけがえのない選手」とサッカーのシステム=戦術に基づいた選手配置(4-2-3-1や4-3-3-0など)の関係です。システムにフィットするのがタレントなのか、タレントを活かすためにシステムは構築されるべきなのか。バルサのメッシを見ているとこの問題を考えざるを得ません。理想は両者は相乗効果を生む関係にあるべきなのでしょうが、カネにモノを言わせて選手を買い集めるビッグクラブを見ていると、育成に力を入れているバルサはまさに理想なのでしょう。ここで思うのが、ユダヤ系学者はピッチ外の監督の位置に、普通の学者はピッチ内のキャプテンの位置にいるという比喩が、前回のユダヤ系学者の独自性・卓越性に通じるのかな、という予測です。これは日本の王権論、つまり「キミ」と「外来王」の関係にも適用できるかもしれないと思ってます。

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