合理的配慮と合理的差別
◯ はじめに
こんなことが起きました。
これが燃えに燃えて、SNS界では「合理的配慮」がトレンド入りしました。2021年に、伊是名夏子氏の来宮駅来訪の時にはそんなことはなかったんじゃないかな、と思っています。この間に合理的配慮の概念が世間に浸透したのかなあなんて思って勝手にちょっとうれしくなっています。
ただ、まだまだ理解が正確ではないところ、もしくは意図的にか、曲解しているような発信が見受けられましたので、仕事で交通バリアフリーに関わってきた経験から
・合理的配慮の意味
・合理的配慮の提供の「義務化」の意味(2024.4~)
そして
・合理的差別
について、書き置いておきたいと思います。
◯合理的配慮の意味
・合理的配慮って何?
様々な障害を抱える方が、お店や施設を利用するにあたってその障害ゆえに困難が生じる時、事業者(+公共団体)が「どうやったらその方はこの店を利用できるようになるだろう」と考え、提案する具体的なサービスのことです。
たとえば、目の不自由なお客様がレストランで食事をしたいとき、メニューが見えなければ不便ですよね。耳が不自由なら注文も健常者と同じようには出来ません。これが障害ゆえの困難です。そして、レストラン側が点字式のメニューを用意したり、タッチパネル式タブレットにハプティカルフィードバック(押すと微弱にブルッとするやつ)機能をもたせたり、それが店として出来なければ、メニューを代わりに読み上げたりオススメを教えたり、筆談で対応したり、その方が食事を取れるように図らう。それが合理的配慮です。
・その場、その時々によって変わる合理的配慮のあり方
目の不自由な方については障害の程度や個人の把握能力により、喫食、中座、着席、会計…シーン別に様々な配慮が必要になってきますね。専門的な教育を受けた人を一人付きっきりにしないと店の利用が難しい場合も多いかも知れません。ゆとりのある雇用・人員配置と、教育機会に恵まれた大きな店ならば、もしかしたら当日にお一人でいらしたとしても対応可能かも知れません。また、ノウハウとして継承されているものがある場合にも店側は硬度な配慮を提供しやすいという場合もあるでしょう。しかし、日本の殆どの飲食店は店主+店主の家族+パートで構成される小規模店です。ゆとりのある雇用や人員配置は望めません。では、そうした小規模店であっても、大きな店と同様の配慮を提供できなくてはいけないのか。そうではありません。
・過重な負担とならない範囲 という定め
この合理的配慮のあり方については、事業者(店)の「過重な負担とならない範囲で」行ってください、ということになっています。出来る限りやりなさい、だけど出来ないことは仕方ないということです。小規模店でずっと付きっきりのスタッフを配置するのは、店側にとって十分過重な負担となり得ます。よそにヘルプを求めるにしても、当日突然の来訪であったりすると、その助けを求める時間的猶予がない場合もあります。その時々によって出来る範囲というものが違うということもあらかじめお互いに把握しておかなくてはいけないことです。
すごく話は飛びますが、茶道の考え方ではそうした不意の来訪についても心抜かりなく日頃から用意しておくのがもてなしの基礎であると説いていますが、その時代(千利休の時代)にバリアフリーの概念なんてねえから。こいつ全然関係ない話でいきなりブチギレてるなって思われるかも知れませんが、合理的配慮の講話をされる方のなかには、この話を引用なさる方がそれなりにいるので、ここで「それは違うよ」と釘を差しておきたいのです。
話をもとに戻すと、「視覚障害者に飲食サービスを提供する際の合理的配慮」といっても、店の規模、人員配置の状況、予算規模、時間的猶予…などなど、様々な要因でそれぞれの店、時と場合で出来る範囲というのは変わってくるし、それを法は認めているということです。店が置かれた状況を踏まえて「これだったら出来るな」っていうことを提案していくことが求められています。それ以上のことを求めるものではありません。つまり、実際のサービスレベルにおいて大規模店とそうでない店とに同じ水準を求めるものではないのです。
・配慮は「双方の建設的対話」に基づく
とても見落とされがちで、意図的に曲解されやすい部分でもあります。これらの合理的配慮は、事業者と利用者、双方の「建設的対話」に基づいて行われるものと定められています。
「建設的対話」って何?って話なんですけど簡単に言えば
・事業者(店)側は、どうやったら利用できるようになるか提案する
(過重な負担とならない範囲で)
・利用者側も同じように考える
・互いにその前提に立って、コミュニケーションをしたうえで、提供されるサービスを合理的配慮という
ちょっと難しいですが、事業者(店)と利用者、双方納得の上ならサービスを提供したらそれは合理的配慮であるし、そしてサービスを提供できなくてもそれはそれで仕方ないねってことです。
ただ、依然として残る難しさっていうのが、利用者の望むことを提供できない場合に「利用者側が納得することなんてあるのか」ってことですね。でもこれは相手が障害者だろうと大統領であろうと、出来ないものは出来ないし、無理なものは無理だということを前提とすれば、あとは客あしらいの領域なんだろうと思ってます。
何かお願い事、メニュー表、既定のサービスにないことをお店に頼むときってありませんか?「歓送迎会での宴会料理、残しちゃったけど持ち帰っていいか?」とか。それを尋ねた時に
