それぞれの世階。



 お笑い芸人EXITのファンクラブに入ったのは9月か10月か。もともとEXITは好きで、2019年にEXITのネタパレを観てお笑いを観るようになったくらいなので好きなのだけど、ファンクラブが出来た時も、そんなに出費はできないからと入らなかった。けれど、兼近大樹さん(以下:かねち)の初小説『むきだし』の、りんたろー。さんが描いた装丁が欲しくてわざわざファンクラブ、entranceに入った。


 そしてすぐに小説を購入して、3日以内くらいには小説が届いた。


 かねちが初めて書いた小説。


 お笑いの仕事を少しセーブしてそれでも持ち番組もある忙しいなか、人生をかけて書いた小説。


 私はきちんと小説を書いたことがないから、小説を書くことに関して何かをコメントするのは難しいことなのだけれど、


 本を書く、何かを真剣に書く時は、
まさに文字通り血肉を削ることなのだと思う。




 かねちが、自分の人生を振り返りながら書いた作品。


 その昔、ピースの又吉さんの小説を読んで、その小説に魅了され、本を書きたいと考え、本を書く方法を知らなかったがゆえに、又吉さんを調べた。又吉さんがお笑い芸人だったから本を書くにはお笑い芸人になるのだと、そう考えてかねちはお笑い芸人になったそうだ。小説に関しては、以前から、2012年頃から長く構想をメモに書き続けていたとのこと。その間に2017年に現在の相方りんたろー。さんとM-1に出場、その後EXITを結成した。2018年には既に吉本最速で単独ライブ、ゴッドタンをきっかけに有名になり、やっと9年越しに小説を出したとインスタに書いていた。
 ちなみに、確かコンビを組む時、りんたろー。さんがかねちに、「おまえをスターにする」と口説いたと仰っていた気がする。かっこいい。



 そのような経緯もあるから、小説について書く前に、EXITの活動の仕方について少しだけ書いておきたい。
 EXITは本業は漫才をするお笑い芸人ではあるが、アパレルブランドもプロデュースしているし、歌も出しているし、モデルとしても起用されるし、スタイリングブランドもプロデュースしている。お笑い以外が副業なのではなく、どれも本気で、お笑い芸人という枠をこえている。先日GENESISで本格的な歌手デビューもした。私は、その働き方というか、いろんなことに挑戦するやり方がEXITらしさだと思っている。もしかしたら、生粋のお笑い好きの方や、古き良きのお笑い芸人の方々には、邪道というのか反対意見などはあるのかもしれないけれど、私は彼らのその、"何でもやる"、"型破り"(わたしには別にお笑い以外をやっているからといって本道でないという感覚はなかったが)感こそがEXITらしさな気がしているし、これからも興味を持ったことや、挑戦する機会があって彼らがやりたいと思うことをどんどんやってほしい。


 前置きが長くなってしまったが、こういう経緯を踏まえて、この小説を書くためにお笑い芸人として有名になるまで努力し、頑張り、努力と相方とタイミングが重なってEXITとして華々しく活躍するかねちが、又吉さんの本を読んで、又吉さんに憧れてお笑い芸人になった青年だったかねちが9年の時を経て書き上げたのが『むきだし』。


 ニュースなどにもなっていたから割愛するが、出版したのは、2019年の9月にかねちの過去の前科等を追いかけて報道した週刊文春を出している文藝部門の文藝春秋。ここから出版する、ということが意味のあることだったと思う。



 正確な言葉の引用ではないが、文春に叩かれたからと言ってそれで非難した側された側で終わらせず、そこから関係を築き小説を出す。叩かれたからといってそこで関係性を終わらせれば世界から分断は消えない。彼はそう言っていた。



インスタのハッシュタグにはこう記されていた。


どんなに嫌な奴でも、知らない奴でも、
背景を知った時に通じ合える部分はある

と。



 そして、これが、
この世界には分断があることを明示し、
分断をなくすためのひとつの手段であり過程が
小説の出版だったのだろう。




 初めて小説を書いたとは思えぬほど、
言葉は選び抜かれていて、著者本人が
よく本を読み、それも又吉さんなどに影響を受けてきた、きっとその、読んできた本の、文章構成や言葉の選び方に影響されているのだろうと思えたし、この小説は、まさに血肉を削って書かれたのだと思った。それが第一の感想。




