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「生きるために働く」から「生きることが働くこと」になるために

 私がはじめて「ライター」という仕事をしてから、今年で14年になる。出版社の営業だったのに、ある雑誌でプロレス企画をすることになり、多少なりとも詳しくて「聞き手」ができるというだけで、全くの未経験だったのだが、大過なくまとめることができた……と思う。その後、ブログを書いていた縁でメールマガジンの寄稿依頼を頂いたり、ネットニュースのライターのお仕事を貰えるようになった。ただ、この頃は「書く」ことを仕事にするという意識は薄く、あくまで趣味の延長線上だったように思う。

 その後、リーマンショックの余波もあり、当時勤めていた広告企画会社を解雇になった。そこから転職活動をしつつ、ライター仕事を必死になって増やした。この段階になっても、まだ「書くこと」に腰を据えて取り組む気にはなれなかったのは、自分が出すコンテンツに十分な自信があったわけではなかったからだ。記者としての経験を新聞・出版社で積んだわけでもなく、「師匠」と呼べる存在に出会えて「弟子入り」したわけでもない私は、学生時代に濫読して、寝食を忘れて映画見まくった10代~20代前半の「おつり」でなんとか書けている。そんな自分が、ずっと業界にいた人に勝てるとは思えなかったのだ。

 だが、解雇されてから約2年経って、100件以上の面接を受けても内定の一つも貰えなかったため、さすがに腹をくくるしかなくなった。私は「生きるために働く」手段として、インターネットメディアの売文業を選んだ。

 私が本格的にネット媒体で記事を書き始めた2011年頃は、TwitterやFacebookが普及して、PVと同様に重視されるようになっていた。反応がダイレクトに数字でも読者のコメントという言葉でも返ってくる。ブログ運営で慣れていたとはいえ、その数の多さと辛辣さにはしばしば打ちのめさせられた。反応が多いと当然ながら賛否両論が投げかけられるし、反応が少なければ少ないでやっぱり落ち込む。そんな日々は自分のメンタルを知らずしらずのうちに摩耗させていって、時には完全にノックアウトされて、いろいろな人に迷惑をかけてしまったことも一度や二度ではない。とはいえ、「生きるために書く」と決めた以上は何度でも立ち上がらなければいけない。

 カバンにノートPCとカメラ、Wi-Fiルーター、レコーダーとスマホを入れて、私はいつでもどこでも戦った。ちょうど「ノマドワーク」がもてはやされ、「サードプレイス」という場所も脚光を浴びていたが、自分にとっては屋根がある場所でカフェラテを飲みながら仕事ができるなら恵まれている方だった。時には道端の柵に寄りかかったり、地べたに座りこんでPCを広げて作業をすることもザラ。我ながら苛烈に戦っていたと思う。必然的に「自分の時間」はなくなっていった。取材を重ねるうちに、あれだけ好きだった本や映画のことが好きではなくなっていた。自分のモチベーションはただただ書くことで「生き残ること」。どんなに傷だらけになっても、書き続けることでしか前に進めないし、数字(PVとかシェアとか)を残さないといつでも切られる。そういった危機感が自分を突き動かしていた。

 今振り返ると、この間に情報を汲み取ることばかり研ぎ澄まされていって、感性がゴリゴリと削られていったように思える。この頃、自分も他人もこの社会もみんな「嫌い」で、何が「好き」なのか思い出せなくなっていた。「こんな働き方、いつまでも続けられるわけがない」と頭の隅ではわかっていたけれど、やめられなかった。

 そんな私が、ゆっくりと変調していったのは2018年の秋ごろだっただろうか。食レポを書く時に味がわからなくなった。知識として、このピザはトマトとチーズを4種使っているから、クリスピーの生地の軽さもあって旨味が唾液を呼んで口いっぱいに広がっていくのはわかる。わかるのだけど、感じられない。

 次に耳。雑踏が遠くに聞こえたり、音程に違和感を覚えたりするようになった。そして視界が狭まり、色が霞んで見えるようになったかと思うと、瞼が痙攣するようになり、ついに一行も書けなくなった。しまいには、声を発することができなくなった。

