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ヨークシャーにて、コロナの季節に墓地を歩く


家の近所の墓地を歩いていて、新しい墓標が目につくことに気づく。──というよりは「気づき続けている」。

奇妙な表現なのだけれど、毎回「ああ、木製の十字架が目立つな」と思い、毎回なぜかそれを「忘れる」。子供を追いかけたり、家族のための食事を作ったり、子供達の勉強の面倒を見たり、合間の時間で掃除をしたりしながらなんとか読書と執筆の時間を作ろうと、日々の生活をまわして──いるうちに、忘れる。

そして、あいも変わらず次の散歩の時に「ああ、新しいお墓が増えている」とびっくりする。毎回「コロナ禍でどれだけの方が亡くなっているのだろう」と思い、毎回「いや、でもこれは、石碑屋さんが仕事ができずにいるからに違いない」と思い直す。

本来だったら半年もせずに墓石が掘られて木製の十字架はとって変わられるはずなのに、今は彼らも仕事ができないから、急ごしらえの木製の十字架が並ぶ。ただ、それだけのことだ。

……たぶん。

墓地に埋葬されないことを選ぶ人も多いお国柄だ。新しい墓が目につくからと言って、この街の人たちがたくさん亡くなっているとは限らない。

近隣大都市ではかなりの死者が出ており、2月末から5月頭までに亡くなった方の4人に1人がコロナウィルスが原因だったと言われているけれど。……そりゃあ、ぼんやりとした不安を感じるのは事実だけれど。

でもこの街だけの感染者数も、死者数も公表されていない。だから、「きっとみんな大丈夫に違いない」と信じるしかない。



5月19日。現在イギリスのコロナウィルスによる死者数は35000人に近く、死亡診断書に原因としてCovid-19が示されている件数は4万を超える。私たちの住む街は小さいが、近隣の大都市はロンドンを凌ぐような感染数を示している、と友人たちはひっきりなしに鳴るチャットグループで教えてくれる。

そして、それなのに。

初夏のヨークシャーはどうしようもないほどに美しいのだ。

緑滴る、という言葉でしか形容できないような緑の氾濫。ここ彼処に咲き乱れる可憐な野の草花。家々の庭を華やかに彩る藤、ライラック、サンザシの花。

墓地散策をイギリス人は大好きだ。日本の墓地のように暗いイメージはなく、明るく、日当たりが良い。広々とした緑の中に美しく掘られた十字架や天使像が並ぶ。幼子が初めて自転車に乗ることを学ぶのに最適な、綺麗に舗装された道があり、車は入ってこない。

──誰かが亡くならない限り。

さすがに埋葬には車が入ってこなくてはならない。


子供たちは学校にいかず家庭で勉強をしており、夫は私の仕事部屋で仕事をしており、仕事場を失った私は台所で仕事をしている。生活はガラッと変わったけれど、家族は幸い全員元気で、そこそこ仲も良く、子供たちはすくすくと育っている。先週の水曜日、5月13日にロックダウンから脱出するための試みとして、運動のための外出が無制限になったから、今まで苦しかった「一度短い散歩に行ってしまったらもう2度と外に出られない」がなくなった。息苦しくなったら5分ほどふらっと外に出ることができるだけで、生活はずっと楽になる。


「そろそろお勉強疲れてきた? 墓地までみじかいお散歩に行きましょうか」

「おさんぽより、じてんしゃがいい」

それはとても良い考えだ。今日は暑くもなく寒くもなく、その上、お日様が燦々と光っている。絶好の自転車日和というのはこういう日をいう。

──知ってる? 最初のペダル付き自転車を発明したのはイギリスの人なのよ。スコットランドの鍛冶屋さん。


眠そうな子供を連れて自転車を引き、墓地まで行ったら、見慣れない神父様がいた。どこの教会の方だろう、とぼんやり首を動かして、黒い服を着た家族に気づく。

年配の男女ともう少し年齢が若い女性が2人。三つのグループに分かれ、決して近寄りすぎることなく、最近盛り土がされているように見えていた、墓地の片隅へと歩いていく。

埋葬だ。

普段だったらもっと多くの人が集まり、故人を悼んでいただろう。けれど今はそれは無理だ。とても小さな、それでも明らかにこれは、埋葬だった。



「あちら側には亡くなった方を悼んでいるご家族がいるから、こちら側を走りなさいね」

「うん」

最近大きい自転車に変わり、ワクワクしている子供は、墓地の中を颯爽と走っていく。子供の自転車の金具が真昼の日差しを反射してキラキラ光る。それを見送りながら、私は、今まで木製の墓標という形でしか見えなかった死が、突然目の前に現れたことに、ひどくひるむ。

困った。

多分、これは忘れることができない。

家事の慌ただしさも、日々の生活の忙しさも、この記憶は、消さない。こんなに明るい5月の日の、金色の光の中で、真っ白なサンザシの花を愛でた数分後に、こんなにもひっそりとした埋葬を目にしてしまった。亡くなった方の死因が、というよりも、死者を悼む家族も、神父さんも、肩を抱くことさえできずにいることが、奇妙に胸をつく。

なんだかきっとずっと、ひるみ続けてしまうような気がする。





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