 かねちは、この本を読んだら、
主人公に対してムカつくという感情を持つだろうとか、親や友人の目線だとまた違うと語ってきた気がするのだけれど、私の視点はあくまで読者だった。かといって「これは小説だ」と思えるほどの非リアル感はなく、どこかに生きる誰かとして"デコンテクスチュアライズ"されていた。にもかかわらず私は第三者だった。
 一番近い感覚は、「教師」という立場のようにも感じるが、それはこの小説に出てくる担任の先生などではなく、あくまで「他人」という立場の教師の視点。




(かなりネタバレ含みます)

 主人公はお笑い芸人。
「entrance 」というコンビを組んでいる。

  その主人公のお笑い芸人としての設定は、
兼近さん自身をモデルにしているというより、本人を置き換えているといってもよいと思えるほど。entrance というコンビ名もはじめに記載される仕事内容も。だって相方の名前「中島さん」だし。りんたろー。やん。


 物語は、主人公石山に週刊文春が突撃したところから展開する。
 これが、かねちが書きたかったことのはじまりのきっかけ。
 物語はここから一気に石山の過去、幼少期に戻る。


 石山少年は、同級生のおうちのさくらんぼをとって食べたり、近所の田んぼを荒らしたり知らない人の車に落書きするような“いたずらっ子”。住んでいる場所は、のちにすすきのの彼女が出てくるので彼も北海道。


 たぶん、わからないけれど、この時点で
23区内や横浜、
海外暮らしも首都で暮らしていた私とは
全く環境が違っていて、だから、そこから私は想像を馳せなければならないけれど、自分の経験していないことを十二分に思い描けないから、私の頭の中の想像とはきっと環境は異なる。


 石山少年は祖母にはいつもいたずらしてと思われているからはなから叱られ、祖父は彼が
泣いても「男なんだから強くなるためだ」(p.14)といって殴る。父親はほぼいないようなもので母が必死に働いて彼ら子どもを育てている。


 そんな家庭にいる彼は学校でも先生に叱られる。叱られるのは彼が同級生を殴ったりしてしまうからで、それは彼が家で、「言うことを聞かなければ殴られる」という経験を祖父から受けていて彼はそれを日常として享受しているからだったが、教師は気づいていないようだ。彼の論理で言えば「自分の言うことを聞かないから同級生を殴った」となるわけだ。彼は先生たちに「なんでみんなと同じようにできないの」と叱られるたび、みんなが何をしているかわからないから同じようにできず、「宿題をやってきなさい」といわれてもなぜやって来るのかをわからないと考えていた。



 他の保護者や親の立場にたつと、
ただ、訳のわからない児童で、彼の担任の先生からすると、面倒で手の焼ける児童として扱われているけれど、
この小説をあくまで「第三者」としての教師の立場のような感覚でいた私には彼の先生に対し、「これだけ問題を起こすように見える子は何かしらの背景があるだろうに、もっとそういうところを聞かないのかな、見ないのかな」と感じていた。
 ただ、一方で、主人公がこの時点で小学生だからこそ、私は彼の「手の焼ける」それを理解しようとし得るのであって、あくまで第三者としてそして既に物語内で彼の家庭事情が記されているから彼の立場へ歩み寄ろうとできるのであって、もし目の前に訳もわからず騒ぎ、他の児童の邪魔となったり、もしくは自身が教員としてその統率をとれず、保護者などから苦情がきていたら、どう向き合えたかは自信がない。


 いつも悪さをしていると、自分がやっていないときまで疑われ、なんならやってもいないうちに「あんただろう」「たぶんうちの子が」と決めつけられ親にも信じてもらえない石山のあのシーンは、私自身もたくさん経験した。私の場合、親に「あんたの過去の行いを考えたら信用できない」といわれてきたし、私も小さい頃からちょこちょこ悪さをして何度も怒られ、叱られ、自分が悪いのもわかっていたから少しずつ大人になっていくなかで、自身のせいじゃないのに信用がなくて疑われるのは自分が悪いとわかっていたけど、やっぱり本当にやっていない時にやったと決めつけられ話も聞かずに怒られ、言い返したりすればつねられたり殴られたり外に何時間もだされたり、嫌だったな。



 自分が悪いことをして叱られたとき、私が悪いからいけないんだとわかっていて、だからそうされるのは当たり前だと思っていたけれど、力の強い父に叱られると腕や脚や身体中、つねった強い力で痣だらけで、学校にいくと先生に呼び止められたり、友達に心配されたり。でも、自分が悪いから、叱られるのは仕方ないし、力が強くて痣だらけになっただけで、お父さんもつねったり叩きたかったわけじゃないって、わたしはそう思っていた。