「はあ?何いってんの、ムリムリ!なんかあったらこっちの責任になるんだから」
って言われるか
「申し訳ないっすけど、衛生的にそういうのはご遠慮いただいてンすよね」
って言われるか
どっちのほうが好感度高いでしょう?後者ですよね?好感度高ければどうなりますか?後腐れなくなりますよね。つまりそういうことです。
何か要望をした客には、断られる際に「言われたい言葉」があるんです。「言われたい言葉」を言われたら、渋々であっても納得せざるを得ないんです。その「言われたい言葉」って、イコール「要望を叶えることが出来ない正当な理由」なんじゃないでしょうか。"効く"言葉ってやつですね。それとワードセンス。つまり、建設的対話というのは何も特別なことではなくて、常日頃相手が誰であろうと、たとえば健常者相手に行っていることの延長線上にあるものではないでしょうかって思ってます。それならとりたてて警戒する必要もないですよね。合理的配慮やら義務化やら、なにか脅しのように感じられる語句が並んでいると、事業者としては警戒センサーが働いてしまうのは無理もないのですが、そう構えないで、相手の要望をまず聞いて、やれること・やれないこと、そしてその理由を普通に話せばそれで済むことです。例え話の重ねで申し訳ないですが、宴会料理の持ち帰りを、障害者相手に限り衛生的に完全に安全な状態にして許可しなくてはいけないとか、そういうことでは決してありません。現状無理なものは無理、それでいいのです。
あと、たとえば、伊是名夏子氏の来宮駅のアレについては熱海駅長が「特別に」対応しましたけど、伊是名氏ご本人のブログにもある通り「今回は人手が集められたので対応できた」という点をかなり念押しされてます。「要望を叶えることが出来ない正当な理由」とともに「要望を叶えることが出来た特別な理由」についても、それがあれば説明しておくとなお良いでしょうね。
*建設的対話はその場限りのものではない
これも併せて言っておかなくてはいけないかもしれません。「双方の建設的対話」というのは、サービスを求める・提供する段にのみ発生するものではありません。社会制度や事業者の仕組み、合理的配慮の提供をレベルアップしていく際にも求められるものです。現状は現状で受け入れてても、将来はもっと改善されていてほしいなと思って現状を「我慢」している方もいます。その改善や、改善を求めていく際にはもっと念入りに双方の建設的対話を行う必要がありますね。
◯合理的配慮提供の「義務化」の意味(2024.4~)
大見出しにしましたが、何も難しいことはありません。上で書いた合理的配慮をやりましょうというだけです。
・どうしたらこの方はウチのサービスを利用できるようになるかな
・出来ないものは出来ないけど、どう説明したらわかってもらえるかな
を考えて実践するだけです。考えない、実践(提案、対話)しないのはダメだよってだけです。いまほとんどの事業者(店)がやっていることですし、4月から世界が変わることは、ハッピー・アンハッピーに関わらず、ありません。
意図的に曲解するひとが多く使う論法は
『絶対に利用者の要望を叶えなければならない』
『不満を抱かせてはならない』
という点を強調してきます。それは間違ってます。
ただし、対話・コミュニケーションの成否に重きが置かれてしまっていて、どれだけ誠意を尽くして説明しても、誤解されたり理解されなかったりもして、それがすなわち合理的配慮の提供義務に反している、と非難される場合もあります。
でも安心してほしいのは自分が誠意を尽くして説明・対話したという自負さえあれば、それは健常者相手、他の客のときと同様にクレーム処理の範疇で処理できるものであるということ、と捉えてよろしいかと思います。
◯合理的差別
これまでの文章で、合理的配慮を提供できなくても、或いは合理的配慮を提供しても健常者と同じサービスレベルやコンディションを保障できないのは仕方ないということを述べてきましたが、それって差別じゃないの?という疑問にお答えします。はい、差別です。ただし合理的な差別です。求められているのは、過重な負担とならない範囲で、対話をしながらも、合理的な差別をすることとと言い換えてもいいでしょう。
大規模なレストランであろうと目の不自由な方が2組、3組といらしたらどう対応しますか。映画館だって車椅子席・スペースは限りがありますね。鉄道列車もそうです。観光・旅行の分野で言えば、旅館だって観覧施設だって移動する交通機関の席だって限りがあります。すべてを健常者と同じにするのは今現在不可能なんです。だから合理的配慮の考えというのは事業者側の条件を満たした方のみ受け入れるという「差別」を正当化しているわけです。これは厳然たる事実です。これを叩き棒にするのも、背負わなくていい十字架にするのも、それは各人の自由ですが、この社会には合理的な差別というものが認められていて、だからこそ建設的対話を積み重ねることが重要なのだと述べて終わります。
「これは差別だ」と指摘してすべての座席が撤廃されて車椅子以外は立ち見の映画館が出来れば満足ですか?そこに経済的・社会的・エンタメ的な合理性はありますか?「少しの親切心さえあれば助け合いでなんとかなるのに」といって、今この瞬間に車椅子介助のリスクを双方許容するようになりますか?私はそういったものを信じません。ただただ、終わりのないもがきの中でその時々に出来ることをするしかないのだと思っています。
おしまい