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微苦笑問題の哲学漫才29:ウィトゲンシュタイン編(後編)

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 微:前回の続きでウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の続きからです。
 苦:今回は予告してますから。要は計画倒産だな。
 微:どこのITベンチャー企業だよ!! 『論考』解説の後は後期の『哲学探究』に関連して「言語論的転回」「言語ゲーム」「私的言語」といった概念を扱います。
 苦:21世紀日本の多くの私立大学では講義室で私的言語が跋扈しているな。
 微:それは私語だろ!! 前期を代表する著作『論考』は、論理哲学勃興期の20世紀初頭に哲学が扱うべき領域を明確に定義し、その領域内において完全に明晰な論理哲学体系を「構築した」ものです。
 苦:高校の物理と一緒で、数式化できる範囲内だけ扱っているくせに「高等な分野」と勘違いした、と言いたいのか?
 微:レベルが違いすぎますよ、共通一次35点の人。ウィトゲンシュタインは、哲学的問題はすべて解決したと思い、小学校教師、庭師、さらに姉のストーンボロー邸宅の設計・建築をしていました。
 苦:授業よりも農作業の方が本業になっいるどっかの社会科教師みたいだな。
 微:うるせえよ!! 『論考』では、言語(Sprache)の有意味な諸命題は、すべてそれぞれ世界の諸事態の「像」(独:Bild)であるとして、言語と世界とを平行関係に考えつつその構造を解明したというか、しようとしたものです。
 苦:論理的に、同じ綴りで違う対象を示す言葉が存在するのはパラレルワールドがあるということ?
 微:「パワハラ」ワールドで鍛えてきてください。全体は7つの断章とそれを補足する細かな番号づけられた短い命題の集合で構成されていることは説明済みですね。
 苦:月曜日に始まって日曜日に終わるはずが、日本海軍では金曜日で無限ループに入りました。
 微:せめてロシアの民謡にしとけよ!! フレーゲの定義を引き継いで、「意義」(内包的意味、sense)は命題が表す事態、「意味」(外延的意味、reference,denotation)は指し示す対象と定義されます。
 苦:あ、参照されるべき対象は複数あっていいのね。
 微:まあ、そうです。よって、現実と言語は、名前(名辞)が対象に対応し、事実の論理形式が命題の論理形式に対応することになります。
 苦:ラッセルとの有名な「『この部屋にはカバはいない』という言明は否定できない」というやつだな。
 微:はい。「語りうること」とは、「『○○が△△である』という事態が存在するの形で示される真偽命題として表現可能なこと」です。
 苦:少なくとも「ここにバカが二人いる」という言明は真だな。
 微:「少なくともここにバカが一人いる」でしょ。前期ウィトゲンシュタインにとっては、これが、言語が有意味に語り得る領域に重なることになります。
 苦:どこに盧泰愚元大統領がいるんだ? ここは寺か?
 微:それは「大愚は悟りに通ず」の意味の愚だろ!! 一方、「示しうること」は、真偽命題の形で表現することはできませんが、言語によって「了解させることができること」です。
 苦:「キミみたいなバカになってはいけない」という言明だな。
 微:それはこちらが言うセリフです。命題1~3と、その補助命題は彼の「写像理論」を主要テーゼとしています。
 苦:「写経理論」を超えるためにアクティブ・ラーニングが形式的言語として導入されたんだな。
 微:出家してからボケてください。つまり、世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっており、一方で命題群は世界の「像」をなしています。
 苦:意味的関連のないシニフィエたる現実と、それを記述しようともがくシニフィアンのこと?
