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人生を変える30日チャレンジ12

 ついこの間、年が明けたような、
でも、この1月はいろんなことを、
したからもっとずっと時間が
経ったような気もする。


 「人生を変える30日チャレンジ」を
はじめようと、そのチャレンジ内容を
見ていた時、12日目のチャレンジは
具体的に何か行動するわけではないから、簡単なように見えていた。



 しかし、
チャレンジを続けていくなかで、
ついにその12日目がくると、
具体的に何をしたら達成するのか、
わからなかった。



 この日は、
お昼前にジムに出かけたが
この、チャレンジ内容を書いている
ノートは家に置いてきて、
いつも携帯のカレンダーに、
チャレンジ内容を書いているのに
メモしてくるのも忘れてしまった。


ジムが終わって少し時間のあった私は、
さぁ、今日のチャレンジを、
と思ったが、手帳にも携帯にも
メモをしていなかったから、
さっぱり今日のチャレンジがわからない。


 結局、気になって早々に帰宅した。


帰宅して少し休んでから、
みかんを手に、ノートを開く。



 チャレンジ12

 「正直でいる」



 ノートを開いた私は、

 正直とは何かを考えていた。


  正直でいることと素直なことは
異なる。


 ふと、頭にそう浮かんで、
調べてみた。


正直=性格や言動に「嘘偽りがない」状態のこと。

素直=相手から見て性格が捻くれていなくて、あえて人に逆らわないさま。

参照


  正直と素直が異なるというのは
なんとなくわかるけれど、
具体的に説明しろと言われると、
なかなか難しい。


 正直という言葉を使った例文と
素直という言葉を使う文脈を考えてみた。


正直

 正直に告白する。

 正直に伝える。


素直

 命令に素直に従う。

 あの子は素直な子だ。


 何人か記載していたけれど、
やはり辞書の通り、

正直という言葉は、「私目線」の
主観的な物差しで測るもので

素直という言葉は「他者目線」の
客観的な物差しで測るもの

という違いという説明が
最もしっくりきた。

 だから、
「正直でいる」というチャレンジには

「私が、私に嘘をついていないか」と


「私の性格や言動に嘘偽りがないか」
(これはつまり結局のところ、
主観的な評価で見つめるものだ)


という軸で判断することになる。


 夕方より少し前、

このチャレンジに取り組むために

正直とは何かを考えはじめた私は、


残りの時間を


「正直とは何か」について

「私が私に嘘をつかないとは
如何なることか」について
哲学することにした。


 これでも一応、
英米文学科の出身だから
英語の違いで考えてみよう。


正直という単語に近い単語

 honest
 「嘘偽りない」


 genuine
「誠実な」「純粋な」

 sincere
「誠実な」「偽りのない」


 truth
「真実」


 frank
「率直」


 uprightness
「清廉」「潔白」「剛直」

 probity
「誠実」「高潔」


 並べてみると、英語の場合は、

正直という言葉に近い言葉たちは、
どれも「真であること」「真実」という意味合いな気もしてくる。


 真実、とはどういうことなのか。

 真理とはどう違うのか。


真実=嘘偽りのないこと。本当のこと。
(honest, sincereに近いのか)
絶対の真理。


真実が、「絶対の真理」ということは、真理というものは、絶対的でない
という前提があるということになる。


真理=確実な根拠によって、
本当であると認められたこと。
いつどんな時にも、
変わらない正しい筋道。


どんな時にも変わらない、つまり、
不変である、と記載されている真理

認める、ということは、
誰かしらまたは、集合体の「基準」
があるということか。

では、なぜ、真実という言葉に、
絶対の真理とつけるのだろうか。


 正直という言葉について
考え始めると、哲学しなければならないことが多くなった。


 正直(しょうじき)は、

正直(せいちょく)とも読むらしい。

正直(せいちょく)=
己の心にまっすぐであること

(論語のなかの、孔子の教え)

やはり、これも、“己の心”が基準。



また、北畠親房の『神皇正統記』には

偏邪虚偽がなく廉潔であること、
神への意識を背後にした公正さの観念、として三種の神器の象徴する、
三徳の一つに、
「鏡のように、万事につけ私心なく是非善悪の姿に感応する徳」とし、
私心のなさを基準とした判断と実行としているという。