 母が、「痣が見えるから暴力はやめて」と止めると、父はよく言っていた。

 「口で言ってもわからない、なおらないからこうするんだ」って。



 それを、私も自分が悪いと思っていた。大学生になって、いや本当はもっと前から、私が悪いからって暴力は違うって思っていた。でも、自分が悪いことをしたのが先だから、言い返さなかったし、そうしたちょっとした暴力も受け入れていた。



 話を小説に戻そう。主人公の母は夜も仕事をしている。そんなある日、彼の母が癌で入院した。石山少年は、彼の母が家にいなくなってから学校で暴れた日に家に帰ってきて玄関に書いた「ママのバカ」の文字をみて後悔した。



 彼は家では(母親がいないから)ご飯を食べられないから学校の給食を食べて腹を満たし、それでみんなが注目してくれるのが次第に嬉しくなっていく。ある日、友達を泣かせた男の子をボコボコにしたらみんなから称賛され、先生にも「いじめから守ったなんて凄いな」と彼に、おそらくはじめて称賛の目が向けられた。
 注目される快感を感じるようになった彼は、それまで自分のことばかりだったが、彼自身の家庭環境を少し感じ、考えるようになる。石山が、彼の家庭環境をはっきりと客観的に認識するようになったのがここだ。彼の家は貧乏で、おさがりばかりで新しいゲームも野球のための道具も学校に必要なものも持ってはいなかった。そしてだんだんと彼は、家庭の貧しさも両親の不仲も何もかも自分が生まれてきたからだと、自分がいるからだと自責の念にかられる。


 第三者でいる私にはそれが虚しく思う。虚しく思うのは私が第三者、あくまで「他人」の立場だからとわかっているけれど。

 彼の暴力的なところは、確かに彼自身の責任の部分もあるけれど、それにしたって彼の環境の是正は必要で、彼のそんな裏の事情と向き合わなければ、真の意味での解決などしないと。



 中学生になった石山少年は、学区が違うおかげで小学校の同級生のほとんどと異なる学校に進学した。だが、彼への理解(小学校のときの彼を知っているという意味で)のない環境は、再び同級生にも教師にも理解されない寂しさを、怒りを産み出した。そして両親は離婚し、彼も小学生の時より現実が見えるようになり、勉強も部活も頑張ったところで夢なんて叶わないとわかってきて、周りの同級生たちは自分とは違っているのだとわかりはじめた。 


 人より繊細な彼は、繊細だからこそ、
鈍感さをもちあわせて不幸に気付かぬふりをしていないと世の中を逞しくいきられないことにも気付いていた。中2で新聞配達をはじめ、給食のために学校に行き、それから部活にいく。そんな生活を繰り返すある日、再び彼は、小学生の時のように、やっていないはずの女性教師への暴力の嫌疑をかけられた。その時、別の教師に貧乏を言い訳にするな、甘えすぎだと怒られる。


 ー これが言い訳?貧乏が言い訳?新聞配達しなきゃやりたいことも出来ないんだぜ?俺だってみんなと同じような普通の家に生まれたかった。それに、まず殴ってない。やっていないのになんで責められなきゃなんないんだよ。 ー
 (p.96)



 彼は感情をむきだしにしているが、
誰かには言葉にしない。


 読んでいて私は、石山くんという人物は大人の顔をとても観察している人だと感じた。彼は中学生にしては痛いほどに世の中の非情さとか、貧困や貧富の差とか、その貧富のどこにいるかで全然生きていく階層が違うんだってこととか、その、階層のなかを無意識に気付かぬうちに生きている大人とか、そんなものを、全身で感じていて、歪んだ現実、綺麗事でない世界のなかにいるのだとわかっている。そして実際、貧困とそれによる現状いう状態を経験している。
 知識として知っているのと、体験しているのは天と地ほど異なる。
 私は中高生の時、彼ほどに当事者として感じられなかった。貧富の差は見てきたけれど当事者ではなかったし、階層を感じなかったのは、きっと自分がその、階層のなかで恵れたところにいたからなのだと思う。


 自身がマイノリティにいると、もしくは虐げられていると、そういう立場にいるということも、他の人はそういう立場ではないのだ、他の人は違うのだということもわからないのだろう。それに気づくのは、自分は他の人とは違うのだということを痛いほど知らされる時なのかもしれない。階層に気づく人は、そうした場面に直面した人で、自分とは階層の異なる人と出会った人で、階層が違うことで与えられる環境、教育、社会、進路、未来が異なることをよくわかっている人は、それを当事者として経験し、自分がいる環境が他者とは異なることに気づいた人なのだろう。


