遠くのほうへ
一貫した音楽が与える影響について考えてみた。その頃の僕は、まだ学生の立場であり、モーツアルトの魔法の音楽に入っている6曲だけを頼りに、よく読書をしていたものだった。
これは、20年ほど前のことであったから、最近の皆さんは知らないと思われる。それでも、モーツアルトの恩恵を受けたと豪語してもよかった。当時の自分は、母親を超えられるかという境目で、読書を頑張っていた。殆ど読書をしたことのない父親は、形而上学という言葉を簡単に使っていたし、そんな哲学めいた読書家でもなかったからだ。
大抵の男性が後々になって気が付くのは、母親の存在といっても過言ではない。とりわけ、僕のように国語の成績が悪かった人には。
ここからは、モーツアルトを出すのも失礼に当たるので、僕の遍歴時代と称して、文学に興味を持った経緯について、森喜朗のような眼を気にしながら書いていく。それが、不得意な読者を魅了することなく終わったとしても。
自分が芸術家と触れる可能性は、16歳のころまで一つもなかった。これだけは、断言しておくがピアノの先生を除いては、一人も考えられなかった。ピアノが置いてあり、小学生の頃に6年間、ピアノを習っていたが兄弟で合わせてから、つまり二人の力で、バイエルを超えたとしか言いようがなかった。コンサートで、僕がピアノを弾いた時も、「時の扉」というアルバムをアレンジしたピアノで、途中で風が吹いて、舞台から楽譜が落ちてしまい、恥ずかし気な幼子と形容すべき、失態ではあった。皆の同情票で拍手喝采は起きたが、僕は顔を真っ赤にして「大変申し訳ございませんでした」の気持ちで帰った。
それから、芸術家への憧れというよりも、そもそも僕が芸術家になれるという可能性は0になってしまい、何か斬新な突拍子もないアイディアが浮かばぬ限り、その確率は0に近かった。そんな僕を救ってくれたのが、本を読むということだった。皆さんのように、小学校でお茶会付きの読書会などというものはやったことのない世界で暮らしたので、図書館で借りた本は、「ありの一生」という児童本一冊だった。当時の教育は、厳しいものであったが、母親が国語の先生ということもあって、誰にも負けたくない心を持った子どもになって欲しいという想いがあったのだろう。
中学になっても、国語の成績は一向に伸びなかった。それでも、手塚治虫のような未来都市の漫画本を読んで、本当に将来、こんな未来が訪れるのかという予兆にはワクワクを隠せなかった。芸術家という側面は、テレビで時々みる綺麗なお姉さんを観て、こういう人が芸術家なんだろうなと思ったほどだった。弟は、僕に「ありの一生」を読んだの?と的外れな場面で、的外れなことを言っていた。それは、恐らく「蟻の生態系に於ける話」であったろうが、違うことは確かだった。中学になって、一番苦労したのは、友達だった。一応、学校のほうには、青雲などの高校を受けると通達が行っているはずなのに、友達と仲良くしすぎたせいか、私立試験の前日まで、友達と遊んでいたことであった。僕が「明日、試験を受けるから」というと、その友達は、まだ早いよと言った。そういう意味ではなかったのは自明であったが、長崎の青雲高校を受けると代弁者が言った。そうすると、友達は陛下に頭を下げるように、「大変申し訳ありませんでした」と応対したが、簡単に試験に落ちてしまった。
そういうわけで、中学が青春のように終わり、高校になると如何に無名の学校から、有名校に合格するかということを考える人も増えていた。
ところで、こういうことが何故、芸術と関係があるのか、人格形成としての時期が16歳くらいから始まるからなのか?などと推論した人も多かろうと思われる。芸術となるとうるさい人もいる。けれども、言い訳は一切なしだ。
結論として、モーツアルトの厳選された6曲だけで、実に詩的な作家の本を60冊ほど読むことができた。本屋に週に2回を達成して、「若きウェルテルの悩み」のような本もたくさん読めた。この辺のことは空白にしておこうと思う。まずは、一週間に1冊ずつ本を読めるような環境を整え、それから面白いジャンルを見つけて、思想を学び、読書嫌いを解消していく。こういう風にハーモニーとしての芸術を、人間が生きるための糧として、学んでいくのがよかろうと思った。少し、極端であったが、自分が好きな曲をかけて本を読んでいる間の幻のような景色は消えることがなく、それが芸術と同化しなくても、その軌跡というものは残るものだ。そういった時間を大切にしながら、勝ち負けのない読書生活を、皆様も大切にされたらと思う次第です。