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「未来の救い主」(ルカ2:22~37)

 イスラエルでは男の子の初児(ういご)が生まれると、購いの献げものとして「子羊一頭」と定められていました(家庭が貧しい場合は「鳩でもいいよ」とされていました)。これもその辺りで捕まえてくればよいのではなく、神殿の境内でお墨付きの鳩を買わねばなりません。神殿の境内では鳩売り業者や両替商がテキヤのように軒を並べていて、これが市民への搾取のシステムとなっていたのです。後に「宮清め」の場面でイエス様の怒りをかうことになります。
 場面は首都エルサレムです。裕福な夫婦も多い中で貧しい身なりのヨセフとマリアはなけなしの金を叩いて鳩をささげます。
 ここでシメオンというおじいちゃんが出てきます。彼は赤ちゃんイエス様を見つけるやいなや抱きかかえ、讃美の歌をうたいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」
 でもシメオンの言葉は祝福だけで終わりませんでした。一般に子どもが生まれれば「よかったね。すくすく育つといいね」「立派な人生を歩みますよ」となりますが、シメオンは「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたり…反対を受けるしるしとして」この幼子がいずれ直面する過酷な運命を告げます。救い主は人々に栄光と繁栄を告げ知らせるだけの存在ではないのです。クリスマスの三色は「白(純潔)、緑(永遠)、赤」です。赤はキリストが十字架の上で流した血を意味するのです。クリスマスはめでたいだけじゃあない。この幼子はやがて血をもて私たちを救いに導く。そのことをおぼえる時なのです。
 
 さて一方ここにもう1人アンナという84歳のおばあちゃんが登場します。彼女は夫に先立たれた後、預言者として神殿に仕えていました。今でいうシスターのような存在といえるでしょうか。彼女もまた、長い人生の間ずっと主の訪れを待ち望んでいました。貧しく若い夫婦の元に生まれた幼子イエスこそが来たるべき方だと彼女も見極めるのです。
 でも…なぜこの二人は、自分の前に現れた貧しい夫婦の子どもが救い主だと気付いたのでしょうか。ひとつには彼らが長い人生の中での経験から人を見る目があったということでしょう。二人には長い人生の中で培った経験があったことは確かでしょう。でもそれだけでしょうか?むしろ人間的な経験や思い込み、常識といったものから人は頑迷になってしまい、逆にしばしば人を神様から遠ざけることも多いのです。世間の声に惑わされずに、神様が指し示される方を見分けることができたのは、二人の高齢者が純粋な幼き心を併せ持っていたからではないでしょうか。旧約聖書ではモーセやアブラハムなど、歳を重ねた人が神様の声を聞いて度に出る場面があります。それまでの世間の常識に縛られていては、とてもできないことであり、ただ神様の示すところへ行こうとする素直な信仰のゆえです。
 
 しかし…シメオンにしてもアンナにしても、彼らの望んだ救いが訪れるのは(イエス様が実際に福音を伝えるのは)これから少なくとも30年後のことです。そして福音が世界に伝わるのはずっと後のこと。その時には二人は既にこの世にはいないでしょう。でも二人の高齢者は自分たちのいない未来に、きっと神の国がくる、神の平和が実現するという希望を託したのです。これってスゴイことですよね。
 シメオンの賛歌は「ヌンク・ディミティス」と呼ばれ教会で歌い継がれてきました。「あなたの救いがどのようなものであるか、この目で確かめることができたのから、もう私の人生に思い残すことはない。」そういう歓喜の言葉です。そして同時に「きっと遠からず世界のすべての人々がこの救いに与り、この救い主と共に神の国を実現してくださるだろう」という祈りでもあります。
 
 ロシアによるウクライナへの侵攻、中国による香港(あるいは台湾)への影響力強化。国内ではそれにつられるかのように、軍事費強化が叫ばれています。どんどん経済も悪化しているというのに…。また統一協会が政治に深く食い込んでいたことも明らかになりました。絶望的に見える状況ではあるでしょう。けれど、今すぐではなくとも私たちは希望を捨てる必要などないのです。キリストと共に必ず平和を築くことができるのです。 

 終わりになりますが…これまでいくつかの教会の100周年とか50周年に牧師として立ち会う機会がありました。それは本当に感謝なことでした。でもそのたびに私は「果たしてこの教会は宣教100年、150年目を迎えることができるだろうか」という危機感を抱いてきました。最初に開拓伝道を志した人たちは「まあ20~30年続けば御の字かな?」とは決して思わなかったことでしょう。あるいはこの日本の地に宣教された方々はどうだったでしょうか。激しい江戸幕府の迫害に耐えた人々は?あるいは初代教会の方々の思いは?私たちの教会が今ここにあるのも、そうした「自分たちが直接見ることはない遠い未来」に信仰の幻を抱いた人々の祈りによって今ここにあるのです。
 
 地上にあるすべての教会が決して忘れてはならないことです。

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