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微苦笑問題の哲学漫才08:デカルト編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 微:今回はフランスの「大陸合理論の祖」デカルト(1596~1650年)です。
 苦:日本だけだろ、そう呼ぶの。
 微:英語圏ではカート、デカルト主義者は「カルテジアン」ですね。イギリス経験論は、人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得すると考え、前回のフランシス=ベーコンもこれに属します。
 苦:なんか前回は主観とか客観とかの話じゃなかったか?
 微:それは終わりの方で、中心はベーコンが主張した自然を挑発する実験、それを通して法則や真理を発見していくべきことです。
 苦:オレのボケという挑発があるからこの哲学漫才もあるようなもんだしな。
 微:黙ってろ! それに対し、大陸合理論は、人間は生まれながらに理性を持ち、基本的な観念・概念の一部を有していると考えます。
 苦:うわ、そう言われるとユングの「原型」の世界だな。
 微:それは置いておき、演繹法とは、理性を用いた内省・反省を通じて得られた一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論方法です。
 苦:つまり合理論は経験論に対して「オマエは暫定的真理にすぎん」と。
 微:まあ、極論すればそうですね。帰納法で得られた真理・法則は蓋然的に正しいのみというか、「これまではそうだったので、次もそうだろう」です。
 苦:何回も同じ失敗をする懲りない連中も多いけどな。
 微:ですが、演繹の導出関係は前提を認めるなら絶対的、必然的に正しいのです。その代表例として三段論法があります。
 苦:言い訳の「ご飯論法」とは比べものにならないと。
 微:「人は必ず死ぬ」という大前提、「ソクラテスは人である」という小前提から「ソクラテスは必ず死ぬ」という結論を導き出せます。この例のように二つの前提から結論を導き出す演繹を三段論法といい、演繹においては前提が真であれば、結論も真となるのです。
 苦:クロード・レヴィ=ストロースの場合は証明に100年かかったけどな。
 微:個人的には日野原さんに期待してます。さて、デカルトの学問観に移りますが、彼哲学全体を一本の木に譬えています。
 苦:♪この木 何の木 気になる 気になる みんなが気になる木ですから~ って歌か?
 微:それは日立の昭和CMソング!! 根は形而上学、幹は自然学、枝に諸々のその他の学問が当たり、そこに医学、機械学、道徳という果実が実っているイメージです。
 苦:ジャパンライフの社長には金の木しか見えないだろうな。
 微:見せた安倍も悪いですが。意外な感じがしますが、デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含んでいないんです。
 苦:なのに今は記号論理学で使われるんだな。カセットテープレコーダーがなくなっても耳掃除の道具として残る綿棒みたいなもんか?
 微:どんな譬えだよ! もっぱら数学・幾何学の「明晰判明」の概念の上に その体系を考えたからでしょう。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるとデカルトは主張しました。
 苦:アメーバから人類の誕生を演繹できたら信じてやってもいいぞ。
 微:それには逆方向からの探知が必要です。まず還元主義的・数学的な考えを規範にして、少し堅苦しいですが、次の4つの規則をデカルトは定めました。

①明証:明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れないこと
②分析:考える問題を出来るだけ小さい部分にわけること
③総合:最も単純なものから始めて複雑なものに達すること
④枚挙/吟味:何も見落とさなかったか、全てを見直すこと

 苦:セコイ数学教師の言う「最初の2問に時間の7割を使え」「あとは部分点狙い」数学だな。
 微:最近は文系と理系の数学問題が分けられ、完解でないと採点されなくなってきてますから、もうムダです。その手の人同様に。
 苦:だけど最後の枚挙は「存在しないことの証明」、つまり悪魔の法則にならないか?
