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後世に伝える大切さ

コツコツ習うYOGA教室が掲げているのは「常設練習会」である。今日は、「もう一緒にやってもいいよね」と、先生も一緒に練習し出した。いつもは先生はストップウォッチを見ながら、私の限界値を突いてくるのだが、今日は先生も一緒に練習。なんとなくで止めてくるかと思ったら、私には視線は送れない位置で練習しているにも関わらず、きっちり私の限界を突いてくるので(苦笑)、改めて、先生は何を視ているのか?全く、自分の拙いボキャブラリーでは言い表せないのである。

そんな先生は最近、私に「もう、いつでも友人と一緒にやっていいんだよ。もうわかるでしょ。」と言う。基本的には1人で生きてきた、きっと今も違う仕事では、黙々と仕事を1人でこなしているだろう方なのに「シェアすることは大切なことだと思う」とおっしゃるのだ。身体が分かっていない人が、口伝だけで教えることに対してはとても厳しいのだが、確実に起こってきたいくつかの身体の変化を見てきた生徒さんに対しては先生は、「仲間が欲しいんだ」とおっしゃっているのだろう。孤独の虚しさも噛み締めて生きていらっしゃる先生からのこの一言は、本当に貴重に思う。

しかし、一緒に練習すると圧倒的な筋力、技術、安定感、心眼の差(筋力は男女の差はあれど)を感じるし、教わっている側と教える側では景色は全く違うだろうことも容易に想像できる。差が大きすぎて、先生に並ぼうなんて気持ちも起きないが、まだまだ準備などできそうにない。

そんな先生は「自分だって、あなたたちに先生にしてもらったと思っているよ。最初から先生だったわけじゃない」と。

完璧なんてないのであろうこの世界で、1つのことがその土地に根付く中で、ローカル化することも折り込み済みながら、教えること、と言うより叡智を後世に伝えることの大切さを身に染みて感じていらっしゃるのだろう。

後世に伝えること。となると、しゃんと背筋が伸びてゆく感覚とともに、まだまだ伝えられる身ではないことも痛感する。なにせ、週に1回。亀のあゆみである。

けれど、「伝えること」というのは、何となく。自分がやりたいか、やりたくないか?という自我的な感覚ではなく、自然とご縁のある人がその役目を担っていくようになるのかもしれない。ふとそう思った。

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