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忙しい。

 アルバイトの身で、忙しいなんて
言ってはいけないとずっと思ってきたし、実際、親にも「アルバイトだったらどれだけ働いても正社員より忙しいはずがない」とか、大学生の頃から疲労が積み重なってきて疲れて寝落ちしたり、家帰ってきて動く元気もなくてそのままぼーっとしてたりすると、
「お父さんなんかもっと大変」
「お父さんは休みがなくても寝る時間がなくても仕事をしている」だとか
ずっとそんなことを言われてきた。




 こんなのは10代20代になって言われ始めたことではない。


 小さい頃から言われてきたし、
母にも、父方の祖母にも言われてきた。




 こういうまとめ方したら言い方悪いけど、もう、そういう価値観、考え方のタイプの女ってやっぱりいるよね、
男性より女性に多いのはなんでだろうね。


 それも、こういうタイプの女って、その、休まずに働いてたりするのは自分じゃないんだよね。自分の所有する範囲の人なの。


 夫、息子、とか。



でも、私の母の場合、
兄の友人のなんとかくんとか、
母の友人の娘さんのそのまた同級生とかそんなのも比較に出してくるから、
もう私からしたら誰それくらいの勢いでいつも聞いてたけど、




 こういうのって、自分にはないから
誰かを転用して子どもに言うしかできないんでしょうね。


 父は、なんとかちゃんとかなんとかくんを出してくることはあまりないし、そもそも子どもたちの友人たちの名前もさほど知らないけど、母によって歪められたその娘や息子に負の影響を及ぼす友人の人間像で把握しているから、


 「お前はくだらない人間ばっかと付き合えるくだらない人間だ」とか




私の友人たちのこともよく悪くいうことがあって、私はその度に、
「私のこと悪くいうのは別にいいし、私がその子のことを何か悪くいうのは相手を知ってるからまだしも、相手のこと知りもしないのに、悪く言わないでよね」って返していた。

理解されなかったけれど。


友人たちは確かに変わっているけど、
そもそも娘の私が変わり者なんだから、その友人も類友で変わり者が多いのは致し方ないだろう。けれど、両親は、まず持って娘が変わり者であることを、恥ずかしいとし、それを認めない。私の個性や感性は、変わってるね、面白いよねと周りの友人やママ友に言われるたびに、家に帰ってきて何時間も叱られたものだ。


 仮に、両親のいうように、
相手がとんでもない人で私に悪影響を及ぼしていても、私という人間がくだらなくなっていたとしても、それで知らないその誰かを、知りもしないのに悪くいうのは違うと思ったし、私が悪化したのだとしたらその悪化は単に私という人間が弱いからだと小さい頃から思っていた。


 また、両親世代以上の人々にとっては、それが当たり前だったのだろうからいちいち相手に訂正することはしないけれど、

 父や母や父方の祖母が、

 「隣のなんとかさんの孫は○大で」とか、
 「お兄ちゃんの友達の☆くんは、慶應で、東大で」とか

 そういうどこ大出身か、で人を語るのも好きではなかった、



 別に、その大学出身であることや、それをいうこと自体を否定しているのではない。だけれども、その大学出身であるというのは、その人の一部であって、その人というものを紹介する時に必ずしもどこの大学出身かを相手に情報提供する必要はないし、それらは他人の功績であってあなたの功績ではない、と思っていた。




 話を聞いていたら結局、何処の大学の子かなんでどうでもいい全く関係ない話の時にも、その子の名前の頭には「○大出身の」とか「☆♪高校に進学してそこでトップで成績おさめて○大学に進学して、会社に勤めている」とか

もう、そんなに勝手に個人情報全部漏洩させるか!!ってくらいにいう。




 私はそれが小さい頃から
違和感と嫌悪感しかなかった。
父方の祖母に、母が遠慮している様子をわかっていたからわたしにも遠慮があったし、
 母だっておんなじことを家に帰ったら言ってくるし、兄も弟も小さい時からそういう話を黙って聞いていたから私も黙って聞いていた。
昨年、そういうことに対しての不満をFBに記したら大学の同級生に、