 一方で、社会の大多数、マジョリティを形成するのも、国を動かしていくのも、その多くは恵まれた環境で生きてきて、階層にも気づかない人たちである。


 家庭の事情をわかっている彼は、高校を落ちたということにして働くと決めた。「落ちてしまったから働くのだ」という親に対する優しい嘘のための、一応"アリバイ"として形だけの受験のために高校の前にいくとそこにあるわけのない楽しそうな未来にやはり想像を働かせてしまった。高校には行かないと、行けないと彼自身が家庭事情を鑑みて諦めざるを得ないと決めたその決断。しかし、彼が高校進学を諦めなければならなかったのは、やっぱり貧困のせいだったかもしれない。高校進学を諦めた彼は、母が「息子を高校に行かせてあげられなかった」とならないために自分で働いたお金で定時制高校へ入り、さらに定時制高校に通いながら働いている。その、働きはじめた会社で彼は暴力暴言を浴びせられいじめられていた。


 ふと外をみれば同い年くらいの高校生たちが楽しそうに「高校生の日常」を送っている。一方、彼の家は父親の借金、お金の宛は彼の給与のみなのに母は生活保護を受けない。意地を張る母に苛立って母に「もういい、勝手に死ねよ」(p.126)といった彼は、家族を傷つけたことをきちんと認識していた。


ー 貧乏じゃなければ、金さえあれば、
誰も傷付けずに生きていけるのに。 ー (p.127)


 無意識下で貧乏のなかあがき、暴れていた少年は我が身の状況を認識して自責の念にかられ、そして今度は意識下において、貧乏である自分の状況と世の中の不条理を認識した。そして、その上でさらに、その不条理を言い訳にしている自分の不甲斐なさにまで気づく。側から見える目の前の彼は、暴れたりろくなことをしない子かもしれないけれど、彼は小さいころから小さいなりに冷静で、自分と向き合っているのがうかがえる。


ー 同じ歳の人たちが夢を膨らませて日々を過ごしている悔しさ、生まれ落ちた場所を言い訳にしている自分への恥ずかしさ、早起きして作ってくれたママの弁当の前で泣いている不甲斐なさ、あのおじさんが食べられない弁当を前にして悩んでいる傲慢さ、この世界から疎外されている切なさ、どこにも属していないし、何にも溶け込めていない。
 俺がこの世から消えたって、この広くて眩しい空は上映され続ける。
 そして皆、いい天気だねって観覧する。
 孤独感に押し潰されて、どう膨らませばいいのかわからない。 ー (p.127)


 自分に苛立って母を傷つけた彼の気持ちが、戸惑いが、苦しさが文字から滲み出て、今まで第三者的視点にいた読者だった私が、少しずつ小説の彼の立場にはいっていった。彼の怒りが、悔しさが、恥ずかしさが、その感情の破片が私の心にも少し滲んだ。


 石山少年と仲良くなる未来という女の子はまた、母子家庭で「国の人が用意してくれた」という家に住み、家には飲み物すらない。そして彼女の母は自殺し、その遺体を彼女は一人で確認したという過去を持っている。彼は未来の体を自分に寄せてから、施設に育ち親のいなかった友人のこと、家庭内暴力で親と離れて生きていた友人のことを思い出し、自分には彼女たちとは違い父も母もいて兄も妹もいとこも遊べる友人も働いていればお金があることも、つながりがたくさんあって誰かが助けてくれるだろうことを思い、自分は恵まれているのだと痛感する。


 さて、そんな未来や石山少年の環境と比較して、私はどうなのだろう。私の心はちくっとする。


 未来を目の当たりにした彼は、貧乏さゆえに自分だけが「言い訳ばかりするな」と言われてきたそれにそれまで怒ってきたが自分は言い訳していたのではないかと考えはじめる。そうして彼は逃げないためにとテレアポの会社で働きはじめたが気付かぬ間に、詐欺に加担した。さらに小学生のとき自分に逆らう同級生にした時と同じように、街ではイラついた相手に喧嘩をふっかけジャブを喰らわせてしまう。わかっていたはずなのに、あやまった道へ知らずしらず戻ったり引き込まれたりする石山くん。喧嘩をして怪我をさせた相手の家に、母親と謝りに行った帰り道、彼は後悔していた。それは、謝りに行った際殴った相手もまた裕福ではなかったことを知り、何もかもを貧乏のせいにしている自分を自覚し、相手のことに初めて思いを馳せ、相手の状況を想像したのだった。


ー 今までも何度かあった。何度も、何度も振り返るチャンスはあったと思う。
 後悔しては、神様に頼り、反省しては、忘れていた。 ー (pp.158-159)


