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正論という名の剣

恥ずかしながら、私は若い頃、仕事では間違っていると思っていることに対して、正論で返すことが良いと思っていた。

正論というのは、耳の痛いことが多いわけで。

分かっているけれど、現実的に出来ないことがあって出来ていないことが多く、悪意を持って、間違った方向に進んでいることはそこまで多くない。


私の経験上ではあるが、分かっているけれど、こうなってしまった、という事象に対し、正論を述べたところで、その事象が解決する事は少ない。


むしろ、その正論は剣を振りかざした後のように、後々、今までの信頼関係の修復が難しくなるほど崩れてしまう事すらあるものだ。

そんな私に、正論以外の事を受け入れられない後輩がいる。
昔の私を見ているようで、苦笑いしたくなる。

あるとき、耐えきれなくなったのか、勤務中に過呼吸になった。
心が悲鳴をあげている事が良く分かった。

私は、彼女に早退を勧め、週末まで何も考えずに過ごして。と、彼女の仕事の一切のフォローを引き受けた。

色々ぶつかり傷つきながら歳を重ねた今の私。


「なぜそうなったのか」


事象をなるべく正確に把握し、それぞれの思いを汲み取り、ベストな結論は何か、を丁寧に進める努力をする。

悪いニュースであればある程、そうしている。
手間も精神的負荷もかかるけれど、信頼関係を壊さずに対応する私なりの方法だ。

正論を述べ、あとは知らない、と言う事で課題を分離する人も沢山いる。
そのような対応でも、仕事はそれなりに回るわけで、たまに自分は損な対応をしているのかなぁ、と悩む時もある。

悪いニュースの対応ほど、その人の人間性が分かったりするもの。

ピンチな状況に立たされた時に、嗅覚を働かせてハマらないように。誰かに責任を押し付けて、知らないふり。そんな人も沢山見ている。

逆に、ベストなタイミングで誰も傷つけずに、起こった事象を収める人もいる。

人は見ているようで見てないないが、見ていないようで見ている。

今は、混沌とした時代だ。
古いも新しいも善も悪も入り混じり、大量の情報に埋もれている。 

何が正しいか、ということは、案外ちっぽけなものだ。

もちろん、正しいことはいい事だが、それよりも大切な事が沢山ある。

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