「親世代はそういう価値観の中で生きてきて、それを50、60過ぎてから変えろなんて酷な話だろ?彼らには彼らの生きてきた経験があるんだから」
と嗜められた。確かにその通りだとやっと思えるようになってきた。

 そうか。同級生の多くはそんなふうに考えていける大人なんだ。すごいなぁ。



まあ、親世代だけじゃなくて、同級生にも自分の出身に強くプライドを持つ人、それにより周りに不快感を与えていることにすら気づかない人は少なくないけれど。



 私は、たぶん、自信はないけれどたぶん、そういう価値観の人間じゃない。でも、そういう価値観の人間が周りにはたくさんいるんだなぁと受け流せるようになってきたのは最近の話。



 話が少しそれてしまったが、
両親には、いや特に母には
中高時代から
「文化部なんだから疲れるはずがない」と言われてきた。
 文化部に入ったか運動部に入ったかなんて個人の好みだし、文化部や運動部にも様々な種類や活動時間、活動内容があるのに、十把一絡げに、「あんたは運動部じゃないから疲れるはずがない」
「○○ちゃんは運動部なのに、頑張っている」とかいわれてきた。


 そりゃ、○○ちゃんだって疲れてるだろうけど私だって疲れないわけじゃないよ。それに、私だって学校から家が遠くないとはいえ、中高6年間、片道1.5時間かけて、徒歩と電車で通学して、学校の時は、最寄駅から10分ほどしたら勾配15°の坂を毎日登って通学してたんだから。
 


 私はそもそも疲れというものを人と比べるという観念が納得いかない。

 友人にも、数人、あなたはいいわよね!という人がいるけれど、

 疲れや、頑張りを人と比べたところでなんになる?ずっと小さい頃から疑問だった。兄弟と比べられてきたから小さい頃から思っていたと思う。残念ながら、私は、「両親の決めた道に進むしかなかった」なんていう無思考に陥るほどのお利口さんとして成長はできなかったみたいでね、どうも昔からそういうのが嫌いなんですわ。


 話は少し逸れてしまったけれど、
まあそんなこんなで
「忙しい」といえば
「お父さんの方が忙しい」
「○○ちゃんの方が大変」
「みんなそのくらいやってる、」


「きつい」といえば
「お父さんはもっと頑張ってる」
「あんたなんかなんの努力もしてない」
「死ぬくらい努力しろ」


それで今度は倒れてしまったら
倒れて入院して退院して、退院しての開口一番
「あんたの今回の入院費6万円」
だった。


そりゃ、過労で倒れて入院までして
その費用払ってもらったし、家族の健康保険内、つまり3割負担で2泊の入院に6万か。高いなぁと思うし、自分自身が6万円払えと言われたら無理がある。


 それに、入院だけで済んだわけじゃない。この、過労による持病だけでも、薬代を今日までだけでも、1錠200円、1日2錠合わせ、400円をもう2017年の10月14日から毎日払ってもらっている。




 私の過労は、人の相談を夜中まで毎日何ヶ月にもわたって聞いたことによる睡眠不足と、それにもかかわらず大学院、教職課程、アルバイトと休みなく頑張ったことによる、休息時間が全くない生活での極度過労状態、それから精神的苦痛により引き起こされたもので、両親には大学院を修了するまで、
大学院生活で過労になったのではなくそうした付随したものによるものだった話はしてこなかった。
 けれど、その話をした時、母に、
「あんたの入院費、薬代、通院費にいくらかけてると思ってんの、人の相談に乗りすぎて倒れたというならその子の親に連絡しなさいよ、払わせる」と憤られた。当然な話で、私だって、
その子の親が私にも両親にも謝りにも来ないような人間であることに気づいた時に、おかしな人間たちに首突っ込んでしまった、と後悔していた。

 結局のところ、この話に関して親に持ち出された時は謝るしかない。
でも、私が過労で倒れるまでは、どんなに寝ていなくてもどんなに大変な生活をしていても、どんなに辛い状況にあっても、「あんたなんか大変なわけがない」
「もっと大変な子はいる」
「努力が足りない」
なんて言われてきて


