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言葉を駆動させるアートとして 増田セバスチャン氏『Fantastic Voyage』を観賞して考えたこと


 2月は気温差や気圧差にヤラれる一方で、タスクを数本走らせることに追いつかず、メンタル的にキツくてなかなかテンションが追いつかずに歯がゆい思いをした。とはいえ、自分の感性に刺激を受けるような出来事もあったので、「まだまだやれる」という気持ちを新たにすることもできた。

 ここでは、その出来事のひとつ、増田セバスチャン氏(以下、セバスさん)の新たなプロジェクト『Fantastic Voyage』で感じたことをつらつらと記しておきたい。

 昨年の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による緊急事態宣言で、ベルギー行きをはじめ予定されていた企画が全てキャンセルになったというセバスさんが、比叡山延暦寺に籠もってアイディアを練ったというこの作品は、倉庫などで使われている無人カートをベースにしたカプセルに乗って、イギリスの詩人T・S・エリオットの『荒地』をモチーフにした「四月」「失われたものの世界」「カード」「空想の都市 -Unreal City-」「塵土(じんど)-Resurrection-」を巡っていく、というものだ。各テーマはプロジェクターによる映像や、自身がこれまで培ってきた「Sensational kawaii」を発展させた装飾、そして会場となった『北千住BUoY(ブイ)』の施設を活かした仕掛けが用意されていた。

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 残念ながら、今回は安全面を考慮してカプセルへ実際に人を乗せることが叶わなかった。ただ、それぞれの「演目」をゆっくりと回るカプセルの動きは、ある意味では舞踏的であり、存在自体が「演者」であったと表現できるように思う。「それ」を目で追っているうちに、私はカプセルに自分の記憶が読まれて吸い込まれていくような感覚になった。それを上書きするようにゆっくりと色彩と闇が侵食していき、物語が変化していく。

 セバスさんは比叡山で修行する僧侶たちの「祈り」について思いを巡らし、「今は(隔離された世界で)、来るべき未来を想像するということが、唯一、ポジティブな行為なのだ」と述べているが、仮にカプセルに乗ったならば、視界に入り耳にするものに加えて、それを見るまなざしや、そこに込められる記憶、そして「言葉」が絡みついていくことになるのではないだろうか。つまり、この作品はコミュニケーションを駆動させるべく生み出された装置なのだという捉え方ができるように思えた。

 寺院では天災が起きるたびに祈祷が行われているが、科学的にいえばそれが何らかの影響を及ぼす行為ではない。それでも僧侶たちは祈るし、彼らが籠もる山を見上げる視線にも祈りが込められていたはずだ。それぞれの思いや「考える」=「言葉」は、変化を及ぼす行動に繋がる事にはなり得るだろう。事前の情報を見る限りでは、表出したかったのは「そういうこと」だと感じられるのだけど、セバスさんは鑑賞者それぞれが観て感じたことに委ねている。なので、個人的には「記憶を未来に運び変化させる」ための作品なのではと思っている。

 「考える」、あるいは「祈る」という行為には、「言葉」を用いるものだ。また、「感じた」ことを「伝える」あるいは「残す」ためにも「言葉」が必要だろう。「記憶」を繋いでいくためにも「言葉」が要る。そして、今の世界には「言葉」が足りない。

 27日のアフタートークで、セバスさんからは緊急事態宣言下において家に「籠もる」ことを強いられて以降の人の変化と、現在のネット、特にSNSでのコミュニケーションの問題について言及があった。それを聞いて、自分はセバスさんの『6%DOKIDOKI』で長らくショップガールをしていたパフォーマーの柘榴ユカさんの作品『Decay』のインタビューで、「もしかして自分の仕事はなくてもよかったんじゃないかと感じた」と語っていたことを思い出していた。

 新型コロナにより、アートやエンターテインメントは多大な打撃を受けた。個人的には、「不要不急」という言葉はあいまいだけれど強い響きがあるために、説得力はないけれど従わざるを得ないという作用をもたらしたように思える。それぞれにとって必要かどうか、急なのかどうかは違うにも関わらず、漠っとした言葉で示されてしまった。だから、誰もが自分の存在意義について揺らいでしまったのではないだろうか。本当に求められているのは、明確だけど弾力性のあるやわらかい言葉なように思えるけれど、為政者やメディアによる「あいまいな強い響き」に引きずられるように、SNSでもそのような言葉が蔓延してしまっている。それに対して自問自答する作用も、『Decay』や『Fantastic Voyage』には期待できるのかもしれない。

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 もうひとつだけ。今回の作品が敢行された『BUoY』は、もともと銭湯があったのだという。

 ここが建設されたのは1964年。奇しくも東京オリンピックが開催された年だ。そして2020年の五輪は延期となり、今後のことはまだわからない。前述した「記憶」には、場所が持つものもあるだろう。今回ならば、ライトアップされて水が吹き上がる演出があったが、それは過去の表出と捉えることも出来るように思える。ある意味では過去と現在を紡いでいくことによって、場所の記憶を蘇らせて後代へ伝わることになったといえる。

 そうやって街が変化していったとしても、人の記憶に残り、それが語られることによって繋げていくというのが、あのカプセルの進む先にあるように思える。だから、あえてこの作品を明確にするならば、「体験運搬型インスタレーション」と呼びたいと思う。アートとはそれを体感したり鑑賞して、その感想を語るコミュニケーションもぜんぶ含めてアートなのだから。



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