『怠ける権利』
19世紀後半の社会主義者、ポール・ラファルグの著作。
強い言葉で資本主義と有産階級をこき下ろし、それに懐柔されたプロレタリアートをこれでもかと罵倒する。
怠惰を根絶し、怠惰が生み出す自尊心と独立の意気を挫くために、貧民を理想的労働施設(idealworkhouses)の中に監禁することを提案した。これは、「一日十四時間働かせ、その結果、食事の時間も短縮されて、まるまる十二時間の労働時間がのこるように図られた恐怖の施設」である。(中略)現代の工場は労働大衆を幽閉し、男のみならず女子供にも、十二時間から十四時間の強制労働を課する理想的な懲役施設になったのである。(中略)フランスのプロレタリアートよ、恥を知れ!おもうに奴隷だけが、このような下賤な地位に耐えうるというものだ。
自分たちのわめき声で耳を聾され、ぼけてしまった経済学者どもは応じる。「働け、働け、君たちの安楽を産み出すために絶えず働け!」。さらに、キリスト教の寛容の名の下に、英国国教の一司祭、タウンゼンド猊下は御託宣を並べる。働け、働け、昼夜を問わず。働くことによって、おまえたちは貧乏を深める、そしておまえたちが貧乏すれば、われわれは法の力をふりかざしておまえたちに仕事を強制しなくてもよい。(中略)働け、働け、プロレタリアート諸君。社会の富と、君たち個人の悲惨を大きくするために。働け、働け、もっと貧乏になって、さらに働き、惨めになる理由をふやすために。これが、資本主義生産の冷酷な法則なのだ。
「ご親切なシャゴ様、おやさしいシュネデール様、仕事をお与えください。私どもを苦しめているのは、飢えではなくて、働きたい情熱なのです」。そして、ほとんど自分で立っている力もないこのあわれな者たちは、やる仕事がたっぷりある時より二分の一もの安値で、十二時間から十四時間労働を売る。こうして産業に巣喰う博愛主義者どもは、さらに安価に製造するために、さっそく失業を利用するというわけだ。
過剰労働に命をかけ、節約に明け暮れるという、労働者のこの二重の狂気の沙汰を前にして、資本主義生産の最大の課題は、もはや生産労働者を見つけることや、その労働力を倍加することではなく、消費者を新たに見つけ、欲望を刺激し、偽りの必要を作り出すことである。ヨーロッパの労働者たちが、飢えと寒さに震えながらも、自分たちが織った布を身につけたり、収穫したワインを口にするのを拒むものだから、小利口で哀れな製造業者たちは、それらを着たり、飲んだりしてくれる者を求めて、東奔西走しなければならない。
ああ!桃源郷のオウムのように、彼らは経済学者どもの講釈を口真似して繰り返す。「働こう、働こう、国家の富を殖やすために」と。おお、愚かな者らよ!生産施設が遅々として充実せぬのは、おまえたちが働きすぎるからなのだ。
商品の過剰生産も何のその、産業的まやかしも何のその、労働者たちは仕事!仕事!と哀願して、市場に商品を夥しくあふれさせる。過剰になれば彼らは情熱を抑えねばならないはずだ。だが逆に、過剰は彼らの情熱を極限にまで昂揚させる。働くチャンスがあると、連中は飛びついていく。そこで、満足のため彼らが求めるのは、十二時間、十四時間の労働だ。そして翌日には、連中は悪癖の糧を切らせ、ふたたび路上に放り出される。毎年、どの企業でも、失業は季節的に規則正しくやってくる。身体を毀す殺人的過剰労働のあとに二、三ヵ月の完全な休暇がつづく。そして、仕事がなければ、喰いものもない。労働者の心に労働の悪癖が悪魔のようにとりついている時、自然にもつほかの本能をことごとく労働の欲求が圧殺している時、また、社会が要求する仕事量は、消費と原料の豊富さで必然的に限られたものであるのに、一年分の労働をなぜ六ヵ月で貪欲にむさぼり喰おうとするのか。なぜそれを十二ヵ月に均等に配分し、六ヵ月十二時間労働の消化不良をおこす代りに、すべての労働者が年間一日、五時間ないし六時間で満足するように仕向けないのか。一日の仕事分がきまれば労働者たちはもはや、互いに妬み合い、手から仕事を、口からパンを奪い合うために、いがみ合うこともしなくなるだろう。そうなれば、心身ともに疲れ果てることなく、怠けることの美徳を発揮しはじめるだろう。
アリストテレスの見た夢は実現されている。火の息を吐き、鋼鉄の四肢をもち、疲れを知らず汲めどもつきぬすばらしい生産性をもつ機械が、従順に自分から進んで聖なる労働を遂行している。それなのに、資本主義のお偉い哲学者たちの頭は、最悪の奴隷身分である賃金制度の偏見にとらわれたままだ。機械というのは、人類の贖主であり、人間を卑しき業と賃金労働から買い戻し、人間に自由と暇を与える《神》であるということが、奴らにはまだわかっていない。
Paul Lafargue (原著),田淵 晋也 (翻訳)『怠ける権利』(平凡社ライブラリー,2008)