 あちこちの、あらゆる病院を回った末、ストレス起因の失声症だと分かり、再帰性うつ病と診断された。これまでダウンした時は自立神経失調症だと言われていたのだが、それも全部うつだったのだという。それを聞いて、「ああそうか」と妙に納得したのと同時に、「もう書くことができないかもしれない」とも思った。「書く」ことが「働く」ことで、「生きる」ことだった私にとっては、死んだも同然だとも考えた。ひたすらぼんやりと霞がかかった頭を抱えて、夏が過ぎていった。

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 どん底からの糸は、思わぬところから垂れてきた。友人が誘ってくれた劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』を見て、「ああ、アニメはやっぱり素晴らしい」と感じることができて、彼と感想を話すことができた。霞がかかった状態で流していたテレビ版をNetflixで全話観なおして、その鮮やかな色遣いに目を見張った。観ているうちに、とにかく自然に囲まれたくなって、居ても立っても居られなくなり、思い切って逗子まで行って、海に落ちる夕日の美しさに見とれた。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』には雲海が広がる山頂の天文台に主人公が赴く回があるが、疑似体験がしたくて北志賀高原の竜王山にある『SORA terrace』に足を運び、ぼんやりと雲が自在に形を変えるところを見て、「楽しい」と素直に思えた。

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 この時の「楽しい」を残したい。それが自分の「書く」ことを取り戻すきっかけとなった。最初はPCを開くことが怖くて、タブレットでぽつり、ぽつりと言葉を並べた。が、言葉が浮かんでくるようになると、慣れない環境で変換が思い通りにいかないことがまどろっこしくなり、約半年ぶりにレッツノートを起動させた。その約2週間のちに公開したのが、このブログエントリーだ。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観て雲海を見に行った話  

 このブログでは、自分の「好き」を記録していった。そのうちに食べ物も「美味しい」と感じられるようになり、曲を聴いて頭痛がすることもなくなり、目が霞むのが怖くてやめていたサイクリングに行けるようになった。それをエントリーにすることで、言葉を取り戻していけた。

 思うに、「生きるために働く」という意識で「書く」ことに向き合っていた自分が、自分を見失っていったのは当然だった。2000年頃にホームページを作り、2004年にブログをはじめた頃は、「書く」ことが楽しくて仕方がなかった。だから、これからは「生きることは働くこと」を「書く」ことに結びつけられるようにすることが、私に残された宿題ということになるだろう。

 Wi-Fiやディザリングでいつでもどこでもネットにつながり、記事を投稿したり調べ物をしたりでき、Dropboxに画像を大量に保存でき、SkypeやChatWorkで仕事仲間とコミュニケーションが取れるというのは、私にとっては諸刃の剣だった。これらのサービスを利用することで自分の能力がどんどん拡張されていく気になっていたが違った。私はウェブサービスに「使われている」に過ぎなかった。

 とはいえ、「ライフワーク」だけをやっていて食べていけるほど、私は強くない。となると、「生きることは働くこと」=「Life is Work」を実現するには、いかにストレスなくウェブサービスを使っていけるか、ということが大事になってくるのだろう。特に事務的な作業を簡単に済ますこと。確定申告はFreeeで。請求書はMisocaで。ほかの決済システムも活用して、なるべく頭の負荷を軽い状態にしていく。

 おそらく自分たちの世代は老境に差し掛かってもリタイアせずに働き続けるという人が多いはずだし、私自身もハナからそのつもりだ。だからこそ、「生きることは働くこと」となるだろうし、そのためにはストレスをコントロールして細くても長く生きていくことを目指さないといけない。そのためにサービスに使われることではなく、上手に使っていきたいし、できれば生きることそのものが書く仕事に直結できるようにしたい。その先に、ほんとうの意味での「自由」を手にできるような気がする。

 まだうつから完全に抜け出せたわけではないけれど、そういったことを考えることができただけでも、この時間は無駄でなかったのだと、心底思える。これってかなり幸せなことなのかもしれない。


  

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