 ー 殴った相手が色んなことを抱えて生きているすげぇヤツだなんて、考えたことがなかった。俺が今まで殴ってきた相手、その家族のことも想像する。
 調子こいてる奴は気に入らない。って、俺と同じように、調子こいてる理由があったのかな。 
 わかってあげられたのに、仲良くなれたかもしれないのに。 ー (p.159)


 そして彼は、自分が自分のことばかりだったこと、この世の中には他者も自分と同じように別の道を生きていて、その道がいろんなところで交差し、その道にはまた別の家族や友人が交わって今があって、そんないろんな人の物語が交わって、重なって、集まってこの世の中があるのだとそんなことを考え始めた。


 こんなことを、
真剣に考えられるティーンはそうそういないと思う。


 そうして、人に想いを馳せるようになった彼は、今度は仕事でさまざまな人と出会う。デートクラブで働き始めた彼は、女の子たちを送迎するなかで、さまざまな理由でお金が必要な子たちを知る。
 彼女たち一人一人のことなど考えていなくて、太っているか痩せているかオッパイが大きいかどうか、どこまでの行為がOKかだけを気にする客の大人たち。女の子たちは、そんな男たちを怒らせないように、嫌な誘いを上手に断る方法を身につけなければならない。彼はその現実をみた。そして、男から守ってあげられなかった女の子、飲んだ酒に薬を盛られていてそのまま少年院行きになった女の子、堕胎せねばならなくなった女の子の存在を目の前で経験する。デートクラブを辞めた後、そうした仕事のための"講習"(ここに記載するにはヘビーなので読んで欲しい)を開いていた彼は売春防止法違反の疑いで逮捕された。自宅に警察が逮捕しにきた時、母は「その子は悪い子じゃないですーーー!!!」「わたしが悪いんです!わたしがその道に行かせてしまったんです!!!」(p.198)と泣いた。


ー母のあんな泣いている姿、親父に泣かされてるとき以来だったなぁ。
 俺は、人に感謝なんかしていなかったんだと思う。だって色んな記憶をなくしているから。(中略)
 仕事で忙しい中でも、お金がなくてご飯が買えない時も、母は、しっかり母をやっていた。
 俺は、自分が不幸でありたくて。そうすることで色んな人に構ってもらえるから、記憶から排除してたのかな。 ー (p.200)


 小説内で、石山が、母に対して申し訳なく思い反省するたび、その言葉が私の身体に跳ね返ってきて突き刺さった。私は、、私はどうなのだろうと、鑑を見せられてる気がした。いや、こんなにも反省をしている石山の方が、私なんかよりずっとずっと心優しいと思った。


 逮捕されムショ入りした石山に
デートクラブの女の子、鈴代から本が差し入れられた。



 そして、これが彼の人生をかえはじめる。


 まさかジープで来るとは。 
 (又吉氏の本)
 カキフライがないならこなかった 
 (又吉氏とせきしろ氏の共著)
 "だいにとしょけい?"
 (又吉氏の『第二図書係補佐』)


 ほぼ小卒の彼は読めない文字やわからないこともあったけれど、それでも情景が頭に浮かぶ本、面白くて彼は本を読むのを楽しみにするようになった。それから文字や言葉をムショの中のおじさんに教えてもらって勉強した。


 鈴代から差し入れられる本、おっちゃんの分の本を読み漁ると、自分だけだと思っていたことを、同じことを考えている人がいると知った。


 ー 自分の経験との擦り合わせ、想像力が膨らむのがわかった。多角的に物事を考えられるようになった。
 こんな狭い部屋にいるのに、世界がどんどん広がっている。 ー (p.206)


 彼は、本を読むことで自分の経験し得なかった、自分の知らない世界に、その物語の登場人物の物語を内側から辿って本の中であらゆる人生を間接的に経験した。孤独だと思っていた自分と似たようなことを考える人がこの世の中にいると知った。そして彼は、これまでの自分の人生、あの時の自分の思い、どんな人間なのか、どのようにして今の自分になったのかを振り返り真面目に生きている人間の時間を浪費し、夢や目標を潰したのではないかと、今まで無理矢理やらされていたと、なぜ自分ばかりこんな…と思いながら起こしてきた悪事は自分が不都合な記憶を塗り替えているだけのではないかとハッとする。


 刑事は彼にいう。ここから出たら札幌を出て今の仲間と縁を切れと。


ー 本当にしたいのは、又吉のようなお笑い芸人。
 笑うの好きだし、笑ってもらえるのも好きだ。 ー(p.225)