 調べれば調べるほど、
わかるようなわからないような。


 一応、手元に持っている『聖書』もペラペラと巡ってみたが、

 「嘘を述べない」

 「偽りを言うものは…」

とはあっても、
みたところ「正直」という言葉は
検索にヒットしない。


正直、という概念は
西洋のものではないのだろうか。



 「正直でいなさい」というのは
小さい頃から多くの人がきっと
教えられてくることだろうが、

 何を正直というのか、ということについて深く考えようとすると、
 ひどく曖昧な概念に見えてくる。


 さらに、「正直」であることは、

常に正しいと
判断されるわけではなさそうだ。


例えば、嘘は、ダメだとされながらも

相手を傷つけないための
嘘は良しとされるし、

そういう曖昧さや嘘を述べずに
思ったことをいったりしたり、
己の開示しなくても良さそうな何かを
開示すれば

「バカ正直」

と言われるわけだ。


 それに、
正直という文字を分解すれば

正に(ただしいこと、間違いないこと)

直(真っ直ぐで曲がっていない)

となる。

 何が正解で何が間違いなのかなど、
結局のところ、絶対的なものはなく、

 善悪の基準は、立ち位置によって
異なる。


となれば、正直というのも、

自分自身の信念や育ってきた中で
培われた価値観による「正しさ」の
基準に対して、まっすぐでいること、

という解釈が、
なんとなくしっくりくる。


 となると、「正直でいること」
を考えるためには、まず
私自身のこれまでの人生や経験で
培ってきた信念や価値観が、
何たるかを言語化する必要がある。


 「正直でいる」ために、
己の信念や価値観の言語化をしよう。


そうは言ってみたものの、
これといって、
「私絶対これは曲げられない」だとか

「このことをとても大事にしている」

ということが思い浮かばない。


 自分に嘘をつくことも少なくないし

 よく生きよう(Benesse)と思うことはあってもそれを常に心に留めておけるような善き人間ではないし、

 頑固には違いないけれど、
かといって何にも流されない、
曲げないかというと、
嫌と言えない人間として生きてきたのだからむしろその逆であったろう。


 己の心に真っ直ぐに行動したと言える経験を振り返ると


①辛いと思ったけど、自分が行くと決めたし1年間は続けると決めたから、1年後、最後の授業を受けた翌日くらいに親に何も言わずに塾を辞めてきた、高校一年の時の行動。


②好きだと思ったら好きだと伝えていた小学生の時。

③考えても全く選べない時は、
なんとなくの直感で選んできたもの。

④嫌だなと思いながら周りの人との関係などを考えて付き合ってきた人々を切った瞬間。

⑤辛くてどうしようもない時に泣いた時。

⑥まだ3日も仕事してないのに、
仕事を辞めようと決意した瞬間。

⑦26歳のとき、はじめて、
友人に「いや、わたしはやめる」
と伝え実際やめたとき。

⑧27歳になった時に、
何事も無理するのをやめよう、
と決意した時。

多くのことは、
何か続けていたことを、
やめる=止めるときの方が
はっきりとした意思がある。


何かをやめよう、という時は
自分の心や何かが疲弊していることに
嫌がっていることに、
無理していることに
その声に耳を傾けた時。


だから、きっと、

正直でいる、

ということは、


自分の心の声に耳を傾ける


傾聴する、


ということだろう。


そして、

自分にとってマイナスであることや
心の健康に、身体の健康に良くないことをやめる、という行動にうつすこと

が正直でいることに必要だと感じた。


 こんなに、「正直」とは何か、

真正面から向き合って
生きた1日はない。


 既にその日は、
残り3時間と少しになっていたが、
自分の声に耳を傾けて
正直でいるために、
腸をマッサージした。

腸は、
第二の脳と言われているらしい。

直感、だって英語では

gut feeling


gutというのは腸のこと。


腸をマッサージしてあげることにしよう。


自分の身体に耳を傾け、
自分の心に耳を傾け、
自分の考えていること(頭)に耳を傾けていこう。


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