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365歩

 俺の名前は城本ひろし。轟勇戦隊ファイヤーレンジャーのレッド、灼熱のリーダーだ。
 一見どこにでもいる平凡な大学生だが、それは仮の姿。町に暗雲が立ちこめた時、スーパーヒーローへと変身して世のため人のために戦い抜く。
 それが俺、城本ひろし。
 だった。


 ハローワークに通うのも飽き飽きし、息抜きのため公園へと足を運んだ。入口では、この町のマスコットキャラクターであるぺん太くんが風船を配っていた。ご苦労様、と思いながら素通りする。自動販売機でスポーツドリンクを買い求めてベンチに腰かけた。痛む足をさする。
 撮影中に怪我を負い業界を引退した。特撮のスーツアクターをやっていたのは、ずいぶんと昔のことだ。
 ペットボトルのキャップを開けて一気にあおり、一息。嫌味なくらい透き通った空に、ため息がもれる。
「うああああん!」
 唐突な大声に反射的に立ち上がってしまった。声の主を探すと幼稚園ほどの子が1人、地団駄を踏んでいた。隣でぺん太くんが身振り手振りで慰めようとしているが、泣き止む気配はない。俺はたまらず駆け寄った。
「どうかしたんですか?」
 声をかけると、ぺん太くんは着ぐるみの腕を上げた。示した先には一本の広葉樹がある。クリスマスのオーナメントように、赤色の風船が引っかかっていた。
 ぺん太くんの手には風船がない。最後の一個が、今にも風で飛んでしまいそうなあの風船なのだろう。たかが風船くらいと思うことはない。きっと、この子にとっては大事な物だ。
「ここで待ってて」
 二人に言ってから木を見上げた。高さは三階建てのビルくらいだ。足場になる枝はたくさんある。体重をかけてみて強度を確認してから、地面を蹴って枝に飛び移った。根元のほうに足をかけて登っていく。風船は細い枝先に引っかかっているだけなので、木を揺らさないように、慎重に。
 糸先につけられた風船の持ち手が不安げに揺れている。手を伸ばしてつかみ取ろうとしたが、するりと逃げられた。
「あっ!」
 声を上げたのは誰だったか。
 風船が透き通った空に昇っていく。嫌味なほど手が届かない広さ。そこに、差し色のように風船が。
 赤。
 レッド。
 それは城本ひろしの色だ。
 俺は宙に身を投げだした。空中で二回転し、着地ポーズを決めた。昔取った杵柄は骨の髄まで染み込んでいたらしい。足先から脳天まで一気に痺れが襲い、冷や汗がどっと噴きだした。
 体はみっともなく震えるし、心臓なんて破裂しそうだ。しかし俺の手には細い手綱が。のんきに漂う風船がある。表情だけでもどうにか取り繕うと、子供に風船を返した。
「ありがとう!すごいねおじさん!」
 いつの間にか子供はすっかり泣き止んでいた。
 この表情、見たことがある。久しくお目にかかってないが。
 まるで体中の血液を一瞬ですべて新品にしたような感覚だった。気付かずに背負っていた重いベールを脱ぎ捨てたような。
 子供は手をぶんぶん振って、ぺん太くんは何度も頭を下げて、去っていった。
 こんな俺にも出来ることはある。おもてを上げると、なにげないレンガ道が、新緑をなびかせる木々が、不思議なほど光を蓄えて見えた。
 輝ける世界に、俺は足を踏み出した。
 まずは一歩。

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