 微:いきなり遊び人から賢者に進化ですね。ある一つの像がある一つの事実を映すためには、この像は、何らかの形で、その事実と同じ論理構造を保有していなければならないことになります。
 苦:「語る」には論理が必要だし、「青空が晴れた」は論理過剰だもんな。
 微:こう考えると、言語はさまざまに投影された可変的な形式にあたり、角度がどんなに変わろうとも三角形は三角形であるように、形式は変わろうともその言語表現の論理構造は変化しません。
 苦:「自分がバカである自覚がない者がバカ」という本質は変わらない、と。
 微:しかし、複数の論理構造の間で、何が共有されているかを、言語によって語ることはできず、ただ、示すことしかできません。
 苦:それで修行者多国籍軍だった禅宗僧侶が「悟り」を目指すことで共存できたと。
 微:体得と言うと少し違うのですが、言語を使って言語の外に出ることはできないからです。
 苦:それってハイデガー『存在と時間』の破綻パターンだな。
 微:この意味でも「私的言語はありえない」し、「語り得ぬことについては沈黙し、示すことしかできない」のです。
 苦:むかし『伝染るんです』で「ホータイ君」が新しい字を発明し、そのままフキダシで使ったネタの元だな。
 微:あれは微妙に哲学的でしたね、「意図的に『取り返しのつかないこと』をするジイサン」とか。
 苦:「心に傷を負った人専用座席」とかね。ボクなら「異性に不自由な人専用座席」くらいしか思い付かないけど。
 微:その線ですね。そして命題4、5とその補助命題を通じて、ウィトゲンシュタインは論理的な理念的言語の構成のために必要になる形式的な諸装置を追究し、そのために「真理値表」を使いました。
 苦:エヴァで使っていたシンクロ率を示すやつだろ?
 微:それは引きこもり系アニメ。現在では命題論理の意味論を説明するための標準的な手段となっていますが、当時は厳密な考慮を形式論理学にもたらした画期的なものだったそうです。
 苦:それが理解できたら社会科教師なんてしてないよな。
 微:命題6は非常に難しいのでパスしたいんですが、これが言いたいのはどんな論理的言明も要素命題の総体に対する一連の否定論理積演算によって派生させることができるということだそうです。
 苦:語尾に苦しさが滲んできたな。
 微:これはヘンリ・シェーファーによる著名な論理学の定理だそうで、もう完全に間接話法です。
 苦:仏教でも儒学でもそうだよ、「~と私は聞いた」「(死んだ)先生はこう語った」のオンパレード。
 微:続く命題6の補助命題群において、彼は哲学史を反省的に振り返ります。
 苦:普通は、研究史を示して問題の所在がここだと説得する順番なのにな。さすが註なし論文男。
 微:ウィトゲンシュタイン的には論理的な言語は世界をただ反映できるだけです。
 微:だから、神秘的な現象世界というか「形而上学」が対象としてきたものは、言語=世界の外側にあることになります。
 苦:まさにイデア!! 感知するしかできない。
 微:よって、カント的な「先験的的」「超越論的」なもの、倫理や形而上学などの哲学の伝統的な論題の多くは有意味に議論することはできません。
 苦:ドイツ観念論哲学にもケンカ売ったのか。
 微:たとえそうしたものを論じようとしても、直ちにすべての意味が失われることになるからです。
 苦:ここで一句、「語りえぬ 形而上学 もの自体」
 微:返歌は「いるだけで 語るにおちる バカ学生(=キミ)」ということで。
 苦:・・・悔しいけど、面白かった。
 微:話を戻すと、『論考』は、現実世界の対象について、どのような関係が成立しているかどうかについての真偽の知識を与えない命題は、意味を持たないナンセンスな命題であると主張します。
 苦:今、「頭痛が痛い」みたいなこと言ったな。
 微:(すっとぼけ)したがって、自然科学こそが、すぐれて有意味な言明を与えることになるわけです。
 苦:それって自爆ネタじゃないのか?
