合格体験記、というか浪人体験記

どうもこんにちは。最近大学の部活の浪人経験のある同期と浪人のことについて盛り上がったので、課題がだるかったこともあり、浪人期の一年を振り返ってみることにしたい。ちょうど今、人身事故で電車が止まっていることもあり手慰みに書く。

時は2023年3月10日、私は京都大学の工学部の入試に落ちた。
番号をスクロールする最中の高鳴る鼓動が、自分の番号がないとわかった瞬間に動きを止めて、なにか胃の中に冷たくて重いものがずーんとひろがり、それがやがて吐き気へと変化していくあのかんじを今でも覚えている。とっても好きな人に振られたかんじににてる。振られたことないけど。しかし大学受験は振られても1年後にしか再アタックできないというのがミソ。

そいうわけで浪人生活が開始。駿台京都校に通うことに。
幸い、そこには高校同期が結構いてくれてそれが心の救いであったし、彼らとのおしゃべりは息抜きになった。特に、m君と仲良くしていた。
これを考えると、宅浪って本当にしんどいと思う。

浪人期の4月から8月はもう永遠に遊んでいた。浪人期はバリバリの懲役期間なのに、わーいモラトリアム期間ができたぞ!と勘違いしていた。我ながら愛すべき馬鹿である。もちろん駿台には通うも、勉強する時間よりスマホをいじったり読書をする時間が長いのは当たり前、ひどいときには友達の家に泊まって勉強合宿をすると親に告げ、裏では友達の家に転がり込み1週間弱居座ってた。親不孝。たいした勉強もしてないのに、やってらんねえよとかいいながら友達と飲んでた。酒カス、いやこんな浪人生は飲んでも飲まなくてもカスである。
ちなみに、囚人エピを1つあげると、彼氏と狂ったように文通していた。今考えると本当に謎。自分が収監されている状況に酔っていたのだろうか。
夏の駿台京大実戦でc判定をとり、少し焦った。浪人生の判定は2ランクダウンで考えろとかいうわけわからん迷信があり、実質E判定。まずい。

そこからは囚人は自分の罪(勉強)と向き合うようになった。
勉強が軌道に乗ってきた10月頃、様々なハプニングが起こる。1つには、彼氏と別れたこと。双方同意であったので、分かれたことに対しての心の傷はなかったが、分かれて数日で相手がもうすでに新しい彼女を作ったことが私に致命傷を与えた。浮気か宝くじで1等を当てない限り、急に女はできないんだわ。ダウト。
2つには、ちょうどこの時期二回目の京大実戦がおわり、その結果で果たして自分が京大に出願してもいいものなのかと友人が案じ始めたことだ。m君もそのうちの一人で、なんと声をかけたらいいかわかんなかったし、見ててつらかった。
余談だが、二回目の実戦はA判定だった。えぇ判定。ふざけるな。

10月から2月ぐらいまでは、あんまり記憶がない。
唯一残っている記憶が、クリスマスにm君と話したサンタさんはいるかいないか論争ぐらい。子供の作り方のと同じぐらいサンタさんの正体は衝撃的だったとか、m君の子供時代の話や家族の話をきいてたら2時間以上経ってたことが唯一の思い出。
乾燥して気気のない日々の繰り返し。ルーティーンワーク。特に焦ることもなく、案ずることもなく。気づいたら入試が終わってて、気づいたら受かってた。無事1年の刑期を終えた模範囚はシャバへと放たれたのだ。終身刑じゃなくてホントによかった。m君もふくめ、駿台で仲良かった友達もほぼ受かったいた。Happy End。

浪人のここがすごい!
時間が無限にあったので、読書をするようになった
講師の人生哲学を聞けたのがかなりよい。
自分の将来について、改めて考え直せる時間になった。工学部志望から農学部志望へと変えたのもこのため。この理由については、いつもはちょけて「いや~工学部って男子多いから農学に変えたのはやっぱ女目当てっすわ」とかいっているが、これは話すとホントに長くなるのでまたいつかnoteに書きたい。

浪人のここがだめ
100万という金の重み。
提出物が出せなくなるのは、ホント。浪人中にあった提出物といえば、願書ぐらい。だから提出物という概念をわすれてしまい、困っている。
現役で入った人間のキラキラ感にたまに目がくらむ。

こんな長々と書くうちに、電車が動きだしそう。まったくおなかがぺこぺこだよ。空腹過ぎて、周囲の乗客を喰ってしまいまた運転見合わせになる前に電車が動いてくれて本当によかった。なので今日の浪人体験記はここまで。ご閲覧ありがとうございました。














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