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「こんな日に厳しいことを 言わなくたって…」(マタイ 23:25-36)

 私は教団の四年サイクルの聖書日課に従って礼拝を進めております。連続講解とか毎回主題説教とかもありますが、聖書日課に従うというのは、牧師の聖書への思い込みや主観から自由になるのに有効だと思うのです。今日は永眠者記念礼拝です。これはカトリックの「聖人の日」から続く伝統であり、世界中の諸教会が同じ信仰の先達に思いを馳せて礼拝をささげる日なのです。

 が、多くの教会が墓に出向いて祈りをささげるであろうこの日の箇所で、キリストは「墓」をたとえに大変激しいファリサイ派への批判を繰り広げておられます。できれば永眠者記念の日は、ご遺族にとっての慰めとなる聖句がいいなあ…と願うところで、こういう箇所が示されてしまいました。

 でも今日の説教題じゃないですけど、イエス・キリストという方は私たちの人生にいつも当意即妙に優しい言葉を示してくれるかといえば、全然そうじゃないんですよ。むしろ耳が痛くなるようなことを、頭にくるようなことを、冷水を浴びせかけるようなことを私たちにとって最悪のタイミングで告げられたりもする。一方で本当に意外なタイミングで助けになる福音が告げられることだってある。私たちの思いを超えて働かれるってそういうことなんです。2020年、コロナ禍のなかの永眠者礼拝のこの時にも、思いがけないみ言葉を私たちに語られています。

 キリストは律法学者たちを「モーセの座についている」と言っていますから、その権威を否定しているわけではありません。ただ本来の律法の意義(律法は人を生かすもの、人を守るもの)から離れて、律法それ自体が人を支配し、縛る道具と化してしまっていました。律法に関する知識はあっても律法に生きることを忘れていたのです。
「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない」実際当時のファリサイ派はそのようになっていました。

 ファリサイ派が律法を守れない人を蔑んだうえで「神よ、私がこの人たちのようでないことを感謝します」(ルカ18:11)という場面があります。どうでしょう?誰にでもあるんじゃないでしょうか。私はあの人と違う、と。昨日が宗教改革記念日でしたが、免罪符が生まれた背景に「『自分は救われている。しかし同じように洗礼を受けている、アイツも天国に来るのか?あんなヤツが?』みたいな意識が人々のうちにあり、自分と他人との信仰を差別化したいという思いが贖宥状が生まれる背景にあった」という解説を聴いたことがあります。これも人間のどうしようもない罪ですね。

 いつもここで言っていることですが、キリストがファリサイ派に向けられたこの厳しい断罪の言葉の数々は、他でもない私に向けられたものであることを心に留めたいと思います。いやキリスト教会だけではなく、この世にある全ての宗教や国家にも向けられているとも言えます。私たちの信仰とはどういう実質を伴っているのか?あるいは政治の意志は本当に人々への愛を示しているのか?キリストの眼差しは今も私たちに厳しく問うています。

 教会とは人々を天のみ国へ導くところであります。でも自ら天の国を閉ざしてはいないでしょうか。人々を信仰へ、救いへと導いているでしょうか。心のなかで誰かを激しく呪ったりはしていないでしょうか。献金をささげるように、この私自身を神様におささげしているでしょうか…色々なことが問われます。これは教会として、また信仰者個人としてでも同じことがいえます。
キリストが繰り返し語る「偽善」という言葉は「仮面」が原語です。古代の演劇で役者が仮面をつけて演じることから来ているそうです。そう、私たちは仮面をつけた信仰者なのだとキリストからビシッと指摘されているのです。

 今年はコロナ禍の状況下で、永眠者の朗読を行わないこととなりました。そこで皆さんにせっかくですから「普段やっていることをやらないことで浮かび上がってくるものは何か」を考えてほしいのです。いつもでしたら「ああ、もうすぐ死んだお父さんの名前が呼ばれるわ」というみなさんの思いを、そこにとどまらず、例えば今年世界中でコロナウィルスで失われたクリスチャンたちの命に思いを向けてみるのはどうでしょうか?コロナで亡くなった方を葬り、自ら殉教されたイタリアの司祭の方々、あるいは平和聖日を思い出して、過去の戦争で失われた基督者のことを想起するのはどうでしょうか?牛久教会はまだ50数年の教会ですが、戦時中にあった教会はそこに思いを馳せることができます。だから想像してみることが大事です。悲しい別れの出来事を思いつつ、一方で墓とは、キリストの栄光を証しする場所であることにも思いを馳せたいのです。

 ところで昨日は宗教改革記念日でした。私はこのキリストの言葉からルターの叫びをどうしても連想するのです。考えてみればルターが95か条をヴィッテンベルク城に張り付けたのは10月31日。翌日は諸聖人の日。教会いや街中が華やぐ日です。その前日に「なんでこんな時にこんなもの出すかよ…」みたいな魂の叫びです。贖宥状を批判し信仰義認への回帰を主張したルターの祈りは、まさに今日の使徒書日課であるロマ書3章に繋がります。自分の能力だとか実績だとかを他者と比べることよりも、私たちはみんな小さくて弱くてダメダメで、だからこそキリストの赦しがみんな必要なんです。

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