ー 人を笑わせる毎日って楽しそうだよな。今まで嫌な思いをさせてきた人たちの分まで、誰かを幸せにする。 (中略)許される為じゃなく、自分も楽しむ行為。 沢山の人を笑わせて、日々辛いことの出口になれる存在になりたい。(中略)売れたら本を書いたりなんかして、誰かが檻の中で俺の本を読んでくれたりしてさ、一人じゃないよって、一緒だぜって、同じ階層に連れ出す階段になれたらいいよなぁ。 ー (p.226)


  きっと、これが、著者、兼近大樹がお笑い芸人になった理由のひとつ、で、彼がコンビ名をEXIT(「出口」の意の英語)とした想いだろう。





  檻を出た石山は、檻で出会った男とバーをはじめ、人と話し、笑わせ方や盛り上げ方、空気を読むことの重要性を学んだが、今度はそのバーのオーナーに利用されて再び警察が来て家宅捜索された。同じようなことを繰り返してやっと彼は、これまでの全てのつながり、生きてきた環境を捨てないといけないのだと、そうでなければ何も変わらないのだと認識した。家族と二人の友人以外には自分は死んだことにして徹底的に繋がりを排除した。


 言い訳ばかりで、環境のせいにして、
自分の不幸はすべて自分のもつ不幸さによるものだと考えていた彼がはっきりと考えを改めた。


ー もう自分の人生に言い訳しない。後悔しない為に学ぶ。そして面白い人間に、求められる人間になる。
 人を笑顔にして、幸せにして、俺も一緒に笑うんだ。
 今まで、なんでもテキトーに生きてきた。
 適当って言葉の本当の意味は、目的や要求にピッタリと合っている、相応しいということ。これからは、適当に楽しく生きよう。 ー (p.234)


 そう決意して彼は、許されざる過去の過ちを背負いながら、自分のために、人のために歩み始めたのだろう。冒頭、記者に過去のことを詰め寄られる場面へ戻る。彼の過去を知った世間は、突然彼へ刃を剥き出しにした。



ー 「美談にするな」「産んだ親が大罪」「今もやってる目をしている」「一生のお願いだから消えてくれ」「この世に必要のない人」「普通の人間じゃない」ー (pp.238-239より抜粋)




 "世間"は、彼に面と向かってだったら言えないようなそんな言葉を、"傍観者"であり続けたまま"他者"であり続けた状態で、画面の向こうの彼に浴びせる。その在り方は、結局のところ、いつぞやかのオウムの時の「我ら」とは異なる「彼ら」というメディアが作り出した対比を、SNSに乗って(オウム事件当時で言えばSNSはまだほとんどないが)メディアという大きな乗合馬車とそこに乗っかるSNSの向こうの多くの乗合馬車に乗る人たちとして、「その他大勢」という大きな塊でしか言えないようなことを言えたあの時と同じように、我々はまた同じことを繰り返している。



 彼はそのことを十二分に受け入れた上で、自身の悪事や事実は認めた上で、それでもお笑い芸人になる時に、やはりまた、他者と自分では過去に生きてきた軌跡が違うとこんなにも「面白い」と思うことへの擦り合わせや世間との価値観のズレを思い知らされたのだろう。小さい頃、他の人とは異なる状況にいると知って暴力的でしかいられなかった彼はしかし、大人になりその違いを、人を理解しようと観察し勉強した。常識を学ぼうとひたむきだったろう。



 小説の石山のどこまでがかねちと重なっていてどこがつくった部分かはわからないけれど、兼近さんの考えの根底はすべて、彼が経験し、生きてきて、感じ、学び取って、それを大人になって少しずつ整理できるようになってきたからこそのものだろう。


 そうして芸人として生きていくうち主人公・石山のアカウントに、自分は死んだことにしておいて連絡を絶った未来からテレビで見たと「幸せだから安心してください」と連絡がくる。さらに、そのタイミングで先輩の中島さんに「絶対に売れる、保証する、1年だけくれ。スターにするから。俺はお前の過去も背負う」と口説かれて中島さんとentranceというコンビを組んだ。



ー ウザくてダルチャラいキャラクター。
 世の中から嫌われる奴らだからコンビ名は、よりダサい方がいい。
 俺らは、entranceと名付けた。
 素晴らしき世界への入口になれるように。 ー
(p.252)




