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信仰とは不幸になること…?

今朝のオンライン祈祷で学んだことをシェア。
「洗礼を受けるとこんないいことがある」
「クリスチャンになるとこんな恵みをいただいた」

そんなことを口にするキリスト者が多い。福音派なんかは特にそうだろう。
しかし一方でキリスト者になったことで失ったことだってあるだろう。いや、むしろその方が多いのかもしれない。
しかし信仰を生きるとは「信じた故に失ったことを恵みとして数えて生きることができるかどうか」にあるのではないだろうか。
 たとえば使徒パウロはキリストに出会ってしまったがゆえに、ローマ市民権を持つユダヤ人でゴリゴリのファリサイ派。イスラエルではエリート層である。しかしキリストと出会ってからのパウロは、突如目が見えなくされたり、裏切者呼ばわりされたり、投獄されたりと災難続きである。
 イエスの母マリアは、まさかの婚前妊娠となり周囲の目も厳しい中、よりにもよって臨月に長旅を強いられる。やっと生まれたのは家畜小屋。家族や親せきに祝ってもらえず、見ず知らずの学者や羊飼いしかいなかった。かと思えば「故郷に帰るな」とのお告げで言葉も違うエジプトに乳飲み子を連れて避難…「なんで子どもひとり産むだけでこんな目に?」それが偽らざる思いだったろう。

 私の知るある牧師は洗礼を希望する人に「本当にいいのですか?信仰を持つと不幸になりますよ?」と問うたそうである。「なにもそんな言い方しなくても…」と思うが、それはある意味事実なのである。この世的には失ってしまったこと、不幸に見えることもしかし信仰においては「神の恵み」となる。
「クリスチャンでない貴方にも役立つ聖書のコトバ」みたいな本も見かけるが(そういう本があることは否定しないが)、現実には信仰を持ってはじめて「福音(よきおとずれ)」となるのである。

あなたのマイナスを神の恵みと受け取れるか?信仰のカギはそこにあるのかもしれない。

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