 倒れたら今度は
「倒れて迷惑してんのよこっちは」
「あんたが倒れたせいでいくらかかってるのよ」
「アホなくせに大学院なんかに行くからだ」
とか、それはもう何年にもわたって言われる。(そして大きな問題は両親ともに、私にこれらの類のことを言っている自覚が一切ないことだ。)


 ずっとそう言われてきたから
大学院生になったあとも、
社会人の友人たちにも親にも
「大変だ」とは言わなかったし
倒れた後に少しは弱音吐いたけれど、
そもそも、大学院生と社会人という全く状況の異なる人たちを比べることもおかしいと思っていた。


 どっちが大変だとかどっちの方が楽だとかそんなことをいうのは算数のできない人間のいうことだと思う。
小1のおはじきでつまずいた私にだってわかる比較できないものを比較するというズレがわからないのだろうか、と今も思っている。


 忙しさも、きつさも、努力も、
体力も、比較できないものを比較するような人間は、だいたい

 「○大だって」とかいって
やたらステータスを出したがる。


 それも「お父さんが☆♪なんだもん」とか「おじいちゃんが」とかもう自分の成果じゃない、自分の両親、祖父母、息子娘、そういう、自分の外側の人間の何かを自分のステータスだと勘違いしている。


 だから、そういう人間から離れたかったんだ。


 「忙しい」という言葉は、
「心を亡くす」と書く。


 文字通り、私は多忙になる程どんどん心が失われる。身体は機械のように動かそうと思えば動く。頭も疲弊すると動かなくなるものだが、心をすり減らして頭にエネルギーを分けてあげれば少しは長く持つ。しかし、そうして頭や身体を保つために知らず識らずに心をすり減らしている。
 


 過労になってからというものの、私は多忙状態になっても倒れないようにその、頭と心と身体のバランスをなんとかとるようになった。だから、どれだけ働いたとしてもどれだけ予定が詰まってきたとしても、これ以上いくときっと無思考に陥ってしまう、という前に停める。そして、停めるために、
アルバイトという雇用形態は非常に便利だ。この辺で休んでおこうと思うときにシフトに×をしておけばいい。
薄給で、保険や安定性が一切ないことは大きな難点だが、心身の健康を害さないように調整するという面においては便利だ。

 それでも、私は最近、仕事が忙しくて、note執筆時間もとれないし、その他のこともできないし、頭の中はどんどん仕事のことで占拠されてゆく。


 心が失われてきている。


やっぱり、忙しいもん。


 でも、だから、なんでも、少しの余白が大事なんだって、余白を残しておかなきゃいけないんだって気づき始めた。


 お金を使うにも、時間を使うにも身身体を使うにも、心を使うにも、


 自分に、人に、優しくあるために
100%頑張っちゃいけなくて
80%でも多くて、せいぜい6割くらいでできることに収めなきゃダメなんだって、わかってきた。


 そしてそれは人も組織も同じ。
今の会社が、社員の頑張りすぎでしか回らないなら、それはその会社や自分の職場が、まだそんなに仕事をたくさん請け負えない器しかないのだと、
最近とてもわかるようになってきた。


 職場が忙しくなると、
当然従業員も忙しくなって疲弊するけれど、
それだけじゃなくて組織も、
疲弊してゆく。


 組織もナマモノ、生き物だって、
そういうのを私は最近身体で感じ始めて、ティール組織を身体で理解し始めたよ。だから、今度、やっぱりティール組織についても書きたいね。来年かな。


 仕事ですごく走るから
靴が壊れてしまって、でもお店が空いてる時間になかなか買いに行けなくて
それでももう、つま先の方からガバッと靴が開いてしまったから、
出勤前に、15分くらいで靴買ってしまったよ…


 また、クレジット切っちゃったから
来月の支払い8万円こえるかも…

入院とかにはなっていないけれど、余裕がなくなると、忙しくなるといろんなものが消えてゆくね。

わたし、最近爪のささくれがすごいの。冬も終わったし、ハンドクリームも時たま塗ってるのに。どんどんボロボロだわ…


#心を亡くす

#多忙

#ティール組織理念

#ティール組織

 結局のところ、他人は変えられないから、自分が変わるか、自分がその場から去るしかないのよ。親であっても。

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