 もちろんこの小説はあくまでフィクションだけれども、かねちは、この世界の分断を、自分が生きて経験してきた階層の違いを認識した上で、知らないことが、「無知」が、断絶や差別、階層を生むのだと経験的にわかったのだろう。そして経験した上で、他者と歩み寄れない我らに、少しずつ、その分断をなくしていこうよ、とあくまで彼の意見として、押し付けるのではなく、主張しているのだろう。そして、彼はその為に、その分断をなくすための小さな揺れとして、目の前の人を笑わせたい、人から受けた優しさを誰かに還元したい、きっとそこから少しずつ優しさを受けた誰かがまた他の誰かに、と繋がっていくと信じているのだろう。



 EXITというコンビ名には、後付けの意味合いとして、「日常辛い思いをしている人たちの、笑いで出口になれるようなコンビ」もつけたそうだ。


 幼い頃、感情をむきだしにして注目を集めるしかなかった石山くん。

 世の中の不平等さ、不公平さへの怒りをむきだしにしていた彼。

 他者に理解されない寂しさを、怒りを、頑張ったって報われないこの世を、ずっと溜め込んでいた彼。教師に向けられなかった気持ちを、いたずらなどでむき出しにしていた彼。


 幼少期、注目を集める為にブツをむき出しにした石山くんは今、そんなことをせずとも注目され、人を笑わせられる人となり、誰かのはけ口に、出口になった。




 そして、私にとってのかねちもそのひとりだった。


かねちの過ちを知った世間は、
突如彼への刃をむき出しにした。
世間は、thoughtlessに陥るとそうなっていくのだろう。


 かねちの騒動や人生のことなど知るずっと前、
私はお笑いに疎くてほとんど知らなかったし、誰のコントを見てもほとんど笑いどころも全然わからなくてお笑いとは無縁の家庭で生きてきた。


 お笑いは、家では「くだらないもの」で
そんなものを観ているのは「アホ」だと
父親に言われて育った。


 そんな私が2019年、夜神くんの家でたまたま一緒に観ていたお笑いの番組で(たぶんネタパレだったと思う)、はじめてEXITの「ジブリ映画」のネタを観て笑ったのだ。そして、ずっと肩に力が入って苦しかった私が、彼らのネタを観た時間だけ、心がふわっとほぐれて、肩の力が少し抜けて、心から笑った。



 あの頃、私は苦しくて、夜神くんの存在だけが生きてる理由で、夜神くんに愛されたくて仕方なかった。今だってそうそう変わりないけれど、あの頃の私は、もっともっと決断できなくて断れなくて、嫌といえなくて、嫌われたくなくて、何もかも苦しいと思っていた。


 その私が、心の底からふっとやっと笑えたのが
EXITのジブリネタだった。


 そして、その私を救った彼、かねちは、
私の生きてきた、知っている人生とは全く異なる環境と経験をしてきた。


 確かに、当事者としての理解ではなかったけれど、私は第三者として彼の言っていることを理解できるし、第三者として今まで彼が主張するような環境や状況、世界、世階に対してやはり同じように、いや同じようにではないかもしれないけれど、違和感や怒りを感じていた。世界の分断は、理解し合えないことから生まれる、というよりは知らないことから生まれるのだろう。相手がどんな状況かを知らない、相手のことを知らない。知識を知らない。




 差別は無知から生まれる。

 偏見は無知から生まれる。

 そして、その無知から生まれた分断は
「我」と「彼」だけではなく
大きな目に見えない"世間"という名のもとに
生み出された「我ら」と「彼ら」の分断をつくりあげ、意図的に生み出される二項対立で、誰かを排除する。


 けれど、昔、オウムについて、村上春樹氏の本について語った時にnoteに書いたように、


 彼らを排除した社会は、みんなで作り上げられるはずの「輪」からどんどん排除した分だけ歪な形に小さくなるだけだし、私たちは排除しようとしている彼らという鏡像に映し出された我らでしかいられなくなる。


 背景を知ったら相手と分かり合えるかどうかは、私にはわからないけれど、少なくとも
わかり合おうとする努力をしようと思えるようになるのかもしれない。


 今回、多くの引用も交えて、本を読んだ感想を書いていく、というつもりで書き始めたのだけれど、本を読んだ後、言葉が溢れて、いや言葉にならない何かが凌駕して、うまく書くことが、まとめることができなかったようにも思う。


 ただ、この本やかねちに批判がこようとも世の中への自分の意思を、「むきだし」にすることは著名な彼ができる大きな力であるし、無名というか、ただの一般人の私においても、

誰かと分かりあおうとするとき、
誰かと真剣に向き合おうとするとき、
自分自身と向き合う時
やはり自分というものをある程度むきだしにする必要があったり、むきだしにしたかったりするものだと感じた。



