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「そこの若いの、お前はもう死んでない」(ルカ7:11-17、使徒20:7-12)

 マルティン・ルターの言葉(だったと思う)に「説教も20分を超えると会衆の半分以下はすでに聴いていない。30分を超えると誰も聞いていない。40分を超えると悪魔しか聞いていない」。なるほど、今日のテキストを読みますと「長すぎる説教は人を死に追いやることがあるのか」と(笑)。説教者として胸に刻んでおかねばなりません。パウロという人は「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われていたそうですから、あんまり説教得意じゃなかったんでしょうね。ほかにも「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」との評判もありますね。でもこれらの評価を「お前ら、揃いもそろって俺のことをそんな風に言いやがって」みたいにイジケ気味に手紙に書くのもちょっと可愛いところだったりもします。
 
 ナインはナザレの南東6キロの小ヘルモン山の麓にある小さな町。今まさに葬儀が行われていました。一人息子を失ったお母さん。その悲しみはいかばかりでしょうか。彼女はすでに夫を失くされています。彼女はひとり息子を女手ひとつで育てて来られました…その苦労は計り知れないものがあったことでしょう。もう愛しい我が子の笑顔を見ることもできない。深い孤独と悲しみの中に彼女は一人立ちすくんでいました。お母さんはきっと自分を責められたことでしょう。「私がもっとこうしていれば」「きっと私が神様に喜ばれない生き方をしていたから…」古代イスラエルにおいて、長寿は祝福の証しとされていました。短命に終わるということはその逆の意味にとられていたわけです。
 
 そのような悲しみのどん底の隣にイエス様は来られます。日々の暮らしの中で私たちは元気に笑うこともあれば、どうしようもない孤独に震えることもあれば、深い悲しみに涙にくれることもあるでしょう。このお母さんは熱心に祈っていたわけではありません。ただ私たちが祈ることもできないようなその時にでもイエス様ご自身が私たちの方に近づいてきてくださる。そして私たちの悲しみは主ご自身の悲しみとしてくださいます。
 
 棺に触れる、というのは非常に汚れた行為のひとつとされていました。イエス様はそこまで下りて来られるのです。「憐れに思う」あまり良い訳じゃないですね。「ハラワタが痛むほどに」が元の意味です。沖縄の言葉で「ちむぐりさ」という言葉があります。あの悲惨な沖縄戦の中で無残に奪われた命。その無念さやどうしようもない悲しみを思う時に、このちむぐりさという言葉が使われます。イエス様の「あわれみ」を近く表す言葉ではないでしょうか。
 でもね、このエピソードに関して、死んだ息子が甦ったことはむしろ付随的なことなのだと思うんです。単に死者が蘇ったことにばかり目を奪われてしまうと「なぜこの母親にしてくれたように、私にも奇跡を起こして下さらないのか。起こしてくれないなら聖書なんて私には関係ない」となってしまいますよね。イエス様は「人間の肉体の蘇生」を示されたのではなく「復活の命」をお示しになられたのです。
 
 14節に記される「起きなさい」と16節の「現れる」は実はイエスの復活の用語です。この先、死から復活された主が、今ここでその先取りの業として青年を死から起き上がらせたのです。キリストが復活されたということは、悲しみのどん底に置かれたこのお母さんのためのものなのです。愛する人を失った。毎日毎日一瞬も平安の時などなく、悲しみが次から次へと湧き出てくる。そのどん底に向けられた神様の愛がキリストの復活という奇跡なのです。暗闇・どん底の中から人を癒し、活かす力を示されるのです。
 
 とはいえ地上を生きる私たちはイエス様のようにはできません。「牧師や信徒はクライエントをピタリと元気にしたり、自信満々で相手の悩みを解決する存在ではない。むしろ自信はなくとも、相手の尊厳に立ち向かい、付き合い続けていくのである。」牧会学で私はそう教わりました。イエス様ご自身がそのように目の前の悲しみ、苦しむ人と出会い続けたからです。
 
 イエス様はこの時、このお母さんを癒されただけでなく、この母子家庭に生きてきた息子さんが生きることを心から望まれました。今日の使徒書と福音書、双方一度死んだと思われていたのが「若者」だったというところが気になるのです。一人は母子家庭で育った子、もう一人はエウティコという青年。トロアスは現在のトルコの地中海に面した街で今では閑散としていますが、当時は三階建ての家があったというぐらいで大変栄えていたのでしょう。そんな豊かな街の中で仕事を終えてわざわざパウロの話を聞きに来ていたました。今日の2人の青年はその「復活」が周囲を喜ばせ、励ますことになりました。
 放蕩息子のたとえには親の遺産を食いつぶして、アルコール依存か性依存になった弟と、弟を冷ややかに見て父親を責める兄が出てきます(彼らは現実にいた若者をモデルにイエス様が話されたのだと思います)。どうしても上手く生きられない弟、自己責任論を振りかざす兄。双方の「満たされなさ」にイエスは目を注がれます。
 ヨハネ9章の「生まれつき視覚障害のある若者」は、むしろ見えるようになった結果、家族とも離れ、街の外に追いやられました。「これならいっそ、見えないままでいた方がよかったんじゃないか?」と思えるほどです。しかし彼はイエス・キリストへの信仰を告白する者へと変えられました。金持ちの青年は自分が生まれながらに得ていた財産に固執するがゆえに悲しみながら、イエスの元を立ち去りました。彼らの共通点は…別にありません。同じ時代にイスラエルにいた若者たちだったということだけ。
 誰もが経済的にも精神的にも落ち着いた家庭に生まれ、そしてキリスト信仰を得て落ち着いた日常を生きる大人になっていければよいのだけれど、現実はそうじゃない。若者たちがそれぞれの現実を生きるのは昔も今も苦しいことだらけです。
 一般にキリスト教会だとかミッションスクールにはオシャレで成功者なイメージが強いでしょう。けれどイエス・キリストは子どもや若者たちの凸凹な生きざまに伴われる方だということは、忘れずにおきたいものです。

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