 微:「哲学の問題はすべて解決した」ということです。
 苦:人文学は自然科学に勝てないと敗北したのか。
 微:この書物の掉尾を飾る命題7「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」は補助命題を持たず、優美で感動的な響きをもっています。
 苦:キミも試験の解答用紙の氏名欄のすぐ上に、そう印刷してあるよな、嫌みな性格。
 微:ただ、この命題は形而上学の終焉を告げる言葉として人口に膾炙していますが、形而上学的な領域の存在を否定しているのではありません。
 苦:勘違いして黙秘しているカジノ衆議院議員やドンファン元妻に言ってこいよ。
 微:『論考』が示すように、命題的に語られ得るものを最大限明晰に語りきること、言語の限界に達してはじめて「語り得ることのできない、ただ示されうる領域が存在する」を示すことができるのです。
 苦:言語の境界線と語り得ない世界との接線を示した、と。
 微:まさしく『論考』はそのような行為を遂行しようとしたのでした。
 苦:「在るのでもなく、無いのでもなく・・・」と否定を限界まで語ることでしか大乗仏教の「空」が語り得ないようなもんだな。そりゃ哲学の仕事は終わったと思うわ。
 微:1928年3月、ウィーンでオランダの数学者ブラウワーが「数学・科学・言語」という題で数学的直観主義に関する講演を行ないました。
 苦:ワクチン接種の大規模会場異常に話が急展開でぎてわからん。
 微:ワイスマンとファイグルは、引退して嫌がるウィトゲンシュタインを宥めすかし、この講演に出席させることに成功したんです。その口実がブラウワーでした。
 苦:泣き喚く子どもを歯医者に連れていくようなもんだな、いい大人なのに。
 微:講演終了後、3人は近くのカフェへ入ったのですが、その時、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめたのです。
 苦:目論見通り、ウィトゲンシュタインが覚醒したんだな。
 微:彼が語ったのは後期思想の萌芽ともいえるものでした。また同じ頃、『論考』の英訳者ラムゼイとも会って議論を重ねました。
 苦:ほとんど組織犯罪だな、目的がいいからいいけど。
 微:それらを通じて、ウィトゲンシュタインは次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになりました。それが再び哲学への関心を取り戻すきっかけとなったのです。
 苦:『奇跡の人』のW・A・T・E・Rか!
 微:哲学研究に再び取り組む意思を固めたウィトゲンシュタインはケインズと手紙のやり取りを経て、遂に1929年1月、ケインズの客として16年ぶりにケンブリッジ大学へ足を踏み入れました。
 苦:門に「地獄への道は善意という名の砂利で敷き詰められている」と刻まれていたそうです。
 微:それはレーニンの箴言だよ!! ケインズは手紙に「神が到着した。5時15分の電車に乗ってきた神に私は会った」と記しています。
 苦:「親の言うこときかねえ童(わらし)は、いねえが!!」と言いながら乱入したそうです。
 微:それは秋田の「なまはげ」だろ!! 前に書いたように、ムーアと大喧嘩してウィトゲンシュタインは学位を取得していませんでした。
 苦:まさに哲学界のブラックジャック。無免許の天才。
 微:ですが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、1929年『論考』を博士論文として提出しました。
 苦:審査はできたんか、そこがめちゃくちゃ気になる。
 微:面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったそうです。
 苦:寄付金一億円を提示した私立大学医学部受験生みたいな口の利き方だな。
 微:そこがウィトゲンシュタインたる所以です。ムーアは「これは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記しました。
 苦:そこは「語り得ぬものには沈黙しなければならない」と書いて欲しかったな。
 微:「ウィトゲンシュタインに博士号を出さないのは、アインシュタインにノーベル賞を与えないのと同じだ」とラッセルも学位を認定しました。
 苦:さすがラッセル、うまい!!
 微:こうしてウィトゲンシュタインはトリニティ・カレッジのフェローとなりました。
 苦:この辺りはリッチェルとニーチェみたいだな。師の強い推しでポストが決まる。
 微:ウィトゲンシュタインの講義は緊張に満ちたもので、うんうん唸りつづけるかと思うと、閃いたら怒濤のように語り出したそうです。
 苦:便秘の人が使う洋式トイレかよ!!