むき出しにした、むき出されたそこに、
たぶん、私の本質もあるのかもしれない。




 彼の小説は、読み始めた日は仕事ですごく疲れていて一気には読めなかったけれど、一度寝た後によみはじめたらそこから一気に読み切ってしまった。わたしの中で何かがふつふつと静かにわきはじめていた。


 二度目に読んだ時は、一気に読み切って、何度も印象的な言葉の言い回しを頭の中でなめてまわった。


 読んでも読んでも、かねちのように言葉を巧みに使えず、わたしのなかの奥底の部分でグツグツと煮えたぎる火山の底は、結局まだ煮えたぎらずうまく噴き出してこなかったけれど、それでも、今の私のままで、感じたことを書きたかった。



 かねちの人生の欠片と石山の人生の欠片と私の人生の欠片が入り混じって、entrance会員限定の『むき出し』の表紙に、りんたろー。が書いた「階層」をイメージしたあの青や紫や赤や黄色の、どこかでつながりあって、けれど別の方向を向いていて、どこかには出口のある階段のなかを、著者も石山も私も彷徨ってすれ違って、交わっているような、そんな気がした。



 それぞれに色の違う世階にいるけれど、向いている方向も辿ってきた道も違うかもしれないけれど、この世階でEXITに、かねちに、そしてかねちが描いた石山に出会うことができてよかったと思う。

 それぞれの世階で、その世階に生きる人それぞれの人生があって、常識があって、ルールがあって、生き方があって、それを理解することも、受け入れることも難しいことだけれど、それぞれの世階にいろんな人がいて、「この人にも何かの背景があるのかもしれない」と少し想いを馳せる余裕をもっておくことが、そしてそれは余裕を持っておける側にいる人にしかなかなかにできないことだけれど、そうできる人がそうしてみることが、何か分かり合えるきっかけになるかもしれないし、根本的には相手のことを理解できないのだと思うことこそが、他者を許容する隙間をつくることになるんだと、私は思う。


 似たような家庭環境、似たような教育課程、似たような進路選択で仲の良い友人にだって全然理解し合えない人がいる。そんなもんなんだろう。


 だから、自分と相手が心地よくいられる距離まで離れるというのも、分断をつくらないひとつの策かもしれない。切るのではなくて、理解しようと努力し、お互いのことを考えた上で、お互いが平和で仲良くいられる距離にいる。それが時には関係がなくなることになったとしても相手を意識的に自分の世界と切り離し遠ざけ切ろうとする「分断」よりは、ずっと遠い自分の世界と同じようにどこかで生きる誰かの世界、私とは仲良くできなかったけれど彼、彼女にも大切な人がいて、大切にしてくれる人がいて、私には私の人生とコミュニティがあるから、相手によって自分が心地よくいられる程度の距離に留めておくことが、今のわたしにとってできる「分断のない世界」の手段だ。



 根本的に相手を理解することなどできない。
だけれども、理解しようと努力をしたい。
 そしてそのためには、世の中には間違いなく階層があって、世階があって、生きている場所も、生きてきた環境も過程も、そこで培ってきた考え方も、何もかもみんな少しずつ違うのだと、ちゃんとわかっていたい。


 最後に付け加えておこう。


 小説は、作者にしかその意図や本当の想いはわからない。だからこれは私なりの解釈と感想と感覚。


 一方で、小説は作者に生み出されて完成され世に放たれた瞬間、作者のものでもなくなる。この場合、作者が意図した意味や想い以外のものが積み重なりはじめるということ。それらは、作者の手を離れて、読んだ読者や世の中のあらゆる人の手を伝わり、それぞれに解釈されたり受け入れられたり拒絶されたりするものだと思う。


 だから、ここに書いたことも、今の私なりの、この小説への感想だし、数ヶ月後や数年後の私は変わっているだろうし、他の人の解釈も異なるだろうし、もちろん、作者の意図しないこともたくさんあるだろう。でも、


だからこそ、ストーリーって面白いね。



 この小説も、誰の視点で読むのか、誰の視点で描かれたのかできっと全く異なるストーリーになる。
 そして、きっと読み返すごとに、さまざまな発見がある。


 私は、大学院でストーリーテリングの研究をしていたのだけれど、この本を読んで、2回読んで、久しぶりに、そういうことを考える楽しさを実感できた。


 だから、これは、いま、むきだしを
読んだ時のわたしの世階からみた感想。


 このnoteの題名も、


 「それぞれの世階。」のあとに

サブタイトルをつけておこう。


「それぞれの世階。
 ー『むきだし』を読んで。ー」


 兼近大樹. (2021). 『むき出し』. 東京:文藝春秋.


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