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礼拝説教「白い悪魔がしのびよる」(マタイ4:1~11)

 元旦に大きな震災が起きましたけれど、あれ羽咋市にある志賀原発が稼働してなくて本当によかったですよね。もし稼働していたら…大変な事態になっていたんじゃないでしょうか?原子力政策って恐ろしいものがあって、小学校に無料の副読本まで作って「原子力とはこれだけ有力かつ安全なエネルギーなんですよ」と子どもたちに吹聴していたのですよ。今も政府は原発を動かしたくて仕方がない。それにしても「ウランから核燃料や電気が作れますよ」なんて正に、石をパンに変えるみたいな魅力的に見える話じゃないでしょうか?これだけ地震の多い国で、原発事故が発生したらどうなるのか…守らなければならないもっと大切なものがあるんじゃないでしょうか?
 
 また屋根から飛び降りた人が無事でいる、そんな奇跡が起きたりすれば、日本社会でマイノリティーなキリスト教のへの注目は増すことでしょう。でもどうでしょうか…オウム真理教が勢力を伸ばす時に教祖による空中浮遊がどうのと話題になりましたよね。キリスト教徒で「イエス様の奇跡がすごいから信じました」って人いますか?いませんよね?
 奇跡っていうのはなにか奇術のようなものに魅せられていくんじゃない。私たちが何も持たないところから発せられる祈りによるってもたらされる…それが奇跡ですよね。

 それと飛び降りる…って言いますけど、この国の中で自ら命を絶とうとする人が毎日どれだけいることでしょうか。ここから飛び降りれば何もかも苦しみから解放されて…そこまで追い詰められる人がたくさんいます。苦しめるのもサタンならば「ホラホラ、楽になれるよ」と誘うのもサタンの仕業です。
 実際に悪魔がイエスを誘惑したのはここじゃないか?と推測されるエルサレムの場所では、イエス様の時代に身を投げる人が多くいたという言い伝えもあります。今の日本のように。そんな狂った世界の中で私たちに求められていることってなんでしょう?それは隣人の痛みに寄り添うことでしょう?「地獄みたいな現実の中にだってキリストがいるんだよ。そこから飛び降りてしまう前に、ここにおいで。」そういう神の愛を伝えるのが私たちですよね。そこから解放される道筋こそが奇跡なんじゃないでしょうか。

 そして三つ目の誘惑。「我々キリスト者がサタンを拝むわけないじゃないか」と思いますか?カルトとは統一協会だとかエホバの証人だとか、韓国系のなんとかだけではありません。たとえば日本基督教団の教会で教義的に正しくても、キリストではなく、牧師や有力な信徒の発言が絶対化している教会なんてあちこちにあるでしょう…どことは言いませんけれど。

 教会がどんどん小さくなってくると、祈りとかみ言葉に聞くんじゃなくて、数字とかお金のハナシばかりするようになってしまう…。こうなるとお金を拝むただの寄り合い所帯でしかありません。こないだのアシュラムで榎本恵牧師が仰ってました。「なにも財産もなくて経済的な裏付けもなく祈り続けている…でもそれがええんや。奇跡を味わうことができます」と。
 ある程度のまとまったお金があって、老朽化した会堂や牧師館を建てかえようという話はあっても、祈りもないし聖書にも聞こうとしない教会には、神様が「あんたらには必要ないやろ」とそういうものが与えられることはないのです。

 また私たちが「良き行い」とか「前向きな姿勢」を進ませようとする意志の中にも実に効果的にサタンは囁きます。教会は「宣教」「伝道」する共同体です。聖書的な「善き行い」をすることが求められます。でもその働きの中にこそ、もっとも罪が生じやすいというパラドックスを抱えます。「金子先生の説教は素晴らしい」とか「◎◎教会は信徒が増え続けています」みたいな時に「白い悪魔」が忍び寄るんです。悪魔は実によく聖書を知っています。カルト宗教が訪問してくれば対応はわかりやすい。でも本当に厄介なのはキリスト者である私たち自身です。私たちは人を裁く時に、聖書の言葉を振りかざしてしまいます。また教会的常識、教会的思い込みが人を傷つけます。自分を甘やかし正当化する時に、聖書の言葉を使ったりもします。聖書の言葉を使って私たち自身が実にたやすくサタンになってしまうようです。
 キリストは自分の力でサタンを撃退することもできた。けれどすべて聖書を引用されてサタンと向き合われました。神の言葉はサタンに利用されるがままではないのです。
 
 私たちもイエス様と同様に日々サタンに試みられています。でも、だからといって萎縮してしまったりする必要はありません。毎日み言葉に触れましょう。祈りの日々を送りましょう。福音に立って人を愛し支える働きをこの受難説にいたしましょう。困難にあるその人がこの状況から信仰を得て歩めるようにと、祈りましょう。祈りによって、人間的な限界を超えることができるはずです。イエス様は常に神のみ言葉に正しく立ち返ることで、サタンの誘惑を退けられました。キリスト者は常にみ言葉に立ち返り、み言葉によって支えられてきたのですから。
 

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