 微:しかも大勢の学生を相手にすることを彼は嫌いました。
 苦:そりゃ人前で排泄したくないもんな。
 微:そこで見込んだ学生に講義を口述筆記させ、解説させたました。それが『青色本』『茶色本』です。
 苦:ソシュールといい、ウィトゲンシュタインといい、言語に関係する人間は書くのがダメなんだな。
 微:さて、後期ウィトゲンシュタインの哲学を代表する『哲学探究』は、彼が1951年に62才で死んでから2年後にようやく出版された遺稿集です。
 苦:マルクスよりは判読しやすい字だったんだな。
 微:2部構成になっていますが、第1部の大部分は、1946年には出版直前までこぎ着けていたが、ウィトゲンシュタイン自身によって差し止められたものです。
 苦:いや、本当にすごい本ほど未完成だよ。トマス・アクイナス、マルクス、富樫と。
 微:最後のは仕事に追い詰められた漫画家だろ!! 第1部より短い第2部は遺稿の管理人であり『探究』の編纂者でもあったアンスコムとリーズによってつけ加えられました。
 苦:ここではニーチェ的展開だな。
 微:遺稿集ですから、当然ながらウィトゲンシュタインの解説者たちの間ですべての見解が一致することはまずありえず、『探究』に関しては紛糾を極め、議論百出の様相を呈しています。
 苦:また一句、「茶色本 青色本も 探求も 言語の限界 トートロジー(語りえぬ)」
 微:『探究』のなかで、ウィトゲンシュタインは哲学を実践する上で決定的に重要であると考える言語の使用についての所見を「言語ゲーム」と描いています。
 苦:殴る蹴るの家庭教師が出てくるやつだな。
 微:予想してましたが、それは『家族ゲーム』です。これは言語を「言語的了解行為という自己完結した諸体系」と捉え、意味の源泉を「言語の使用」に帰するものです。
 苦:怪しい通信販売の「使用前」と「使用後」みたいなもん?
 微:違います。しかも、これは『論考』によって叙述された言語の写像の理論とは、決定的に離れています。
 苦:偉大なる自己否定というか、創造的破壊というか、でも平気でやりそう。
 微:言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、日常的なコンテクストにおいてのみ機能するものです。
 苦:そうだな、今の時代に「拙者、○○と申す者。伊賀国の出でござる、ニンニン」て自己紹介されたらビビるわな。
 微:最後の「ニンニン」でわかってもらえますよ、その例では。「一所懸命」の誤用「一生懸命」が定着しているように、誤用であってもルールとして共有されると言語として機能するのです。
 苦:内部のルールで完結している、という意味か?
 微:書かれた、そして書かれざるルールに基づいて、サッカーや野球というゲームも進行しますし、「○○という行為を反則と扱う」とする定義が○○と呼ばれる現実の反則行為を生み出します。
 苦:薬剤による筋力増強という現実がドーピングという違反行為を生むと。
 微:後者を「言語論的転回」と呼び、言語が現実を創造すると考える立場です。
 苦:「肩凝りの原因は肩にはないのに肩に湿布を貼る」ようなもんだ、と。
 微:その意味でも「言語はゲーム」なのです。この見解は、「理性が言葉となる」とする古代ギリシア以来の言語観はもちろん、『論考』の写像理論からも大きくかけ離れています。
 苦:ルーマンはこれを拝借したのか、っていうくらいシステム論に近いな。
 微:形而上学の問題群を論理的分析によって解きほぐそうとすること自体が、哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのです。

作者の補足と言い訳
 「言語論的転回」はlinguistic turnの訳語で、歴史学では書かれたもの=史料は、事実を記録したものではなく、書かれたことを真実化していく遂行的な行為であって、書かれているから事実であるとは言えない、という革新的な発想です。ビザンツ史という史料の少ない時代・分野をやっていた人間からすると、「比較対象となる史料群がある分野だから言えるというかやれる贅沢なやり方だな」と、思っていました。しかし、聖書にまつわる話、特に新約聖書のイエスにまつわる話は、その奇跡が本当だとすると、事実の記録であると同時に言語遂行的です。
 有名な『論考』の最後のテーゼですが、あれは禁欲的であることを命じるとともに、語り得ないことは、言語以外の手段でしか示すことはできない、体験するあるいは悟るしかないということです。ですが体験した特別な事件について、人は語りたがるのであり、そうしようとしても語り得ないので隔靴掻痒感に苛まれるのですが。
 ここまで、フーコー、ソシュール、レヴィ=ストロース、ウィトゲンシュタインと大物だけを取り上げてきましたが、現代の人文系学問においては記号論や言語論的展開を踏まえずして何も書くことも語ることもできない「暗黙の了解」になっています。ですが、これらを「ざっくり」でいいのできちんと解説できる人材は、国語や社会科で何人いるのでしょうか。というか、両教科の協調は可能なのでしょうかね、日本の学校文化の歴史を考えると難しい気がします。

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