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母を看取る

何から書いたらいいか

よくわからないのだけど、此処に書くことにします

あたしの母は「最愛」「溺愛」の息子が亡くなってすぐ「認知症」になりました

母と息子は共に暮らしていて

弟は「母の認知症を最後まで認めようとはしなかった」

ただの物忘れや^^あんななもんやー^^

あたしも今から思えば「あんなもんや」と言えるんやけどな・・・

ある日弟は「おかんの好きな寿司を書いに行く」といって

家を出て

道に突然頭を後ろにして「倒れてしまい」


それはそれはものすごい「音」だったそうです

看護学校の「寮が」眼の前にあリ、救急車で運ばれて行きましたが

多分もうだめだったのですが

頭の手術で「見たこともない顔になっていて」不憫でした

決して「あたしと弟は仲がいいわけでなく」

母の愛情を「一心に」受けていた彼と「あたしは」小さいときから仲が悪かったのです

多分にこれはあたしの嫉妬です

あたしは「幼い頃母に捨てられたと思い込んでいましたから」_____

脳溢血で倒れた弟、亡くなった弟を見ても母は泣かなくて「小さく、ぼんやりしていました」もう「悲しすぎて」心が死んでいたのでしょう

その後「ようやく介護認定も降りて」色んな人にお世話になり

母は大阪で「一人暮らしをしていました」


弟が亡くなったのが平成26年

7年前です

母が亡くなったのは「平成」29年

4年前です

弟と母を長年見てきたので「鬼子母神」にはなりたくないとあたしは「心に決めていて


我が子に対してなるべく干渉しないようにと努めていますが

少し干渉してるかな___気をつけよう・・・・

母は一人になってから「幻覚も見えてきていて」


鬱病でもありました

弟のところに行き死にたいと何度でもいうのです

あたしや「妹も」いてるやん

というのですが

かわいそうになってきました

あそこまで「弟命」だったんだと思うとなんだか

母の愛があまりに純粋で透明感さえ見えてきて

自分が愛されていなかった事実なんて

もうどうでも良くなり

可愛そうな「おかん」という「設定で向き合うことになり」遠距離介護がスタートしたのです

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大阪と大分を何回「船で往復したかしれません」

ところがある日「社協」の人から「もうだめです」と

言われました

その人は本当に心ある方でした

母を見ていてそう思われたのです

あたしたちは決断できず「母を大分につれて来る」という決定がなかなかできず

いました

部屋が狭いとか息子がどこで寝るんやとか学校にいきよるのにとか

で最悪は「彼が母を嫌いであったということでした」

「おかんはとても変わっていてワガママの塊みたいな人でしたから」

ケアマネ

ヘルパーからの苦情「てんこ盛り」

お世話になってた「ディケア」の施設でもそれは評判

ひっきりなしの電話・・・・・



「ある時」呼び出されて「帰阪」もうびっくりだったのは

母が寝たきりになってしまっていて・・・

ベランダには「お弁当の山」食べてもいない・・・・・老人に配られる弁当をベランダに捨ててあったのです

その事実を見て

悩んだあたしは

友人に相談

その友人が「いい本あるよ」ということで「送ってくれた」

「ボケてもいいよ」という本


本好きの彼が必ず読むであろうとあたしは踏んだ

あたしの読みは当たっていて

ある日「ばく泣きの彼」、、、「おかんと暮らそう」というのです

やったー^^

もう

「おかんを大阪から連れてきた」

船に乗る前、母は歩けないし、冷たいし、何やらブルブル手足が震えてるし

船では車椅子を借りたんだけど

おかしい

なんかおかしい「母は異常に薬を飲んでいた」・・・・

鬱、認知症、血圧、なんだろう。。。。。。

であたしは「大分に来てから」その薬をやめた

まともな食事に「塩」

するとどうだ「母の顔」に笑顔

そしてー

歩けていたー^^

大好きなディに行きたがる

「あ」

おかんは人に会うのは好きー^^

でも血圧が高いと「お風呂には」入れん。。。

ディのお風呂が好き

毎日「楽しかった」毎日「おかんのディの話が面白かった」

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でも「大阪に帰りたい、帰りたいと言い続け」それをごまかすのに

温泉連れてったり、美味しいもん食べさしたり、大好きな大衆演劇「別府にあった」ヤングセンターは行きまくったわ

寝るのは二人して「お布団並べて寝てた」もちろん狭いので

あたしの作品の山の間に寝てた

今から考えたら

最高に幸せやった

弟が夢によく出てきてて

「おかん、まだ迎えには行けないから、おとなしく姉ちゃんとこで世話になっておいて」というたそうで

それから「おかんは大阪に帰りたい」とは言わんかった・・・

そういう日々のある日

おかんは入院した

今まで飲んでいた薬が内蔵に蓄積していて

「薬害です」と先生がはっきりいうてくれたので

あたしは納得した

やはり「薬」か。。。。。


これ偶然だったんだけど

再入院した「母が入院した先は、息子がいて。。看護師だった。。。なんと孫に毎日会える」なんて偶然

薬害ですね「言うた」先生は「弟にそっくり」

毎日「弟に会えていたようなもの」ー^^

おかんは「あたしとおかんと暮らす予定だった」

おかんハウス

にはとうとう住まなかった

あたしは「おかんとよくイベントしていて、友人たちはおかんと出会ってくれてた」

おかんが亡くなる前日

毎日「行ってた」病院で

なんか「気配」が違う「寝てるおかんの気配が変」

看護師さんは何も言うてくれなかった

ただなんかやたら優しかった



であたしは「機織り教室」を休んだ「次の日」機織り教室だったんだけど

なんか

明日は「いなければ」いけない気がした

悲しことに「死が目前にあることをあたしは悟って」母をいよいよ看取らねばならないのだからと

その足で「葬儀社」に相談に行く

ああ

これを書いてて「泣いてる」のです

あたし

泣いています

辛かった。。。生きてる「おかん」が病院でまだ生きてるのに

あたしはなんて薄情なおんななんやろう

あたししか・・・

母を看取れないんだからしっかり「段取り」決めておかねば

という思いから

気持ちを落ち着かせ

「葬儀社に行くも」

家に帰れない

帰りたくない

それで「あたしは夕方に、初めて籠目権現に行く」

そこで「優しいお顔の仏像」に出会い

ひとしきり

泣いた後

家路につく

その晩

母が

亡くなる


あれから何回か「仏像に会いに行く」

あたしはあのとき、ああすればよかった、こうすればよかった

もっと早く

弟が亡くなったとき「大阪に帰ればよかった」いろんな

後悔が

あたしを

今も掴んで離れない

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ああ

でも「あたしは幸せだったかも」

妹にも「おかんと暮らせてあたしは幸せやった」

といえたし

弟にも「おかんとの時間をあたしにくれてありがとう」と

思えたし

何よりあたし「おかんが大好きになった」

生んでくれてありがとう

あなたの子で良かったです

ああおもろい「人でした」

いやほんま^^


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