 微:その前の段階をまずやりますね。この哲学的方法を駆使するには、スタート地点の「明証」が疑いの余地すらない真理でなければなりません。つまり「クジラは魚類である」から出発すると、後はすべて誤りとなるのと同じです。
 苦:つまり「クジラは高等生物である」から出発しているシーシェパードは方法以前に間違っていると。
 微:船で突撃されても知りませんから。その絶対確実な真理、デカルトのいう「哲学の第一原理」に到達するために選んだ方法が「方法的懐疑」です。
 苦:専門家の意見を聞いたというふりをするための会議だな。
 微:それは政府の審議会や専門家会議だよ!! 疑い得るものはその可能性があるというだけで真理の候補から排除していくのです。これが成功するには、2つの条件を満たさないといけません。
 苦:日本学術会議の答申は無視すること、都合の良い御用学者を首都圏の私立大学に集めることだな。
 微:それも日本政府の得意技だよ!! 1つは懐疑を抱くことを本人が意識し、その操作があくまで仮定的であることを自覚すること。もう一つは一度でも惑いが生じたり、少しでも疑わしければ、それを完全に排除することです。つまり、方法的懐疑とは積極的懐疑のことなのです。
 苦:キミ1月からメタボ対策の積極的支援を病院で受けていたよな。しかも柳原可奈子みたいなお姉さんに指導されて。(※これは実話です)
 微:うるせえよ! この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられます。
 苦:疑惑しかない安倍政権はどうなるんだ?
 微:まあ、検察にやる気がないのでね。話を戻すと、まず、肉体の与える感覚は、しばしば間違うので偽とされ、また「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽として排除されます。
 苦:ヴァーチャル・リアリティもある21世紀には逆にリアルだな。
 微:これは極端な事例ですが、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、2+3=5のような計算も偽とされちゃいました。
 苦:じゃあ、偽の預言者、教祖にだまされて一生気づきそうにない人たちはどうなるんだ?
 微:実はデカルトの「真ならぬものの排除」は、「真理の源泉である神が実は悪い霊で、自分が認める全てのものが悪い霊の謀略にすぎないかもしれない」まで及んでいます。入念な人です。
 苦:オレがしょっちゅう仕事上のミスをするのも、悪い霊の謀略だな。
 微:それは「悪い事例の忘却」が原因でしょう。この方法的懐疑を経て、宇宙も肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残ることになります。
 苦:それをフィリップ・K・ディックに言ってこいよ。
 微:まあ、彼は病んでる人ですから。そして「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であると言えることを発見ました。
 苦:逃走中の疑心暗鬼の犯罪者は真理に近づいていると。
 微:自首すれば終わりますから関係ないです。有名な「われ思う、ゆえにわれ在り」です。
 苦:「われ働く、ゆえにわれ蟻」という働き蟻のぼやきじゃなかったのか。
 微:原語のフランス語では”Je pense, donc je suis.”なので「私は考える、(考えているが)ゆえに存在する」と訳した方が正確ですし、本来の含意も出ます。この言葉は1641年の『省察』に出てきます。
 苦:旧ソ連の強制収容所には「われ働く、ゆえにわれアリ」の標語が掲げられていたそうです。
 微:ちなみにラテン語の「コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum」は、デカルトと親交のあったメルセンヌ神父による高級化のためにラテン語訳です。
 苦:お菓子職人をパティシエ、起業するひとをアントレプレナーというようなもんだな。
 微:なお主語の「私」「われ」は人格としてのデカルトではありません。方法的懐疑を行い、明証から総合までを行っている「理性」としてのわたしです。
 苦:学生時代、哲学の講義を不眠症対策に利用していたキミには、その時、コギトはなかったと。
 微:余計なお世話だよ! 哲学の第一原理たる「コギト・エルゴ・スム」は、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立し、そしてこの命題が明晰かつ判明に知られるものです。
 苦:不断に生成を重ねながら存在する言語と文法と同じだと。
 微:それなので、その条件を真理を判定する一般規則として「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」とできるのです。なお、神の存在証明の話もあるんですが、ややこしいので割愛しますね。
 苦:逃げたな。
 微:なお、この方法的懐疑に関連して、デカルトは当時の哲学者として初めて、「表象」と「外在」の一致を疑いました。
 苦:カントの先達というか言語論的転回の先駆けだな。
 微:あるものが意識の中に現われている姿を哲学業界では表象と呼ぶんですが、プラトンやアリストテレスは表象と外在は一致すると考えました。
 苦:まあ、普通はそうだわな。大理石に内在する作品を削り出すわけだから。
 微:デカルトは表象をイデアと呼び、これは頭の中にだけ存在するとしました。結果的にデカルトは方法的懐疑を推し進めることで、のちにカントがコペルニクス的転回で解決する難問を発見したのです。
