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宇佐見りん『かか』 感想

本というものは、ほんとうに"取りて読め"だと思う。なんとなくで気になって買ってしまい積んでおいた本を、ふと何かの拍子で手に取ると、まるで今日の自分のために書かれたかのような文章が出てきて驚く。多分大事なのは偶然手に取ることであって、この本からこれこれの内容について何かを得ようだなんて風に考えて読み始めると(そういう読書も好きなんだけど)、視野が特定のトピックに寄ってしまうから、驚きがあまりないのかもしれない。
今日ぼくが読んだ本は、宇佐見りん『かか』。少し前に『推し、燃ゆ』で芥川賞を受賞していた人で、こちらも以前に読んでいる。それでなんだったかのときに買って、今日ようやく読んだというわけになる。
あらすじを軽く説明しないことにはここから先の文章が全く伝わらないものになってしまうから、ざっと説明をするのだけれど、夫と離婚して以降、精神を病んでアルコール依存症になった母親(かか)と、19歳の娘(うーちゃん)を中心に進む物語となっている。かかは祖父と祖母(ジジ、ババ)と同居しているが、祖母はかかの姉であり既に亡くなっている夕子と、その娘である明子にばかり愛情を注いでおり、かかは孤独に苦んでいる。かかは病気で子宮の摘出手術をすることになるのだが、かかが入院する日、うーちゃんは「かかを産みたい」という願いを持って熊野まで鈍行で旅に出る、といった話。
母と娘の間にある断ち切れない絆や、その絆が父親の存在なくして生まれ得ないことへの葛藤、家族って何、愛って何、女であるって何、信仰って何、救いって何、そんな感じ。
ぼくの知る範囲でも、母と娘の関係性について悩みを抱えている人は沢山いる。ぼくは男だから人から話を聞くまでは全く気が付かなかったけれど、母と娘の関係性というのは、父親と息子の関係性や母親と息子の関係性より遥かに難しい問題だと感じる。多分だけれど、女の子は男の子より大切に育てられる分、(マイナスイメージの言葉を使ってしまうが)共依存のような関係性が自然と出来上がっていく傾向があるのかもしれないと思う。女の子が語る母親についての悩みは、一見すると「早く独り立ちして距離を置いたら」というアドバイスで全て解決しそうに思えるのだが、そんな単純な話ではなく、当事者でなければわからないような難しさを抱えているということなのだろうと(想像することしかできないけれど)ぼくはそう捉えている。この物語において、うーちゃんはかかがお酒を飲んで暴れたり泣き叫んだりすることに対して憎しみを抱いているけれど、それと同時にかかに対する深い愛情も描かれていて、この愛憎の表裏一体というのがわからないんだけれど説得力がある描写だった。
母娘の関係性もこれに含まれると思うのだけれど、"女であるということ"というのもこの物語を貫く大きな主題で、生々しい叫びのような文章がいくつもあった。きっと"男に生まれていれば"みたいな単純な話ではなくて、なんだかもっと、業のような話に感じた。

……うーちゃんはにくいのです。ととみたいな男も、そいを受け入れてしまう女も、あかぼうもにくいんです。そいして自分がにくいんでした。自分が女であり、孕まされて産むことを決めつけられるこの得体の知れん性別であることが、いっとう、がまんならんかった。男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ。
宇佐見りん『かか』

しかしこの人は、本当に人の苦しみを書くのが上手だと思う。共感覚のような、自分を投影できてしまうリアルな苦しみが、山ほど詰まっている。『推し、燃ゆ』のときもそうだけれど、この人は何故こんなにも苦しみの詰まった本を書くのだろうかという気持ちにならずにはいられないのである。ぼくは一応文芸サークルに籍を置いていた身であるから、恥ずかしながらも小説を自分で書いては溜め込んでいたりした訳なのだけれど、書くことはおおよそ自分の願望、ふと消えてしまいたいだとか、別の誰かに成り代わってみたいだとか、世の真理は本当はこうあって欲しいだとか、そんなことを出力して誰にも見せずに捨てるのが関の山だった。こんなに克明に人の苦しみを物語に出力するには、一体どんな感情を抱えて生きてきたのだろうかと、この本を読んでいる最中にずっと頭の中を駆け巡っていた。
残った疑問は、結局この物語は「子を産む」という事象を肯定しているのか否定しているのか、という話だ。ぼくは子供嫌いに見られがちだけれど、小さい子供は好きだし割と懐かれる。でもそれはそれとして、子を産むという行為そのものについてはふんわり反対寄りとでも表現すべき立ち位置にいて、生まれてくる子が幸せに生きていけるかどうかはかなり分が悪い賭けだと思っている。自分は子どもにお金をかけてあげられるからとか、愛情を注いであげられるからとか、理由を並べ立てて「大丈夫」って自信満々に言えてしまう人は毒親と紙一重だと思うし、ぼくがもし親になるならば、分が悪い賭けをした上で生まれてくる子どもにその結果を背負わせねばならない事実を見つめねばならないと思う。少しぼくの考えの話をしすぎたけれど、この物語では、既に生まれてしまったうーちゃんは、母親を不幸にしてしまった出産(≒自分の存在)を肯定できているのだろうかと、読み終わっても釈然としなかった。このテーマだけで一本発表が出来そうなぐらいだからここには全部を書かないけど、話したいことは沢山ある。
この本を読んで欲しいなと思う人が思い浮かぶんだけれど、そもそもこのnote読んでくれてるのかな。


既にこの本を読んでいる人はぼくに連絡寄越してください。是非会って語りましょう。

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