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カミサマの一服

 この街にはカミサマがいるらしい。
 実家でもある中林茶屋店の軒下にはカミサマにまつわる水鉢がある。腰をかけられるほどの水鉢は、石灯篭のようにも見える。鉢に水を満たしておけば厄災を逃れる、幸運が訪れる、などなど。そんなことを信じてありたがっているのは、祖父を筆頭にしたごく一部の人達だけだ。小学生だった頃、縁日でとった金魚を水鉢に入れようとしたら、信じられないほど祖父に怒鳴りつけられた。それ以来、水鉢には近寄らないようにしている。
 触らぬ神には祟りがない。
「ありがとうございましたー!」
 軒下まで出て、お客さんに向かって大きく頭を下げる。昼もとっくに過ぎて、客入りが落ち着いてきて一段落。太陽の熱にジリジリと焼かれ、すぐに汗がにじんできた。打ち水でもしたほうがいいのかもしれない。
 年々最高気温を叩き出している猛暑は、今年も裏切ることなくやってきた。もはや四十度は当たり前。外出する際は水分と塩分補給、日傘を忘れずに。
 息をするのも辛い暑さだが、コロナ渦で減ったお客さんは戻りつつある。「この暑い中、わざわざウチに来てくれるんだぞ」が口癖になっている祖父は、毎朝せっせと冷茶を仕込んでいる。お客さんはもちろん道行く人にも振る舞うので、毎日それなりの量になる。その功もあってか暑さにも関わらず黒字続きだ。
 お客さんがいないうちに棚の整理をしておこうか。それとも、冷茶が減ってきたから補充をしておこうか。一人ではやることが山積みだ。
 自慢のお茶を振る舞っていた祖父は、脱水と熱中症にやられて昨日から入院している。一緒に働いている自分が気をつけるべきだったと反省したが、入院しても気力があふれている祖父は点滴の腕を振りながらあれこれとうるさかった。
 自分より家族より、とにかく他人が第一。そんな祖父が心血を注いでいる店を預かったので、一日で評判を落とすわけにはいかない。
 ささっと棚の整理をしたあと、冷茶の準備に取りかかった。味はいつもと同じように煎茶と麦茶の二種類。お茶は手順通りにやれば必ず美味しく淹れられる。祖父にみっちり教え込まれているので、腕には自信がある。淹れたあとは必ず味見をするのがセオリーだ。いつもと変わらない、すっきりとした飲み口のお茶に仕上がった。
 店内はクーラーをつけているので涼しいが、常時開放している入口からは稼働中のオーブンのような熱気が漂ってくる。これでは客足も遠のいてしまうだろう。
 店の奥の居住スペースから、バケツに水をくんできた。店の戸口に立てかけていた柄杓を持って、軒下に水をまく。一回、二回、三回。一働きして満足したところで、不快な蒸し暑さが襲ってきた。そういえば祖父はいつも朝か夕方に打ち水をしていた。突き刺す日差しとサウナのような暑さに、失敗したと思い知らされた。
 肩を落としてきびすを返したところで、水鉢が目に留まった。常にゆうゆうと水を蓄えている鉢が、空っぽだ。毎朝休むことなく水を足している祖父がいないからか。物心ついた頃から鉢には水が張っていたので、間違い探しのような違和感がある。
 ざらざらとして乾いている岩肌が、昨日の祖父を思い起こさせた。その場にいた人たちが協力して救急車を呼び、応急処置をしてくれたから助かったものの、自分はパニックになるばかりでなにもできなかった。
 柄杓を握る手に力が入る。左右を見渡して人がいないことを確認してから、水鉢に向き直った。一回、二回、三回、おまけにもう一回。ゆっくりと水を注いでいく。鉢に水紋が広がり、澄んだ水で満たされる。見慣れた姿になった水鉢に心が落ち着いた。
 ゴロゴロゴロ。
 うなるような音にはっとした。いつの間にか空一面に、暗雲が垂れこめている。目を白黒させているうちに雨粒が落ちてきて、あっという間に土砂降りになった。白くけぶるような雨を、軒下でぽかんとして見上げる。うだるような暑さが雨と一緒に流されていく。
 我が物顔でどしりと構えている水鉢を、横目で見やった。



「そろそろ開店だぞ」
「わかってるって、じいちゃん」
 翌日。祖父は何事もなかったかのように退院した。病み上がりなのだから一日ぐらい休めばいいものを、当然のように働くから祖父らしい。
「あ、じいちゃん。待った待った」
 祖父がふらふらしながら運んでいたバケツを横から奪った。澄んだ水がちゃぷりと揺れる。
「これは俺がやるからさ」
「お前が?」
 しわくちゃの顔にさらにシワが寄った。怪訝そうにしていたが、なにか得心がいったようにニヤリとすると肩をポンと叩いて去っていった。
 バケツを慎重に運んで外に出た。鉢の水は昨日より減っている。カミサマだろうが人間だろうが、誰だってノドは渇く。いつまでも元気でいてもらわないと寂しいじゃないか。
 柄杓をつかむと、なみなみと水を注いだ。

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