 苦:そんなの20年ぶりにクラス会に行けばすぐにわかるぞ。
 微:さて、デカルトの自然観、すなわち物体の本質と存在に関してですが、デカルトは幅・奥行き・高さの三次元空間の中で確保される性質、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉されると主張します。
 苦:延長すると急にサービス料上がるからな。デカルトも引っかかったんだな。
 微:どんな店だよ! 一方、熱いだの、甘いだの、重いなどの物体に関わる感覚的条件は、物体が感覚器官を触発することによって与えられます。
 苦:どれだけのスケベおやじが触覚の誘惑に負けて人生を棒に振っているか。
 微:痴漢は犯罪ですから。なにものかが人間の感覚に影響するには、与えるものがまずもって存在しなければならないので、物体は存在することがわかります。
 苦:それに人格を見出すと「初音ミクはオレの嫁」とか言い出すんだよな。
 微:しかし、存在するからといって、感覚によってその本質を理解することはできません。純粋な数学知のみが外在としての物体と対応するわけです。
 苦:それで都の西北大学の植草元教授は手鏡を使ってスカートの中に存在するものを確認しようとしたんだな。さすがトンデモ博士のコロニー。
 微:さらにデカルトは、物体の基本的な運動は直線運動であること、動いている物体は抵抗がない限り動き続けること(=慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(=運動量保存則)など、神によって保持される法則によって粒子の運動が確定されるとしました。
 苦:神は特別な奇跡を起こさない、法則として遍在していると。
 微:このことから、機械論的世界観が生まれます。明晰判明の規則により、物体の本質と存在が説明され、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証されます。
 苦:あかん、久々にパス1。
 微:神によって作り出された特別な時間や場所の存在は否定され、数学的・力学的世界として自然は理解されることになります。コギトをテコに、均質な時間と空間からなる世界は、その実在を明らかにされるのです。
 苦:じゃあ、なぜNHK教育の放送大学授業や成人式の市長の話は長く感じるのだろうか?
 微:退屈だからに決まってるだろ! この考えは宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違い、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要でです。
 苦:その意味ではニュートンの前座だな。
 微:先駆者と言いなさい!! ただデカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤りが多いのです。
 苦:それを証明して古典的力学を完成させるのがニュートンだと。でもこいつもイッてるよな。
 微:最後に、デカルトの数学への功績ですが、座標=2つの実数によって平面上の点の位置を表すという方法は、彼が発明し、『方法叙説』の中で初めて用いられました。
 苦:これを聞いたら全国の数学に苦しむ高校生が墓を暴くぞ。
 微:このデカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の基礎が築かれました。xy軸で描かれる座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっています。
 苦:確かに、数学的功労者ですね。
 微:また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方(a,b,c,…)を定数に、最後の方(…,x,y,z)に未知数を当て、係数を左に(例:2x)、乗数を右上に書く表記法はデカルトが始めました。
 苦:要するに、こいつさえいなければ、センター試験で数学はなかったのか!
 微:他の誰かが考案するから一緒なんだよ!(ペシッ!)

作者の補足と言い訳
 リアルなイマジネーション能力が生徒にあるかどうか、が方法的懐疑の理解の深さを決めてしまいます。「妄想も実力のうち」です。上記漫才でも書いた通り、「コギト・エルゴ・スム」のラテン語訳は不要だったと思います。本当は池田晶子『口伝 西洋哲学史』のデカルト分析というか批判、つまり「われ」の存在の確実性を崩しかねない穴をデカルトは見落としている(隠している)ところまで説明できれば教師冥利に尽きるのですが、これも永遠の夢でしょう。
 ですが、『ドラえもん』のパスティーシュの恐ろしいバージョン最終話、実はドラえもんもジャイアンもしずかちゃんも、植物状態にあるのび太のために、大金を払ってご両親が脳にそういう幸せなストーリーを送りこんでいるのだ、という現代医学なら可能となったオチを話し、「すべてを疑おうとしている<この自分>も根拠がない」ことを、なんとなく理解させることはできます。恐ろしい話ですが。
 本当なら1hで終わるのですが、授業では次の思考実験というかワークプリントをする時間を取って2hかけて内面・理性と人格の関係を問います。
 「脳移植が可能になったとする。そこで間寛平の脳を、脳死した木村拓哉に移植した場合、復活したその人間は間寛平なのか、それとも木村拓哉なのか? その根拠も述べよ。」
 この設問の答えは、授業を受けて確認してください。

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